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2011年9月

2011年9月27日 (火)

なぜわれわれは病者に手をさしのべるのでしょうか?

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苫野先生との連載対談第2回です。
今回のテーマは

第2回:なぜわれわれは病者に手をさしのべるのでしょうか?

です。

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2011年9月22日 (木)

新たなバーンアウト?

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緩和ケアでは、ケアをする側が折れてしまうバーンアウトの問題があります。以前からこの問題は語られていますが、僕にとってもとても大事なテーマの一つです。バーンアウトの原因は様々です。毎日死にゆく患者さんを見守っていると、自分自身の生死に対する考え方は当然影響を受けます。不安な気持ちに揺れる家族と会話しながら自分を振り返ることもあるでしょう。僕自身も、毎日患者さんや家族の苦悩の言葉に包まれていると、自分の平静を保つことが難しくなってきます。そして、自分が感じていることをうまく看護師や周りに話せない時、受け取った苦悩のメッセージがまるで自分の苦悩のように思えてくるのです。こうして、感応した自分の心をどう健全に保つかは、この緩和ケア、ホスピスで働き続ける上で、とても大事な自分自身への手当て(ケア)なのです。

以前、こんな風に話して辞めていった同僚がいました。
「毎日自分の家族(=患者さん)のために尽くしている家族をみていると、自分が家族のためにちゃんとできていないってそう思えてくるんです」
こんなことを言って去った同僚も居ました。
「もうここでやりたいと思ったことは全部終わってしまいました」

職場に不満を感じ、許し難い欠損を口にしながら去る方も多くいらっしゃいました。僕は色んな病院で勤務したので分かります。どの病院にも、いやどの職場でも、どの世界でも、どの政権でも、どの役所でも人間が集まるところ、構造的な欠陥は必ず生じます。自分の理想や夢を殺さずに、ちゃんと現実に片付けなくてはならない仕事や自分でなくてもできる仕事も多く引き受け、社会の中での自分の役割を黙々とこなしながらも、同僚に対して厳しすぎず甘すぎず。例え考えが違う人同士でも同床異夢、同じ場所からそれぞれの夢を追いかければ良いと思うのです。違う夢を追いかけることができる場所を、みんなが壊さないように、壊れないように、静かなでも強い気持ちで維持しなくてはならないのです。構造的な欠陥を憂い、全てを破壊して作り直せばよいと人はつい短絡的になりますが、そういうリセット願望は何も生み出しません。更地になるまで破壊した後残されるものは何もなく、そこには以前その場所で夢を見た人々の念が残るのみで、何ら創造的な未来を予感させる芽生えはありません。次にその更地に構築する真新しい構造物は、最近の高層マンションのように一見効率的にできあがっていても、何ら文化がないただの社会的装置に過ぎません。もし職場を破壊し作り直しても、そこには効率を求めるのみの、今までよりもっと窮屈な職場が存在することでしょう。

僕はどういう形で転機を迎えるのか、この数年じれったくもあり、また楽しみな毎日でもありました。転機を待ちながらも職場に全く不満はなく、今の職場、ホスピス病棟の何を改変したいという思いもなくなってきました。僕の考える医療は、洗練はあっても進歩を目指す必要はないと思っています。どうせ数年で今までやっていたことが根底から見直される、そんな世界です。不確定な足場で進歩を目指すよりも、確かな足元を固めていきたい。僕の関心は、病人と医師との心の交流そのものに移ってきました。いつまで経っても病人は困り続けています。ホスピスに来て10年、痛みで苦しむ人は確かに減りました。それでも相変わらず「わたしを一番支えて見守っているのは誰なの?」という病人の根源的な問いに未だにうまく応えられない。「この病院では治療が終わったら次の病院へ」「こちらでは入院の方だけです」「入院が長くなるのは困ります」病院では「適応」と言葉を変えていますが、結局は「こういう患者を私たちは選びたい」と宣言しているようなものです。病院の用途に従って「連携」という言葉で患者さんを移動させて、「うまくいった」「いかなかった」と語り合うのをみていると、ああ、何も変わらない10年間だったとも感じます。「死に場所を患者さんは自分自身で選ぶことができる」という主張のもと、病院の連携を主張、発表する方々が多くいらっしゃいます。でも僕が知っている患者さん方は「どこで死ぬか」という自分の権利を行使する強い人権の主張者ではなく、また「どの治療よりも優れた治療を受けたい」と医療行為に商品的価値を求める消費者として賢明な行動をとろうとするのでもなく、ただ「心から信頼できる医師や看護師に出会いたい」と考える、普通の心の持ち主の方々でした。信頼できる人と苦難の道を歩んでいきたい。そんな純粋な思いには、自律とか自己決定とか、ましてや自己責任という言葉は何とも不似合いな気がしてなりません。

