« 専門家に宿る、オタクな目の光 | トップページ | ホスピスはどこへ? »

2011年11月 8日 (火)

無関心の時間

Istock_000009941499xsmall 今朝いつものように新聞を読んでいると、先月中国でおこった2歳女児のひき逃げ事件についての記事に目がとまりました。これは、ひき逃げされた女児が泣いているのに助けようとせず通り過ぎる人達の姿が防犯カメラに映っており、結局この子は2回目のひき逃げで亡くなってしまったという、痛ましい事故の話でした。このニュースによると、実際に素通りした18人に聞いたところ、「自分が気づいていたら、きっと助けた」「気がつかなかった」(本当はどうかわからないが)というのです。これを最初に目にしたときには、中国の人々の心理に疑問を感じたのですが、自分の周りにもひょっとしたらこれは根が同じかもしれないと思うことがありました。

 

自分の職場の病院では、毎日のように、入院患者を訪れる人が詰め所に声をかけます。付き添いのご家族が、駐車券の割引サービスを受けるために立ち寄ることもあります。そんな時に偶然、顔見知りのご家族に出会うと、今日一日の出来事を話したり、患者さんと一緒に部屋にいるときには話せない家族への声かけをしたりします。患者さんの前では努めて明るく振る舞うご家族も、本当は心に闇を抱えています。家に帰る前に、詰め所に立ち寄る表情と、病室での表情とは全くちがうことも度々です。そんな様子を感じた看護師や僕は、時には声をかけ、ご家族の不安や心配をできるだけ言葉にして話してもらう最初のきっかけにすることも度々あるのです。声をかけた後、ラウンジの椅子に座り、毎日の看病の苦労を聞いたり、その方が家に帰ってから毎日どんな様子なのか話したりします。時には、残った時間の見通しを聞かれたり、本人の前でどう振る舞ったら良いのかといった家族の悩みに対応する事もあります。「こういう事は聞きにくいのですが・・・実際の所あとどのくらい生きていられるでしょうか」「毎日、急に病院から電話がかかってくると思うと、夜も眠れないんです」「本人にどんな顔をして毎日接したら良いのかわからないんです」

僕が10年ホスピスにいて分かったことは、患者さんには患者さんの、家族には家族の悩み、迷いがあり、それは同じではないということです。なにも家族は本人に聞かれないようにこっそりと裏で真実を知りたいということではないのです。本人を前に言い出せないこと、使えない言葉など、自分の言動を見張っていることでとても緊張している方も多くいらっしゃるのです。一つ一つの悩みを聞きながら、どうしたら良いのか一緒に考えていきます。しかしそれは諭すのではなく、今まで出会った患者さんから「どう家族は接して欲しいか」「家族に求めることは何か」を教えてもらったことを伝えたり、「家族として振る舞いを変えない努力」について話したりします。(過去のエントリーを参照)こういう一連の会話を「家族ケア」と呼びますが、僕は家族の方々が悩み迷うことにただ対話しているだけで、構えてケアをしているという意識はありません。たまたま詰め所のカウンターに座り仕事をしているとき、廊下を歩いてくるご家族の姿を視界に捉まえる。その時の家族の表情から、(ああ、今は話しかけた方が良い)と思ったときには、カウンターまで到着した時に話しかけるのです。「今日はどんな一日でした?

 

話しかける自分の心には、「患者の悪くなる状況を家族に理解して欲しい」「ちゃんと診療していることを家族に証明したい」「患者の事に関して後であれこれ言われないように予めちゃんと話しておきたい」という気持ちがどうしても起きるときもあります。自分の考えていることを、家族に伝えたい、理解して欲しい、これから起こる悪いことに備えて家族の気持ちを固めておきたいと考えると同時に、後から自分が責められたくないという利己心が生まれてしまいます。そんな時は気が重くなりますが、結局そういう思い気持ちを上回る「家族の悩みに対応したい」という信念が、話しかける勇気と微笑みを生み出してくれます。

 

それでも僕も人の子、どうしても勇気と微笑みが出てこないときがあります。仕事が立て込んでいるとき、仕事を早く終えて次の用事に向かわなくてはならないとき、自分の体調が今ひとつで心に余裕が持てないとき、休日出勤で気持ちが急くときそんな時は、視界に入ってくるご家族に気づきながらも、詰め所のカウンターに置いてあるコンピューターと格闘しながら、気がつかない「ふり」をして必死に仕事をしているオーラを周囲に発生させます。そして、いよいよ家族と自分の距離が縮まると、ご家族と目を合わせないようにしてしまう、そんな自分がいやだなと思いつつも心の中では、(僕以外の誰か、このご家族の対応をして!明日は絶対僕がするから、今日だけは許して、お願い!)と叫んでしまうのです。そして次の日にはもちろん真っ先に時間を作るようにします。しかし、その意図した無関心は自分の心に蓄積されます。

まだ時間が残されているときは、やり直す時間もあります。でも、ホスピスで過ごす短い生死のはざまの時間の中で「今この時」を見逃すともう二度と時間がないときだってあります。「ああ、今日は家族と関係のない話をしたい」「今までがんばっているご家族に一言ねぎらいの言葉をかけたい」そう思っても、小さな僕の利己心が意図した無関心の空気を作り出し、ほんのわずかな機会をやり過ごしてしまう。今までそんなことは何度もあったように思います。

 

ほんのわずかな時間ではありますが、この利己心が作り出す“無関心の時間”が自分にだってあるのです。この無関心が、きっと素通りした中国の18人の心にあったのではないかと考えるのです。何か理由を他人から問われれば、それらしい答えを無理にすると思うのですが、真実は「自分の事で頭がいっぱいだった」のだと思います。

 

僕がホスピスで、ある患者さんとそのご家族に朝から多くの接する時間があり、90%の仕事をちゃんとしたとしても、残りの10%が残ってしまういやな感触を感じるときがあります。それは人から見れば小さなことかもしれません。でも自分では、利己心と意図した無関心が残りの10%を作っていることを自覚しているのです。この10%を埋めるために、休日も時間外もプライベートも差し出すのか?と言われるかもしれません。でも違うのです。残りの10%を埋める時間は本当にわずかな時間でいいのです。詰め所のカウンターに現れるご家族と目を合わせて、「今日もお疲れさまでした、また明日」と微笑むだけで、もう残り10%のうち8%は達成できると思います。そのわずかな時間すらやり過ごそうとするこの無関心が、弱い自分にあると同時に中国の18人にもあったのではないでしょうか。悪意ある無視ではなく、小さな利己心からの無関心。それが重なり一人の幼い子供が亡くなるという大きな事件になってしまった、そんな気がしてならないのです。

 

百里の道は九十九里をもって半ばとす。本当にあと少しわずかな関心と言葉、そして微笑みが大きなケアの力になると僕はいつも思います。そして最後の一里の瞬間は、死を目前にした患者さんには、取り返しの付かない瞬間です。その瞬間を見逃さない千里の目、千里眼を身につけたいと希求するのです。

|

« 専門家に宿る、オタクな目の光 | トップページ | ホスピスはどこへ? »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 無関心の時間:

« 専門家に宿る、オタクな目の光 | トップページ | ホスピスはどこへ? »