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2011年8月 5日 (金)

「なんにもしない」医師と医療の商品化

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こんな患者さんに出会いました。
「がんの治療はA病院、高血圧はB病院、○○療法はC病院、漢方薬の治療をD病院でそれぞれ受けています。でもどの病院でも、自分の気持ちを話してもちゃんと聞いてくれないんです。なので、A病院の先生に自分の気持ちをちゃんと聞いてくれるところはないかと相談したら、緩和ケアのあるこの病院へ行ってごらんと言われて今日は来たんです」

まだまだお元気そうな様子です。それでも背骨に沿って痛みを感じるようになっていました。(脊椎への骨転移によるがん性疼痛)ちらっと話を聞いていると、まるでドクターショッピングをしている患者さんです。しかし、よくよく聞いてみると、自分の将来や今について考えていることをどの医者も聞いてくれないということでした。
A病院のがん専門の医師に自分の気持ちの不安を訴えると、「じゃあ、検査をして確かめてみましょう」と対応してくれるのですが、ある程度話を聞いたら外来を終わらせてしまう。自分としては、今さら広がったがんを見張ってそれが何になるのかと嫌な気分がしました、と話は続きます。
B病院はクリニックで、ずっと昔から通院しているそうです。そこで自分の悩みを相談すると、「がんの事はA病院で相談してごらん」と話すだけで、ちゃんと聞いてもらえない。そしてC病院はがんの人達がたくさん集まる病院ではありますが、「○○療法以外の相談はなかなかしにくい」と感じているそうです。結局誰にも自分の気持ちを話すことができない。毎晩のように夫婦で話しているとだんだん暗い気持ちになってくると相談を受けました。

以前は、こう言う話を聞くと(ああ、普通の医者は時間もない外来で、答えのない問いを患者さんから受け取っても、それに相対する自分の哲学もなければ、時間もないのだろう)と思っていました。そして巷で「医者は話を聞いてくれない」という言説に触れる度に(ああ、どうして医者は患者と向き合えないんだろう)と思う事も多々ありました。このような考えや相談をする患者さんは今までもたくさんいらっしゃいましたので、自分は緩和ケアの場から、周囲の医師に対して不遜な考え、つまり患者さんと向き合えない医師は何か大事なものが欠けている人格の持ち主で、自分の様に大事な価値に覚醒すれば、きっと世の中の医療は変わる、と思いこんでいました。こうして文字にすると何て不遜な考えなんでしょう。最近、こういう相談を通じて患者さんとじっくり話していて、だんだんと気がついてきたことがあります。そして自分自身の不遜さを自覚し、別の考察を持つに至ったのです。

日本に限らず医療にはお金がかかります。そのお金は健康保険でまかなわれるとはいえ、患者さん自身の手持ちのお金から医療を受ける度に出費する必要があります。これは言うまでもありません。患者さんがお金を支払う以上、その代価を医療の形として受け取ります。しかしその代価は、いつも物質的還元を得るわけではありません。つまり、薬や検査の写真といった手にとってその感触を確かめることができるものばかりではありません。情報であるとか、信頼関係であるとか、そういう無形の還元もあるでしょう。しかし、医療から受けとる還元にいつも患者さんが満足するとは限りません。特にがんのような病では、成果のない治療、耳を被いたくなるような悪い情報も中にはあるでしょう。うまくいかない手術、満足できない治療の成果。そのような「不満足な商品」であっても、患者さんはお金という代価を通じて購入することを強いられます。そして当然のようにクレームや訴訟がおきます。それは「不満足な商品を無理矢理買わされ、返品ができない」ことと相似な心理とも言えます。消費者社会の中で「医療を商品として購買する」患者さんが増えてくることは必然なので、これは当然の帰結とも言えます。
そして、例えば「病院ランキング」は、購買する商品を探すべく、ミシュランガイド食べログと同じように、消費者の欲求に対応するものとして医療は人々の心に認識されている可能性があります。「どの病院へ行けば一番よいのか」そんな計測と予測が不可能な問題に、社会は消費活動の尺度をあてはめてしまったのです。

医療の側は、こうした、医療を商品と考える患者さんとどう向き合ってきたのでしょうか。まず「インフォームドコンセント」です。説明を受けた上での同意。そして選択。どのような治療を受けるのか医師から十分に説明を受けた上で、自分自身が治療法を選択していく。医師から無理矢理これが良かろうと一方的に受けていた、今までの医療への反省です。すなわち無理矢理押し売りされる商品から、自分が選んで買う商品に変わったということです。
これは、当初は患者と医師がきちんと話し合った上で自分自身の医療を考え、共に同じ目標に向かって前に進むという、至って正当な概念だったのです。しかし、いつしか「インフォームドコンセント」とは、合併症やリスクといった「うまくいかないシナリオ」を患者が十分聞いたかを確認する免責事項(disclaimer)としての性格が強くなってきました。「もしもうまくいかなかったらどうなるのか」を十分聞いた上で、手術や処置といった時には自分自身の身体をかえって傷つけてしまう可能性のあるいわゆる侵襲的行為を受ける。いささか乱暴だが簡単に言えば、「この商品を買っても使い物にならないどころか、かえってあなたの身体に危険が及ぶかもしれない。それをちゃんと知っておいてからお買い求め下さい」という概念に近いのです。
もう一つは、病院機能評価に代表されるように、医療の質を重視するようになったことです。医療を安全に継続的に提供する体制を整えること、そして全ては患者のために医療が提供されること。その観点から病院の質を評価する動きです。多くのマニュアルと、病院の物的、人的機能を査定されます。計測可能な質の評価は、結局商品を提供する売り場のアメニティであるとか、商品を製造する工程の正確さ、そして医療のリスクを回避するために不良品発生の頻度を低下させるという、消費的工業的観点で医療を変容させてしまいました。