そんな事を考えていると、自分自身の心構えが変わってきました。患者を選ばず、自分たちから手を離さず、同じ社会の構成員であると実感し、制度を嘆かず、自分のできることを探し、そして職場のみんなと一緒に年をとっていく。自分だっていずれは病を患い彼らと同じ患者になることを確信しているからこそ、今、力のある元気な自分が何を為すべきかを考えるようになりました。
「どこで仕事するか」「いくら稼ぐか」「どこの病院よりも優れた医療を提供したい」という、どんな仕事がしたいかではなく、患者さんと同じく、「心から信頼できる医師や看護師に(同僚に)出会いたい」つまり、一緒に仕事したい仲間と、高いプロ意識を持って仕事をする。そういうスタンスで仕事をしたいと考えたときに、ホスピスでの10年を終える覚悟ができました。

また東北の大震災は、自分の考えに大きな影響を与えました。仲間と3人で福島へ行ったときに、家を奪われ体育館や教室で身を寄せて過ごす人達とふれあって色んな事を感じました。不自由な生活の中でも会話と笑い、思いやりとねぎらい。怒りと感謝があふれていました。病院の中にはないむきだしの雑然さも新鮮でした。医療の中に組み込まれたいつの間にか緩和ケアに忘れていた何かがそこにはあり、被災地で見た人々の不自由な悲しみの生活にも、生活のにおいを感じました。本来医療は生活に関連したものなのです。今まで生活していた人が、ある日から「カンジャ」という人間になるのではないのです。そのことを忘れかけていました。そして、次の10年は在宅医療を基盤に自分の活動を展開しますが、それはただ単に在宅医療がしたいから開業するのではありません。僕が思うに仕事というのは、自分の心に浮かぶ理想の形を追求するために、自分の知と身体を捧げる者ではありません。仕事は、関係性の中で生まれるものであって、その関係性の中でお互いを求め合う時にこそ、自分の自尊心を高めることができる。そして、一緒に仕事したい仲間との関係性が刺激になって自分の考えと理想を変えていく。理想と現実のギャップがあっても、同床異夢それぞれの夢は違っているのが当たり前と思いながら、前に進んでいきたい、それが仕事の本来の形だと今は思います。

結果として、僕の離職も新たな形のバーンアウトだと思いました。よくいうバーンアウトとは、燃え尽き、力尽きたエネルギーが枯渇した状態です。まさに燃え尽きて(burnout) 灰になっているのです。この僕の経験した新たな形のバーンアウトは、完全燃焼し満足し尽くしてしまった。目的を果たし、旅を終え燃焼終了(burnout)の状態になりました。ある一定の目的を果たし行程を無事推進することができました。心に残るものは灰ではなく満足と感謝です。この新たな形のバーンアウトは、清々しく次の世界へ移ることができます。これまで10年間辞めていく同僚の背中に祝福の祈りを捧げてきました。そして僕も残る人達に今後の祝福を捧げて、新しい世界の扉を開こうと思います。

(来年3月を持って、私は今の職場を退職し、4月以降は開業準備のため修行を始めます。今までお世話になった方々全てに心より感謝します。)

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2011年9月15日 (木)

