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2011年12月

2011年12月31日 (土)

2011年の10大ニュース

2011年をふりかえって、今年の自分にとって10大ニュースを振り返ってみたいと思います。

1. 開業を決断したこと
今のホスピスで働くことに、何の不満もありませんでした。病棟の仲間も学会や業績に関わる働きも、病院内の他の科のドクターや他の病棟のナースとの関係も全くストレスなく、10年が過ぎました。30代の背伸びをして鼻息を荒く、理想を目指すといった力の入った展開は、もうこの数年は全くありませんでした。「もう、これで十分お勤めしたかな」という感じで静かに違う道へ行こうと思いました。疲れ切って不満と疑問のかたまりになり、今の場所ではないどこかに自分のふさわしい場所があるとか、さらに自分を高めるために新しい分野に挑戦するといった感じではありませんでした。転機というのは、自分の力でどこかへよじ登っていく感じではなく、こう、横へ自然にスライドしていく感じです。今の場所に満足して、スライドしていく。在宅医療、往診を専門にした診療所を作りますが、何も「在宅医療」とか「在宅ホスピス」ということがしたいという感じではありません。小さな場所で、小さな仕事を積み上げながら、そこに住む人達と関わりたいというのが今の率直な気持ちです。ホスピスにいると実は地域性というのは感じないんです。どうしても、疾患や、家族背景という属性に自分の心の中に患者さんを収めてしまうのです。今はこんな風に思っていますが、来年の今頃はどう振り返っているでしょうか。
でも、こんな自分の決断を快く応援してくれる両親には一番感謝しているんです。神戸に残り実家に戻らない長男を放任してくれました。

2. 学会のガイドラインを出版できたこと
確か、2007年の学会で当時ガイドライン委員長だった先生からホテルのロビーで声をかけられました。時々消化器症状に関する論文やら、依頼原稿を書くことが多かったからか、「消化器症状に関するガイドラインを作ってくれないか」と命じられました。当時はガイドラインの作成もほとんど進行しておらず、その後に大きなプロジェクトに自分の時間を費やすことが多くなったので、そのまま手を付けずに置いてありました。しかし、2009年から痛み(疼痛)に関するガイドラインの作業も本腰になり、その作業をそのままトレースすることで、呼吸器症状消化器症状の2つのガイドラインを同時に進行させ完成させるという作業を1年半で完了できました。原稿のやりとりや作成も低予算にするために、ネット上で作業したり、印刷、編集者の仕事DTPに関することを自分が引き受けたりと、論文を読み、原稿を直す作業と同時に、編集者の作業にもあたりました。「大変ですよね」と声をかけられることが多かったのですが、自分は楽しんでやっていました。お陰で2冊の本を出版できました。

3. 東日本大震災の援助に行ったこと
神戸で働きながらも、患者さんやら職員やらが阪神淡路大震災の話しをする度に内心は申し訳ない気持ちでした。子供たちも小学校で大震災の話しを学んできますし、当時の口承を教えてもらっています。阪神淡路大震災の当時僕は、大学5年生でした。名古屋にいる頃で、ボランティア活動がさかんだという話しを聞きながらも結局は何もできずにじっとしていました。あの時の後ろめたさにちゃんと区切りを付けないと思い、地元のすまぁとの吉田さんと原田さんの3人で南相馬市へ4日間行ってきました。4月の下旬でした。組織からの派遣で行かず自由に行動するために全て手弁当で行きました。また、自給自足、テントでの活動というのは僕にはできないと思い、(軟弱なシティーボーイなのです)比較的状況が整った場所を選びました。また組織で派遣されているところではほとんど僕らのように自由に行動するタイプのチームでは相手にされません。人を必要としているのに、派遣がない場所、それは原発に近いところに違いないと思い南相馬市の病院へ直接電話をして行きますからとお伝えしました。南相馬市立総合病院の金澤院長、及川副院長には本当にお世話になりました。そして「自由に活動したい」理由は観光とか、誰の束縛も受けたくないという話しではありません。避難所で医療活動をして、その後に、楽器演奏がしたかったからなのです。僕にできることは医療と音楽だったのでバイオリンを持って、診察が終わると原田さんのギターに合わせて演奏していました。組織で行くとこういうわけにはいきません。また吉田さんも原田さんも同じ職場ではなかったので、こういう形で行く以外ありませんでした。
現地の状況は4月下旬、徐々に落ち着きを取り戻しつつありましたが、自宅が津波で亡くなった人たち、原発事故で家はあるのに帰れなくなった人たち、それぞれの事情を抱えながら時を過ごしていました。
この時のボランティア活動を通じて、しばらく忘れていた医療の原点を思い出したこと、良い仲間に恵まれた(そそのかされた)ことが、開業へ舵を大きく切り替えた大きな出来事でした。その時の詳細はこちらです。