患者も医療者も病院も、この医療の商品化を発展させてきたといえるのではないでしょうか。
また、「患者さま」という言葉、そして接遇研修をくり返す病院職員。これらは医療を消費される商品として差し出したこと、医療行為を貨幣的価値で測定し続けたことの証左であるともいえます。つまり「医療とはサービス業である。そして医療職とはサービス提供者である」という訓示は、医療の商品化の象徴的な発想として僕の視界に入ってきました。そして、この訓示は自分の心に突き刺さり、心地よいどころか、このままでは大変なことになるというアラームが鳴り始めました。

僕の出会ったあの患者さんに戻りましょう。この患者さんを囲む医師は僕を含めて5人いることが分かりました。そして、この方は「がん難民」では決してありません。主治医もいます。それでも誰とも心をつなげることはできない。それは親身になる医師が一人もいないという事ではないと今の僕は思うのです。それぞれの病院の医師たちは、この患者さんを丁寧に診察して、自分の提供できる医療を誠意を持って提供しています。そして成果も出してきました。治療しても病気が悪化する状況の中でも、がんを診察する医師はこの患者さんから逃げることなく、ずっと対応しています。それでも、この患者さんは誰とも話せないと不満を感じています。この患者さんはそれぞれの病院に、「親身になって相談に乗ってくれる」という商品を求めて医師と向き合います。つまり、「検査」「薬」「検査結果の解釈」「最新の治療」「ちょっと変わった療法」といった購入可能な商品に、この患者さんは満足できなくなっているのです。これからの生活、自分の悩み、根源的な問い。この患者さんの心の闇を引き受ける医師を求めている。

緩和ケアは、病気のさまざまな苦痛、そしてスピリチュアルペイン(≒根源的な問い)に対応する医療の形です。医療の様々な行為が商品化されていくなかで、こぼれてしまった問題をすくい取るような医療だと僕は思っていました。でも、患者さんは緩和ケアも一つの「商品」としてとらえるようになってきました。緩和ケアを受ける、緩和ケアを購入することで、自分の心の闇に光を入れたい。緩和ケアに通うことで、明るく暮らしていけるようになりたい。

僕は、この患者さんの話をずっと聴きながら考えました。初めて会う患者さんと小1時間話すことでは、まだ心と心の交流はできません。「ここは、緩和ケアの病棟に入院するための外来で、あなたの求めている通院しながらの治療はできません」(通院する病院、主治医がいらっしゃる場合には、僕の外来の通院はしないのが原則なのです。色々とやってきましたがその方が結局は患者さんには良いと思っています)このように、「あなたのほしい商品はここにはない、店を間違えている」という話はすべきではないと心のどこかでアラームが聞こえました。そして言葉をかけました。
「今までのご苦労はよく分かりました。またいつの日にかここに来て頂いても構いませんよ。でも僕は『なんにもしない医師』としてあなたとじっくりお話しするのがよいと思うんです」と。患者さん、付き添いのご家族も「えっ!」という顔でしたが、構わず言葉を続けました。「僕はあなたの役に立ちたいと思います。でもしばらくすれば、きっとまた新しい病院を探す必要が出てくると思うんです。それは、あなた自身が、この病院と僕が何をしてくれるのかどんな薬、どんな話をしてくれるのかと期待しているからです」と続けました。そして「僕が『なんにもしない医師』だと思ってそれでも話をしようと思ってくださるのなら、ちゃんと十分な時間をとってあなたのお話をお聞きします」と話しました。長い話をお聞きし、また、普段病院で話さないことも話した事もあり、患者さんもご家族もひとまず不満なくお帰りになりました。僕自身の提供する医療が、商品としてこの患者さんの心に認識されないのであれば、きっと一緒に苦労していけるのではないか、この患者さんのもつ不安を鎮めていく力を自分自身が得るのではないか、そんな直観がありました。

病気に困った患者さん、家族にとってどの病院でどの医療を受ければよいのか分からない。患者として一番良い治療を受けたいというのは当然の感情だ。もちろんそれは正しい。しかし、今まで述べてきたようにこの感情、いや欲求に対応するために医療は商品化してきたのです。さらに、このまま緩和ケアを含む全ての医療行為が商品として流通していけば、それはいつも「得られる利益、結果」に先鋭化した消費者的吟味の対象となります。このままの状況が続けば、緩和ケアも苦痛のない生活を保証する商品として流通し、その結果「現実には全ての苦痛がない生活は得られない」という、患者、医療者からの失望へとつながります。そしてまた、緩和ケアは「低コスト」であるとか、「急性期病院の空床を増やす」といった間違った商品価値にすり替わるのには耐えられません。そして、医療が商品化した状況でこの患者さんのように、心が定まらない方に多く出会います。患者さんにとって、分かりやすい医療の形へと変えてきたはずなのに、どういう訳か不調なのです。これからどうしていけば良いのでしょうか。

そして僕は今、空想します。あの患者さんが

「何だかよく分からないけど、先生と話すとほっとするよ」

といつの日にか言ってくれたら、商品ではないこの何だかよく分からない価値を彼と僕が一緒に見いだすことができれば、医療の新しい形、いや、元々の形が見えてくるのではないかと今の僕は夢見ているのです。


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