病気で食べられない悩み

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「もう私主人に何を食べさせたら良いのかわからないの」
「あの時医者から胃瘻をと言われ、すすめられるまま親父に処置をお願いした。本当にこれでよかったのか」
「妻の最期に、無理に食事をさせようとしていた自分を思い出すと、何だか申し訳なくてなあ」
「親戚のすすめる○○という食品をな、随分高かったけど買い続けたんだ」
最近、食欲不振や食事に関する問題を、薬や栄養で応じるこたえる事に限界を感じます。寝たきりで、胃瘻をつけて長らく生活の質の低い状態で生き続けなくてはならない問題、栄養を投与しないことで生じる自責感。様々な問題は多くの葛藤を生み続けています。今自分が注目しているのは、食べられなくなることを、患者さん、家族はどう受け止め、どう僕らは(医療者は)対処するのかということです。また一番感じているのは、愛情の果てにぶつかってしまう患者さんと家族の関係がどうかよいものになるようにという事です。
人は食べられなくなり、命を終わる。これは医学以前の人類の太古からの宿命でしょう。栄養や医学は、この宿命とどうぶつかってしまうのでしょうか。そして、家族と医療者が患者を思うが故にい引き起こされるす悲劇とは、何でしょうか。
特定の食品や、薬、処置といった技術、そして「がんばらない」「食べれなくなったら自然に死ぬ」といった特定の信条 (belief) に、すがらない方法を僕らは探すことができるのでしょうか。
(以下は書きかけの原稿の一部です。きっと来年どこかで出版されます)
食に関する患者の苦悩
「こんなに食べられなくてどうしよう」「もう食べられなくなってくればだめだな」こんな患者のつぶやきを、がん医療に従事する医療者であれば何度も聞いてきたことと思う。[6]まず患者は、食欲不振に陥ったとき、食に関する苦悩を必ず体験する。患者は食欲不振を、すぐに満腹する(early satiety)、食欲のそのものの低下、食事への嫌悪感、食事をすること自体が苦痛であること、飲み込むこと、咬むことが難しいこととして、体験していた。[2]「いつも満腹している感じ」「食事をしようと思うとむかつきがある」「味がない」「食事を楽しむと言うより、仕方なく食べている」「家族が食べることを強要する」といった意見が聞かれた。[1,2]患者は食べる事への強迫感が強く、食欲が毎日変わり、無理をして食べ続けると言われている。[1]また「何としてでも食べなくては」という強迫感の生まれる具体的な理由として、患者には、自分の状態が悪い方向へ向かわないようにと願う気持ちと共に、自分を思い食事を作ってくれる家族に対して、何とか期待に応えようと無理をしても、がんのために食欲が落ちた身体では応えられないという苦悩がある。「折角作ってくれたんだから、頑張って食べないとな」「僕が食べると、妻が喜んでくれるんだ」といった声も聞かれる。一方で、最期の6ヶ月間に患者は空腹感をそれ程感じていないとも報告されている。[7]「食べられない」苦悩だけではなく、「食べなくてはならない」苦悩も存在するのが患者の体験である。
食に関する家族の苦悩
「どうやって食事を作ったら良いのかわからない」「(患者に)食べたいものを聞いても何も答えてくれない」「食べてくれないと死んでしまうのではないかと怖くなる」このように、家族もまた患者と同じく、もしくはそれ以上に苦悩している。過去の研究でも、料理を作る妻の方が、患者よりもより強い苦悩を感じていることが分かった。[1]食事を続けることが、生をつなぐこと。患者のために料理をする家族にとって、まず自分が病魔に抗うためにできる事は、食事で患者を力づけること。そして、その信条は「生きていくのには、食べることが一番大事」であるということである。[3]この信条はしばしば、病状の悪化に伴い身体活動が低下するのは、食事をきちんと食べていないからだという誤解につながり、食欲が落ちた患者に無理に食事を食べさせようとしてしまう行動につながる。また、患者が食事を食べないのは、自分の料理がまずい悪いからだという自責感を強めることもある。どのような料理をどう作ったら良いのか分からない、どうしたら患者が食べることができる料理が作れるかという悩みを相談できないと、さらに苦悩は高まり、患者の苦悩を上回ることは想像しやすい。[1]また、苦悩の内容として「毎日、患者が毎日食べたいものが変わる」「患者が自分の料理を食べてくれないと落ち込む」「とにかく食べてくれれば生きていてくれる」「患者が食べたいわけではないかもしれない、でも私は食べて欲しい」とも考えていた。[1]このように食に関する苦悩は、患者と家族の感情的な葛藤となる。[6]