4. ジョギングを始めたこと
7月のある日、当直明けで午後に家に帰り、なぜかふと思いたち近くの川沿いを約4kmの距離ですが走るようになりました。本当は運動が嫌いで、ジョギングとかそういうのは全くしようと思わなかった僕ですが、全く理由もなく走り始めました。もともと太るのが大嫌いで、食べ物に気をつけて生活していたのですが、走るようになったらやっぱりおかずがおいしくておいしくて。それ以降毎晩のように走り続けています。ジョギングを始めたときに71.5kgだった体重は、67.2kgまで減りました。体重だけは大学卒業前と同じです。でも、未だになぜ自分が毎晩走り続けているのかその辺りは自分が一番よく分かりません。

5. 哲学の苫野先生と、緩和ケアで連載を始めたこと
ネットで知り合った苫野先生と対談という名の往復書簡を始めました。僕が考えた医療の言葉ではうまく対応できない問いを、哲学を専門にしていらっしゃる、また若い苫野先生がどう考えるのかという連載です。すでに4回終わり、あと2回で終わりです。1ページしかもらえなかったので、当然1回1回の話しがおさまることはなく、その拡大バージョンを苫野先生のホームページで公開しています。苫野先生は、もともと教育が専門で今年単著を出版されました。私も読み大変興味深く参考になる本です。医療という言葉で閉じ込められた、緩和ケアを何とか解放したいと思い続けている連載です。ウェブでの公開はこちらです

6. クルマを新しく買ったこと
この数年は、燃費の良いハイブリッド車に乗っていました。プリウスに4年間乗っていたのですが、この車に乗っていると何というか、去勢された気分がして走ることには全く支障はないのですがどうしても耐えられず、ついに今年発表になったレクサスのハイブリッド車に乗り換えました。燃費がよいということは、高騰するガソリンに耐えかねていると言うことではなく、最近聞いたラジオ番組でまさに的確に自分の心理を表現していました。それは guilty freeということです。地球の環境負荷を少しでも減らした生活がしたいというあらわれなのですが、最近の世の中では行き過ぎたエコが目につきます。それでも消費者の罪悪感の軽減、まさにguilty freeなクルマに飛びつきました。去勢された気分ですか?ええ、もちろん解消致しました。

