« 雑誌『緩和ケア』連載対談 「〈架け橋〉緩和ケア×哲学」第4-6回 | トップページ | 「心の映像」 ホスピスでの10年をふりかえって »

2012年2月 7日 (火)

レジ袋と急性期病院の偽装

Medium_5684720360

家の近くのスーパーに行くと、いつもの見慣れた張り紙が視界に入ってきました。 「地球環境、エコのため、レジ袋は用意しておりません。みなさん持参のエコバッグをご利用ください」 僕が買ったものは、確かに自分の持っているビジネス用のバッグに十分収まる程度のものしかない。「お手持ちのバッグに入りますか?」と声をかけられたので、一言「ここに入れて帰りますので」とレジのおばちゃんに答えました。さっきの張り紙の下にはご丁寧にも「一枚5円でレジ袋を購入できます」と書いてありました。

このエコという言葉は、いつのまにか今の現代人にはもう刃向かうことができないほどの神格化された言葉になろうとしています。レジ袋をやめてどの程度化石燃料が節約できるのでしょうか。薄いレジ袋よりも、エコバッグを何百回も使うことで、本当に地球の資源は保持され、枯渇への確実な道のりをいくらか延命することができるのでしょうか。科学的な分析をすれば、レジ袋の原料の分析だけでなく、その製造過程のコスト、運搬コストそれに関わる化石燃料のコストも計算する必要があります。一枚のレジ袋を356枚1年使うよりも、一つ2000円のエコバッグ1つ作る方が、合算された化石燃料は少ないことは確かなことなのでしょうか。
それでも最後の手段として1枚5円でレジ袋を手に入れることはできるのです。ここで一つの不信が芽生えます。スーパーがレジ袋代を節約することで、販売コストを下げようとしているのに荷担しているだけではないのか。「エコ」「地球環境」と明示すれば、この神格化された言葉は人の心を動けない状態にします。「え、それって結局店がけちってるだけでしょ?」とは言い出しにくい。こういう人の心を呪縛する言葉は、人を思考停止に陥らせます。そして多くの人達が、地球資源の延命に協力できることを信じて、スーパーの言いなりになっていくのです。仮に5円のレジ袋を買ったとしても、その5円は実はレジ袋の代金ではなく、私たちの罪悪感の代価としてスーパーに回収されます。そうなんです、エコとか地球のためとかいう、神格化された言葉に感じる罪悪感の軽減を図るしくみを導入すると、二重に客から代金を入手することが可能となるのです。レジ袋をやめて経費を削減し、さらに今まで無料で配布していたレジ袋を売ることができるのです。この罪悪感を軽減するしくみは、guilty free(ギルティー・フリー罪悪感なし)とも言われます。(引用)本当に地球環境の維持に貢献しているかという冷静な分析、解析を思考停止させるしくみです。プリウスなどハイブリッド車が多く売れるのも(かくいう僕もハイブリッド車です)ガソリン代金を節約する考えよりも、地球環境への貢献よりも、罪悪感の軽減であることに気がつきます。

そして、自分の働く医療の現場でもこのguilty freeな発想の言葉があふれています。それは医療者が語る「急性期病院」とか「急性期」という言葉です。
高齢化社会を迎えて、医療費が国の財政を逼迫するため、消費税の税率を増加させるという議論があることは皆さんご承知の通りです。厚労省も入院医療費を抑制することが医療費の圧縮に効果的ではないかと、ここ10年の間、4週間を超える入院になると医療費が格段に安くなるように価格設定しています。日本の医療は高い公費負担で運営されていますので、どの病院もいわば公定価格で運営します。当然入院が長くなると治療というよりも、生活の援助つまり療養が中心となります。かつては長期療養病棟という発想で対応したこともありましたが、4月からの医療費の改正を見ても分かるように、入院抑制、在宅医療の強化が盛り込まれています。
「暖かくなるまで、ここにおったらいいよ」「もうちょっと入院して大事をみましょうか」などという牧歌的な医者の一言はもう10年以上前に消えてしまいました。社会的入院と呼ばれ、患者さんは急性期治療が終わるとすぐに他の病院、施設、在宅へと、ご自分の状況はさておき、病院から出されていきます。
レジ袋とエコバッグの話とはちがい、さすがに病院内に張り紙はありませんが、事務職員、福祉系職員、看護師、医師までもが口を揃えて「この病院は急性期病院なので、長い入院はできません」と患者さん、家族に告げます。病院によっては、早々と入院初日から高らかに宣言されます。脳卒中で寝たきりでも、がんの抗がん剤治療で食欲がなくなっても、認知症で帰る家がなくても、数週間が過ぎればどこかへ行かなくてはなりません。どうして、弱った患者を病院の外に出すことが医療費の削減になるのか。「急性期医療」という言葉の呪縛による全くの思考停止です。エコと地球のため、病院と地域医療のためには、神格化された「急性期」という言葉を吟味してはいけないのです。吟味した途端(この患者さんは一人で生きていくことは無理だろうな)(長く通ったこの病院にいるのが幸せなのかもしれないな)(他の病院に行っても治療は引き継げても、今まで培った信頼は引き継げないかもしれないな)と考えて躊躇してしまうことになるからです。そうです、病院は、医療行為を行うことによって医師、看護師と患者とその家族の人間関係が出来上がる大切な場所です。病院は「地域医療の貢献」をうたっておきながら、その病院のすぐそばで暮らす患者をわざわざ離れた他地域の病院に送るのですから、すでに内的矛盾を生じています。