食に関する医療者の苦悩
「食べられるようにする方法がない」「せめて自分にできる事は何かとを考えると、輸液を多くしてしまう」このように医療者は、自分の診療している目前の患者の状態が悪化したり、直接患者の苦悩を聞けば、何か自分の持つ知識や技量で事態を好転させたいと考えるであろう。その方法として、コルチコステロイドやメゲストロール、メトクロプラミドといった薬物療法で、一時期の食欲不振を改善する可能性はあるが、未だに現時点でも未だにどのような患者に有効なのかは不明で、かつ効果は期間限定である。[8]消化器がん患者に限らず、全ての進行がん患者、全ての疾患の患者の終末期には、 本質的に食事ができなくなる時は必ず訪れる。[2]つまり、亡くなるまでの自然な過程の一部として、食欲は必ずなくなる。これは医学の進歩では打破できない自然の摂理とも言える。そして医療者にとっての苦悩は、患者、家族に対して助言が難しく、また食欲不振を制御し食事の喜びを自分医療者自身の力で回復させることができない事が根源となる。輸液、中心静脈栄養とい言った経静脈栄養、経管栄養、胃瘻といった治療、また栄養学的見地からの食事、栄養管理は、多くの患者に有効な方法として、現代医療に定着している。[3]しかし、過度な治療や栄養管理が、患者のQOLをかえって低下するという矛盾も指摘されている。[6]医療者の苦悩という心理・社会的な側面から、この問題を俯瞰したとき、医療者は、単に患者を延命する目的で行っているといういうよりも、[6]患者、家族の食に関する苦悩に医療者の知識や技量で対応した結果ではないかとも考えられる。つまり、輸液や胃瘻で、患者や家族の苦悩を軽減しようと考えている可能性がある。
医療者ができる心理・社会的援助
患者、家族、医療者の食に関する苦悩にはどのような援助が可能なのか。患者と家族の葛藤を解決するには、どのような対処が望まれるのか。現在までに報告されているエキスパートオピニオンについて表1にまとめた。また、食欲低下や体重減少のある患者に対する,リーフレットと共に、食習慣、変化する身体への理解と対処法を教育する、心理・社会的な介入も開発中である。[9]
特定の食品や方法、また食事に関する意見、信条は、一時的に患者や家族の苦悩を軽減するかもしれない。しかし、「一体何が起こっているの」「これからどうなるの」「何が助けになるの」という問いに対しては、心理・社会的援助を含む様々アプローチを同時に行う事が医療者に求められる。[6]
表1 患者に何を食べたら良いのかというエキスパートオピニオンに基づく助言。[3]
身体的
・ カロリーを増やす
・ タンパク質を増やす
・ 少ない量で回数を増やす
・ 栄養学的見地からの教育、カウンセリングを行う
・ 補助栄養食品を使う
・ 高栄養の食品を使う
・ 調味料とタンパク質を減らす
・ 飲みものを減らす
・ 暑すぎず、冷たすぎない室温くらいの食べ物
・ ポリフェノールを含む食品(タマネギなど)
・ 食欲を刺激するためにアルコール
・ 症状を緩和する食品 (便秘に対するプルーンジュース)
心理・社会的
・ 食べたいものを食べる
・ 楽しんで食べる
・ 食べられそうなものを食べる
・ 食事制限をやめる(健康食品など)
・ 「食べなくてはならない」と考えない
・ 食べられなければ、水分だけでもよい
・ 食べやすいものを食べる
・ どうするのがよいか、患者、家族を交えて考える
・ 食べる量を増やそうとしない
・ 栄養補助食品を避ける
1) Strasser F, Binswanger J, Cerny T, et al. Fighting a losing battle: eating-related distress of men with advanced cancer and their female partners. A mixed-methods study. Palliat Med 21(2),129-137, 2007
2) Hopkinson J, Corner J. Helping patients with advanced cancer live with concerns about eating: a challenge for palliative care professionals. J Pain Symptom Manage 31(4), 295-305, 2006
3) Hopkinson JB, Okamoto I, Addington-Hall JM. What to eat when off treatment and living with involuntary weight loss and cancer: a systematic search and narrative review. Support Care Cancer 19(1), 1-17, 2011
4) Addington-Hall J, McCarthy M. Dying from cancer: results of a national population-based investigation. Palliat Med 9(4), 295-305, 1995
5) Dewys WD, Begg C, Lavin PT, et al. Prognostic effect of weight loss prior to chemotherapy in cancer patients. Eastern Cooperative Oncology Group. Am J Med 69(4), 491-197, 1980
6) Moynihan T, Kelly DG, Fisch MJ. To feed or not to feed: is that the right question? J Clin Oncol 23(25), 6256-6259, 2005
7) McCann RM, Hall WJ, Groth-Juncker A: Comfort care for terminally ill patients: The appropriate use of nutrition and hydration. JAMA 272(16), 1263-1266, 1994
8) Yavuzsen T, Davis MP, Walsh D, et al. Systematic review of the treatment of cancer-associated anorexia and weight loss. J Clin Oncol 23(33), 8500-8511, 2005
9) Hopkinson JB, Fenlon DR, Okamoto I, et al. The deliverability, acceptability, and perceived effect of the Macmillan approach to weight loss and eating difficulties: a phase II,
cluster-randomized, exploratory trial of a psychosocial intervention for weight-
and eating-related distress in people with advanced cancer. J Pain Symptom
Manage. 40(5):684-95, 2010