7. 長男の受験が佳境を迎えたこと
今の中学受験は本当に大変です。自分が名古屋で挑戦していたときよりもずっと難易度もまた分量も多くなっています。国語の問題文をみると、大人でも読み応えのある論説文が多く出題されていました。また小説も子供らしい牧歌的な心理過程を描くものだけではなく、とても細かな感情を読み取る問題も多く、時代の差というよりも、出題する問題作成の高度化を感じました。子供にとってはとても過大な時間を塾や勉強に費やします。妻も弁当作り、僕も宿題の手伝いと親子の共同作業です。何も学歴を重んじて、良い学校に入れたいと言うことではないのです。中学、高校の多感な時期を思う存分受験なしで過ごして欲しい、公立中学のように内申点を重視して3年間、気が抜けない状況で過ごすよりも、この1年でがんばりきってほしいと思い取り組んできました。
受験を通じて子供の通う学校に望むことは段々と夫婦の間でも焦点化してきます。その一つの思いは「良き友人と、素晴らしい師に出会ってほしい」ことにつきます。偏差値のランキング表は特に気になりません。そして、大学生の時に多くの家庭教師をして、多くの子供たちとのふれあいを通じて学んでいたはずの僕でしたが、子供にはなかなかうまく対応できませんでした。僕が心に誓い学んだことは、「100回できなくても、微笑みながら、100回教えてあげること」でした。「なんでわからんのじゃ!」と怒鳴っても「あ、そっか思い出した」なんていう子供は一人もいません。怒って知的な能力が向上することはないというのが僕の結論で持論です。あと半月で本番を迎えます。僕ら家族の正月は2週間お預けです。

8. ベッドで眠れる日々を取り戻せたこと
全く私的なニュースですが、大ニュースです。子供が出産する度に5-6歳までは母親、ママと寝ます。つまり僕はベッドから排除され、客用の布団を寝室の隅に上げ下ろしする生活が続いていました。この2月に、部屋をリフォームし、あふれるものたちを拡張した納戸に収め、子供たちに部屋を与え、そして僕のベッドもついに手に入れることができました。苦節4年。久しぶりにベッドでぐっすり眠れる生活を取り戻しました。いや、ホント睡眠は基本です。

9. 新しい知り合い、友人と出会えたこと
ネットや地元の会を通じて色んな方と知り合うことができました。作家の田口ランディさん、大野更紗さん、そして阪大の佐藤先生。すまぁとの吉田さん。どなたも自分の今までの生活では全く縁のなかった方々です。色んな時間を過ごしながら自分の見聞を広げることができました。皆さんのバイタリティとまたお人柄に感激する日々です。
田口ランディさんとは、東日本大震災の直前に神戸でお会いしました。その時の面々もとても楽しい異色な方々でした。その時に語っていた、レオ・シラード(原爆の開発に関わった学者)の話しの直後に原発の事故でした。その後、田口ランディさんは「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」という本を出版されました。推薦の一冊です。どうか皆さんも一度読んで下さい。
また、神戸に来てから仕事と関係のない男友達が本当に少なかった自分にとっては(なんだか淋しいやつですね)同い年の佐藤先生とは話しも楽しくほぼ毎月の例会で、何だかつかみ所のない、でもとても重要な話しをするのを新しい喜びにしています。
また今年も全国、東京、山形、熊本、川越、広島、滋賀、京都、名古屋、地元神戸いろんな病院から講演をご依頼頂きました。あちこちでお会いした新しいご縁に感謝しております。これからは講演も少なくなると思うのですが、またお会いできると良いですね。何で少なくなるか?それはやはり自分の所属あっての講演依頼なんですよね。ピン芸人として売れるまでにはまだまだ修行と執筆が必要です。

10. ブログが読まれるようになったこと
2009年にとある方からのすすめで、ブログを書くようになりました。自分の思ったことをできるだけ書き留めておいた方がよいと言われ半信半疑で始めました。とにかくブログは私的な場所だったので、「誰かが読んでいる」「誰かに読んでもらうために書く」ことはしないようにしていました。読み手を意識すると、自分の書くことに、装飾や媚びが含まれてしまう、またどれくらい読まれているかをどうしても意識してしまう。それがいやでした。しかし南相馬市へ支援へ行ってから書き方を改めて、やはり自分の心の中にいる架空の読み手に向かって語りかけることが増えてきました。また、以前ホスピスでご家族の看取りに関わらせて頂いたご遺族の方が、「センセイは良い文章書いているんだけど、日本語がダメなのよね。ちゃんと直してあげるから一度アップする前に見せて」と僕専属の編集者になって頂けました。僕は推敲が苦手で、いつまで経ってもゲラを直し続けてしまう悪い癖があるので、本当にありがたいお話、謙虚にお願いしています。お陰でまとまりのある文章を書くことができるようになりました。
自分が日常目についたことと、もう一つ全く関係ないように見えるけど僕にとっては大事なつながりのある二つのことをうまく結びつけることができそうだという、予測ができたときに、書き始めます。書き始めたときにはどう着地するかはなんとなく予想していても、途中の道筋が変わっていくとまた着地点も変わります。そんな時には自分の内部へと渦巻きを描くように入り込んでいく文章をまとめては、発表してきました。色んな方が広めて下さったお陰でびっくりするくらい多くの方が読んでくれているようです。今年も一年ありがとうございました。締め切りと文字制限のない文章を書けるのは、とても僕にとっては喜びです。