そして、医療職員は「急性期」という神格化した言葉を口にして心に浮かべることで、自分自身の思考を停止させます。「そうだ、自分が非道なことをしているんじゃない、厚労省が決めた方針に従っているだけなんだ。」「そうだ、この病院は急性期専門だから、これでいいんだ。」こうして罪悪感を軽減します。病気になるという、人間にとっては継続的な問題を、治療という限局されたシーンに切り取り編集することで、医学と治療は進歩してきました。そして、病気を急性期、慢性期(亜急性期?)といったシーンに編集して制度を組み立てています。このような編集で本当に医療費を抑制できるのでしょうか。患者数が増大すれば病院のキャパシティを超えることは容易に想像できます。しかし僕の周りの状況を見ると、これほど未整備な状態で病院から出て行かされた彼らに、今後誰が手をさしのべるのだろうかと疑問を感じずにはいられません。

患者さんの生涯続く、生活困難な「慢性期」をしのぐには、治療の場所を変え続けて「急性期」の連続を偽装するしかないのかと、本質的でない医療の提供に疑問を感じてきます。入院してなければ、外来です。小刻みに入院と外来を繰り返すことで、本当に医療費は軽減できるのでしょうか。しかし経営に参画していない働き盛りの勤務医にはマクロの医療費という概念はありません。ただひたすら、「急性期」入院、入院日数を減らすことで自分の所属母体には利益があるはずだと信じて奮闘し続けます。この「急性期」の言葉の前に、医療の本質に対する深い問いかけや、医道への憧憬はかき消されてしまいます。
医療の本質とは何でしょうか。本当に大事な医療の提供とは何でしょうか。医者個人が目の前の患者にしてあげられることは何でしょうか。現実感の強い医療費問題の光量に目がくらみ、既に医療の本質が見えなくなってはいないでしょうか。
そして見えなくなった医療の本質という微かな残像の記憶への罪悪感を慰めるために、このguilty freeを巧みに利用した、「急性期」の連呼を続けてはいないでしょうか。 「あなたを最後まで診続けます」という、至極単純な約束が医師、患者の間で交わされなくなった罪悪感は、本当に「急性期医療」の神格化された言葉で軽減することができるのでしょうか。

「あなたをずっと診たい。でもこの病院は『急性期』病院だから」
緩和ケアに専念し「あなたを最期まで診ます」と患者さんと約束できることが自分にとって一番大切にしたい医療の本質なんだと今考えています。そして、わずかに思考が稼働している僕には、レジ袋がスーパーから消えたことが地球環境に貢献するのか、入院抑制と「急性期」という言葉で医療費の削減と医療の質が向上するのか、その事に大いに疑問を感じるのです。

こう書いていると、以前から感じていたもう一つの疑念が湧いてきました。信じたくありませんがひょっとしたら、医師や看護師が「急性期の患者」だけを診療したいのかも知れません。急性期の成果(アウトカム)が短い時間で実感できる患者だけを診療したいという欲望。手術だけ、限られた期間の治療だけ、そして「回復する患者」だけ。自分自身の欲望を満たすための「急性期」であるならば、その言葉はguilty freeから解き放たれて、病院が患者を選ぶ、選民とも言うべく取捨選択、生殺与奪という新たなパワーを秘めた言葉となります。

「あなたはここにいるべきではない。なぜならこの病院は『急性期』病院だから」
「急性期」という言葉には、患者、家族と一方的に別れを告げる罪悪感を軽減するguilty freeな観念があり、それが心ある医師や看護師の心を慰め続けてきたと僕は考えています。また、「急性期」という言葉は、もう一つの邪悪なパワーを身にまとったことも感じています。それは、「急性期」病院から取捨選択の後、「捨てられた」患者さんが緩和ケアに紹介されてくるのではないかと時に思うことがあるからです。こんな現状を黙って感じながら、僕は今後の医療と緩和ケアの行く末を案じているのです。

レジ袋の消滅がエコ、地球環境という神格化した言葉で偽装され、エコバッグというguilty freeな商品を大量に世間に広めたように、医療の本質の消滅が急性期病院という神格化した言葉で偽装され、いつの間にか緩和ケアがguilty freeな医療として広まるのだとしたら、何かがおかしいと思うのです。

|

« 雑誌『緩和ケア』連載対談 「〈架け橋〉緩和ケア×哲学」第4-6回 | トップページ | 「心の映像」 ホスピスでの10年をふりかえって »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: レジ袋と急性期病院の偽装:

« 雑誌『緩和ケア』連載対談 「〈架け橋〉緩和ケア×哲学」第4-6回 | トップページ | 「心の映像」 ホスピスでの10年をふりかえって »