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2011年9月 6日 (火)

リストバンドと、いつも不機嫌な医師

Photo 「ねえ、ホスピスでこれから看取りに向かう患者さんに、リストバンド付けて平気なの?」

僕は、職場では滅多に怒らず上機嫌で仕事することをモットーにしています。自分が上機嫌でいられるには、毎日どうしたら良いか、自問自答しています。今まで色んな医師に出会いましたが、忙しいだけが理由なのか他に理由があるのか、どうして医師はこうも不機嫌なのかと思うことがよくあります。職場で周囲の職員に怒り、時には患者に怒る。その怒りの根源が何であるのかは僕にもよく分かりませんが、とにかく僕は不機嫌な医師にはなるまいと自分を律しています。それでも今の職場に9年も働いていると、僕の性格も病棟の看護師には悟られていて、「あ、今日は機嫌が悪そう」とか「あ、今日は話しても大丈夫そう」とかきっと陰で話されているんでしょうけど。とにかく、職場では滅多に怒ることはないのですが、この件だけはどうしても自分の気持ちを鎮めることができませんでした。

お分かりでない方のために解説すると、リストバンドというのは、入院中の患者さんの腕に装着する柔らかいビニール製の名前とバーコードの書かれたバンドです。また、まだ名前のついていない乳児の足にも巻きます。目的は、薬剤の投与間違いや、患者取り違えを防ぐことです。点滴や、手術、検査の前には、必ずこのリストバンドについたバーコードをバーコードリーダーで読み取り認証し、本人の確認をした上で、実際の医療行為、処置を行います。僕の働く病院でも、つい最近、電子カルテが導入されました。(遅い導入ですが)それに伴い、それまではホスピスだけがリストバンドをしない暗黙のルールになっていたのですが、とうとうある日一斉にリストバンドが患者さんの腕に装着されることになったのです。
僕はこのリストバンドが大嫌いで、ホスピスに来た方は全て他の病棟で付けていたリストバンドをハサミで切って外していました。
ホスピスへの就職を考えたのは、9年前。亡くなり行く患者さんによい対応をしたい、親切にしたい、そんな動機からでした。そして、病院の管理的な側面をできるだけ日常の医療から排除することで、病棟に生活や、もし可能なら文化を採り入れたいとも思っていました。病院の景色の中で亡くなり行く患者さんに、少しでもいいから人肌を感じることができる医療を実践したいと真剣に考えていました。ホスピスで働く前は一般の内科医で、日々、高血圧、糖尿病のように、疾病を管理すれば「何か」を乗り越えられるという発想で日々の診療にあたっていました。慢性関節リウマチも、がんのような慢性的な経過をたどる疾患であっても、医療の力で管理することで、病気を鎮めることができる、そう考えていました。「死が敗北」と思っていたわけではありません。人は必ず亡くなるということは十分に分かっているつもりでした。むしろ「自分の管理が至らないから患者は死に向かう」と自責感の方が強く、そのような考えが根底にあると、日常の治療は厳密化、緻密化に向かいます。つまり、毎日のように治療を見直し微調整し指示を変えることになります。こうして、細かな軌道修正をくり返す治療は、膨大な作業を発生させ、自分の仕事量も周囲の、特に看護師の仕事量を増大させます。しかし、管理的な治療は必要だと考えている医師にとっては、一つ一つの軌道修正は神経症的なダッチロールではなく、病気の管理と克服という複雑な行程を正確に前進してゆくための緻密な作業と信じて疑いません。