2012年はどんな年になるのでしょうね。また来年お会いしましょう。

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2011年12月16日 (金)

患者を信じるということ

Istock_000006334794small 最近こんなことを患者さんに言われました。
「先生、この薬は私に合わないから変えて欲しい」
がんの鎮痛薬で、確かに副作用の多い薬だけど、その方には一番合うだろうと考えて選んだ薬でした。若い頃の僕なら、こっちは専門であらゆる薬の知識と経験は十分もっている。治療の素人の患者さんに、あれやこれやと薬について指図を受けたくないと内心むっとしてしまったかもしれません。でも、今の僕は全くそのようないらだちは感じません。持て余していた不快感のない自分をみつめて、自分でもどうしてなんだろうとしばらく考えました。臨床経験も長くなり、自分なりに色んな経験を積む中で「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の心境なのかと考えてもみましたが、どうやら違うようです。その理由は、一言で言えば「患者さんを信じる」ようになったからです。でもその信じ方は、以前自分が考えていたやり方とは違うのです。

色んな患者さんとお会いする内に、どうしてなのか患者さん自身も分からないけど、薬が合う、合わないが分かってしまう方と何度か出会ったことがあります。飲んでみると、自分に合うのか合わないのかが分かるんだそうです。それは、観察者である医者には分からない感覚です。その患者さんの身体感覚が微妙な差を感知して、こちらに言葉として伝えてくるのです。人は言葉で対話しますから、医者は「なぜ合わないのか?」と理由を聞きますが、恐らく患者さんは、自分は確信して感じている身体感覚を無理矢理言葉に翻訳して、「変えて欲しい」と話すので、本当の理由は患者さん自身もうまく言葉にできないんだと思います。理由を聞かれてしまうので、どうにか理由をつけて医者に答えなければならない。だから本意はうまく伝えられないけれども、脳はその身体感覚を何とか言語化して出力せざるを得ない。そんな状況なんだと思います。
この方には、「理由はよく分からないけど、じゃあ別の薬に変えてみましょう」と答えてすぐに代わりの薬を準備しました。

次の部屋に行くと、患者さんにこんな事を言われました。
「先生、サイダーと寒天がどうしても食べたいの」
がんのため、腸がうまく働かずほとんど食事をすることができない方です。普通の食事ではなく、思い浮かぶ食べ物は、サイダーと寒天だったようです。側にいるご家族は、「そんな栄養のないものを摂ってどうするの。きちんと栄養のバランスを考えた食事を病院で出してもらえばいいじゃない」ともっともな意見でした。

がんの患者さんが、どういう栄養をどのくらい摂るのが良いのか、科学的な見地から研究することは可能でしょう。その栄養をどのようなものさしで測って、患者さんのどんな変化をものさしで測るのか、そして適切な対応を考えていく、そんな研究も数多くあることでしょう。また「おいしいと思うものを食べればよいのです」と経験から助言することもできるでしょう。老成した医者が「食べたいものを、好きなだけ食べればよいのじゃ」と超越した一言で患者さんに話しかけることもできるでしょう。「どのような食べ物、栄養が良いのか」と問われれば、少なくとも二人以上に通用する様な答え方をするしかありません。目の前の患者さんにだけ有効な助言を創出できるほど、医者は万能ではありません。一人一人違う患者さんを、十把一絡げにまとめた助言を開発しないと、ここでうまくいったことが、また別の人にも通用するという、科学としての性格を帯びません。そして、医者が信仰する医学とは科学ですから、何かしら法則を見いだし、法則に基づいた助言を医者の脳は出力し、言語に翻訳した後に、患者さんに助言します。