  手術の名人や、治療手技の名人のように、含蓄深い細かな作業が流れるように進行する医療は確かに存在します。このような管理的な医療を否定することはありません。しかし危うい落とし穴があるとつくづく思うのです。治療の管理に熱中するあまり、その患者いうなればその人をも管理することになる、という落とし穴です。人を管理する医師は、いつも不機嫌で、患者さんの生活や生き方、人生観にすら口出しすることだってあります。僕が内科医のころ、隣の診察室から聞こえてきた、患者さんを叱り続ける医師の言葉を思い出します。「こんな生活をしていると、いつか脳梗塞になって半身不随になるよ」、「高血圧があるのに、やせられないなら、まあクスリ飲んでいてもいつか大変な目にあいますよ」、「もっとちゃんと生きないと、知らないよ」などなど。その言葉に、人間関係が成り立った上での愛情があるのなら、患者さんにも言葉を超えた何かが伝わると思うのですが、その医師は耐えず不機嫌に怒り続けていました。指導、管理を超えた呪いの力を感じ嫌悪していました。そして、患者さんも分かるのです。彼の目には自分は映っていないって。こうして、管理的な医療の実践は人を管理する思想に徐々に染められていく。

  話を戻します。ある日一斉にホスピスの患者さんにリストバンドが巻かれるのを見て、僕も一人で憤るのもおかしいと思い、病棟で看護師の面々に話してみたのです。すると、「今までだって他の病棟ではそうですよ」とか、「別に何も気にならないですけど」とか、「病院全体で決めたことなので仕方ないのでは」などと返事があり、僕はとうとう怒ってしまいました。といっても静かに怒っていたのですが。患者さんに聞いてみても「そんなに気にならないよ」「仕方ない」「いやだけど」「いや、かえって安全でいい。私は賛成」と色んな意見がありました。僕は、人を管理したくない。人を管理すれば人を支配する。人を支配すれば自分が傲慢になる。傲慢になった自分の目にはもう患者さんは映らない。そんな虚ろな自分にはなりたくない。リストバンドが管理の記号に見えて、ホスピスにこういうものを持ちこみたくないと思いました。自分の好き、嫌いですから、リストバンドの意義や、医療安全とは全く異なる次元の話です。僕はただ「これから看取りに向かう患者さん」にリストバンドを着けることができる、その知性の劣化と想像力の貧困を悲しんでいるんです。意識がぼんやりした患者さんは「いいよ」も「いや」も答えることは出来ない。また、話してわかり合える患者さんと、リストバンドをつけてもよいかと会話するのもまた滑稽です。

本来リストバンドは「患者さんの安全のため」であるのですが、それと同時に「医療者が間違いをなくすため」のものになっています。「安全」の大前提の前に、医療者が自分達のためにリストバンドを装着するというやましい気持ちがもしなくなれば、そこがたとえホスピスであっても、最早それぞれの心の中で患者さんは管理と支配の対象となります。リストバンドのある毎日の景色に慣れてしまえば気にならなくなることかもしれません。でも僕は、この患者さんの腕に装着された異物をとても嫌悪してしまうのです。リストバンドぐらい小さな事がどうして、こんな話になるの?と思う方もきっと多いと思います。また僕の怒りが職場で理解されないように、考えすぎなんじゃないの?という指摘もあるでしょう。

もう一度書きます。僕が嫌悪しているのはリストバンドではなく、「リストバンドが持ちこまれたホスピス」です。時が来て、天に帰り病院を離れるとき、自分自身の力では取り外すことができない患者さんに装着するリストバンドです。そしてただでさえ非日常の病院、ホスピスに、生活や文化のそよ風を吹かせたいと思う小さな純真をこのちっぽけな腕に巻かれたビニールは壊します。さらには、疾病、症状の管理に専念する余り、患者さんの生活や思想すら管理、そして支配してしまうという落とし穴は、すぐ近くであなたが落ちるのを待っています。そしてひとたびその穴に落ちると、不機嫌な医師(看護師)となり毎日を過ごすことになり、自分は不機嫌に仕事していることを自覚しつつも、自分がなぜこんなに不機嫌なのかさっぱり分からなくなるのです。その日の朝に、楽しみに残してあったドーナツを誰かに食べられたという不機嫌な出来事がなければ、不機嫌な医師はこうして出来上がるのかも知れません。とにかく僕はそんな医師にはなりたくない。

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