患者さんは、自分の身体感覚を脳で翻訳し、医者は、自分の知識を脳で翻訳し、お互い言語化して伝え合うのです。でも、僕は精神科ではありませんから、本当は身体を診ていますし、相手もがんという身体の病気です。それでも、一度脳という装置を駆動させて初めてお互いの考えを交わし合うのです。身体、脳、言語この過程で、色々な事の本質が見失われることがあると今の僕はつくづく感じています。患者さんも僕も、自分の考えていることをうまく伝えられていないのではないかという、根源的な疑問がわいてくるのです。そして、僕は「患者さんの身体感覚をまず何よりも信頼し、優先する」と、ある日決めて以来、全ての問題に対処するようにしてきました。

最初の「薬が合わない」と伝えてくれた患者さんには、「そうですか、あなたの身体がそう感じるのなら、きっとそうなんでしょう。では次の方法を考えます」と、それ以上理由を聞かずにすぐに薬を替えてしまいました。傍目には、患者さんが言うことをきちんと尊重しすぐに対応する医者だと好感を持つ人もいるでしょう。また反対に、患者さんが言えば、すぐに自分の考えを変えてしまう、プロ意識の低い医者だと反感を抱く人もいるでしょう。
そして、次の患者さんにはこんな風に答えました。
「あなたが欲しいと思い浮かべているものは、あなたの身体が欲しているもの。きっと身体が欲しがっているものには僕にも分からない大事な意味があるのでしょう。欲しいものを食べてみて下さい」と、余り根拠のないとってつけたような栄養指導などせず、患者さんの感じた身体感覚を全面的に支持しました。

患者さんは、自分の身体をきちんと感じながら毎日を生きています。僕はこういう患者さんの「身体感覚」を全面的に信頼しています。そして、患者さん自身が、自分の身体感覚をきちんと受信できるようにするのが、医者としてまず大切な関わりだと思うようになったのです。それはまず呪縛を解くことです。「医者に薬の注文をしてはいけない」「何よりも栄養のバランスを考えて、三食規則正しく食べなくてはならない」こういう脳の呪縛から、患者さんを解放していくための関わりが、まず大切だと思うのです。患者さんが感じている、ぼんやりとしたまだ形がないような身体感覚を、ソリッドでクリアな言語にしなくてもぼんやりとしたままの言葉で話せるような、そんな時間を作らなくてはなりません。それには、高度なコミュニケーション能力が必要です。オープンにしろクローズにしろ、クエスチョンをもっていつも医者は患者に話しかけてしまいます(注)。つまり、絶えず何かしらの目的を持った接し方を医者はします。でも身体の脳のあわいから、ただぼんやり出てくる言葉は、そういう接し方からは生まれてきません。またただ笑顔を浮かべて親近感を表し、丁寧な言葉で、適切な接遇を守り、ベッドサイドで座っていても、そんなあわいから出てくる言葉の受信感度が低い医者には、決して患者さんは話し出そうとしません。徐々に患者さんの感じたままをぼんやりと話せるような関係を作っていけば、うまく理由は説明できないけれども、こうした方がよいという患者さん自身の身体の声を、患者さんがきちんと聞く耳を持つようになります。こうして、患者さん自身が、自分はどうしたら良いのかを徐々に把握することができると僕は信じているのです。「今の身体は、何を欲しがっているか」を受信できれば、自分で何を食べたら良いのか分かります。また「今身体は、食べない方がいい」という警告を受信できれば、苦しい症状を回避することもできるでしょう。

多くの情報や家族の助言から上意下達、脳の生成した「よいやり方」を、自分の身体に無理矢理適応しないような手伝いも、必要だと思います。情報からの強い呪縛を解くには、呪縛に打ち勝つための助言が必要です。呪縛に打ち勝つ方法にはいくつかあります。医者のカリスマで打ち勝つ方法、科学的見地、エビデンスで打ち勝つ方法、様々な方法があります。でも「あの先生が言うのだから間違いはない。私はただあの先生に従おう」とか「あの本に書いてあることはウソだったのか。ホントのやり方でこれからは生きていこう」と、こういうやり方で呪縛を解けば、相変わらず、脳が身体を支配する上意下達の関係は持続します。こんな風に、脳が身体の判断を抑制するという呪縛から患者さんを解放するのに、さらに強い抑制を生成するようなやり方は、本筋ではないと僕は考えています。ですから、あくまでも、患者さんが感じているぼんやりとした考え、身体感覚という直観が、研ぎ澄まされる方法はないだろうかと模索し続けているのです。

薬の副作用をどう制御するか、栄養をどう調整するかよりも、患者さん自身の身体感覚が、どうしたら良いのかきちんと道を示してくれます。患者さんは医者である僕よりも、ずっと時間を先取りしているのです。僕はただ、患者さんの迷いを確信に変えていく手伝いをするだけです。ですから、「あなたがそう思うのなら、きっとそれが一番良い方法なんでしょう」とこれからも答え続けることでしょう。

さいごに、よく研修医に話すことなのですが、真夜中の救急外来で、なんでこんな程度で病院に来るんだと苛立ったときに、まず患者さんに聞きなさいと言うことがあります(幸い僕の勤務する病院は、夜中の受診は少ないので、対応する自分に心の余裕があるのです)。それは、「どうして、こんな夜遅くに、今日は来たんですか?何かいつもとは違う異変を身体は感じたのですか?」と。患者さんに、脳の判断で身体を支配するようなやり方ではなく、まず何を身体から受信したのかを聞くのも違う地平が広がる良い方法かもしれません。「何かいつもと違う感じ」そんな患者さん自身の身体感覚と直観を、上意下達、脳と知識、エビデンスで支配された医者は、うまく受信できなくなっている気がするのです。すると、結局患者さんが何で夜中に来院したのかという本音が分からず、物事の本質を見誤る可能性だけでなく、(何でこんな軽い状態で真夜中に来るんだ)と苛立てば、思わぬ諍いを引き起こすかもしれません。「うまく説明できないけど、何かおかしいんだ。何かいつもとちがうきがするんだ」そんな小さな声を相手から聞こうとするのが、本当に患者さんの話を聞くことなのかも知れません。こういう小さな声が聞こえるようになれば、医者として(何かヘンだ)と自分の心に小さな声が浮かぶようになります。それはあたかも、真作と贋作を一目で見抜く、美術商の能力です。それは何も超能力のような特別な能力ではないのです。経験と、相手の小さな声に耳を傾ける姿勢が必要なのでしょう。

あなたは、自分の身体から発する警告を、素直に受信できますか?
そして、医者であるあなたは、相手の小さな信号を、自分の脳で支配することなく、まず受診することができますか?

注)オープンクエスチョン、クローズドクエスチョン
医療におけるコミュニケーションの用語。例えば初めて出会う患者に医師が、「今日はどうされましたか?」と聞くのがオープンクエスチョン。患者は、自分が感じていることを自由に答える事ができます。「喉は痛いですか?」と聞くのがクローズドクエスチョン。「はい・いいえ」という答えを限定する。患者は、自分の状況を医師が導く質問に沿って簡潔に答える。どちらがよいやり方というのではなく、どちらも疾病情報を収集する上で大切な方法。

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