« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月

2011年8月21日 (日)

「専門家」の危ない誘惑

毎週診察する、がんの患者さんから、こんな話を聞きました。

足のリンパマッサージを受けたいという動機で、あるクリニックを受診しました。そこで、診察と検査を受けて帰ると、再び受診するように連絡があったので、リンパマッサージを受けられるのかと思い受診すると、医師からこんな話がありました。「このままではあなたの体はダメになる。一度A病院で診察を受けた方がいい。連絡はしてあるので今すぐ行きなさい。」こう言われてビックリしたが、とにかくすぐA病院へ行き、診察を受けました。
そして、そこで初めて会う医師から、「あなたはこのままでは3-6ヶ月しかもたない。私は個の病院で抗がん剤の治療に専念しています。あなたの病気は確かに薬が効きにくいけれど、治療を受けてみる気はあるか?」と言われたのです。

患者さんはとても動揺していました。その医師が説明しながら書いてくれた紙を見ると、化学療法の内容が非常に詳しく書かれています。内容はとても論理的で、危険を軽視するようなことも一切書いてありません。化学療法でかえって体調を悪化させる場合もあること、重篤な副作用もあり得ることなど、全てのリスクについて触れてあり、また患者さんもこのような説明を確かに受けたと話していました。
そして、患者さんの話は続きます。

この医師は言うのです。私の病院では私の治療を受けるために全国から患者さんが来ています。今なら入院できるので、5日後までに返事が欲しい。

患者さんは、緩和ケアの担い手である僕にこういう相談をしながら、本来の自分の主治医にどう話したらよいのかを考えあぐねていました。自分はセカンドオピニオンを頼んだ覚えはないのに、リンパマッサージの診察を受けに行ったらこういう話になってしまったと。僕はこの話を聞きながら、とにかく、どういう治療を受けようと、どの病院へ行こうと、僕との関係は変わらず続きますから、どうぞ遠慮なく何でも思ったとおり話して下さいと自分の立場を伝えました。そして、「主治医の先生には (同じ病院で働く同僚) 僕からちゃんと説明しておきますよ。安心して」

こういう話は、実は病人の周りにはあふれています。特にがん患者さんの周りには色んな療法や治療の情報があります。例えば親戚に勧められたり、例えばたまたま手に取った本でぴんと来たり。さて、専門家というものは、自分の関心のある世界に身を置き、四六時中そこから世界を眺めています。すると、自分の目と耳には自分の関心があることだけが飛び込んできます。パーティーのざわめいた会場でも、隣の人と話していればその話だけに集中できるように、人は自分の関心があること、見たいこと、聞きたいことに意識を集中し他のノイズをはねのける能力を持っています。ですから、専門家は特定の領域に造詣が深いと同時に、視野狭窄をおこす危険性があります。そして、科学の領域だけでなく、どんな人も自分自身の世界の専門家です。今まで培った色んな経験から、自分だけの世界観を確立していきます。そして、自分から見た世界は、自分のアイデンティティそのものです。自分の世界が歪むことは、自分自身が歪むこと。一度自分の世界が歪めばそこには苦痛が伴います。ですから、もし僕が誰かに「緩和ケアなんて実体はないんだ。そんなものには価値はない。本来医師の心構えというのは・・・」なんて話を聞かされようものなら、全力で話し手に反論しようとしてしまうのです。自分の世界が歪まないよう人は日々歪みがないかをチェックし、そしてさらに自分の世界が強固になるよう証明を続けようとします。
この患者さんを化学療法に誘う、A病院の医師にとって、化学療法の世界は彼自身のアイデンティティそのものです。この医師は、患者さんを騙そうとか、儲けようとかそういうことではなく、ただひたすらに自分が大好きな方法で、患者さんの苦悩に応えようとしています。そして、僕も自分の信じた緩和ケアで、患者さんの苦悩に応えようとし続けています。

それなら、みんな自分の得意な方法で力を合わせて患者さんを助ければ良いんだ。僕も、僕の病院の同僚である主治医も、このA病院の医師もみんなでこの患者さんを助けてあげれば良いんだ。これこそチーム医療だ。最高のチームだ。誰が提供する医療が一番良いかなんて、決められない。みんなちがってみんないい!
こんな風に考える人もいるかもしれません。その前に、僕は警告しておきたいのです。専門家の危ない誘惑をよく考えなくてはなりません。

話は少し逸れますが、専門家が一番疑われた最近の出来事と言えば、そうです。東日本大震災と福島第一原発の事故。メディアで原発事故についてコメントする専門家の振る舞いを見て、多くの人達が批判を浴びせました。特に放射線の人体への影響についてです。
「ただちに健康を害するものではありません」を安全デマと称し、その話し手である専門家を「御用学者」と揶揄するもの。放射線の影響を低く見積もる専門家には、原発の利権、要するにお金が動いているに違いないと糾弾するもの。多くの専門家の言説が、市民の心を鎮めることはなく、むしろ専門家の人格を卑しめる事も目につくようになってきました。
僕は、原発事故を語る専門家の誰が真実を話しているのか検証することはできません。そしてまた同じように、がん患者さんに語りかける医師たちの何が真実なのかを検証することもできません。なぜなら、真実とは、恐らく混沌としている中にあるので、特定の専門家の視点が、これこそが絶対的な真実を見つめている、と確信できないからです。専門家の視点は「自分の関心があること」であふれがちなゆえに、“危ない誘惑“に落ちいりやすいと言えるのではないでしょうか。
それでも、この患者さんも僕も多くの市民も、何かを選び出し、前に進まなくてはなりません。その時に僕はいつも考えます。専門家の危ない誘惑に囚われていないのは誰なのかを見極めなくては。

“専門家の危ない誘惑”を検証するにあたって大事なことは、まずその専門家が「自分の世界を強固にするために意見を述べていないか」ということです。原発を語る専門家の中には、自分の専門的な見解ではなく、自分自身を強固にするための意見を述べる、簡単に言えば「自分自身の意見を語るのではなく、自分そのものを世間に広めるため」に語る人がいます。
さて、これを先ほどのA病院の医師に当てはめて考えると、自分の接した多くの患者さんが自分の信じる化学療法の世界に、絶対的な信頼と共に取り組むことで、彼は自分の世界を強固にしようとしていないかということに気を付けなければなりません。こういう医師は、自分のアイデンティティを強化するために絶えず患者の存在を必要とします。とても親身になって相談に乗ってくれたとしても、その目には患者は映っていません。
このように、医師が利己的な動機で治療を勧めている場合、患者さんの方も医師の技術だけ利用しようと割り切っていて、契約としての信頼関係が成立していることもあります。しかしこの契約下においては、物事がうまく運んでいるときは、医師、患者双方の関係は良好ですが、やはり病気に関する契約では、悪いことの方が徐々に目についてきます。病状が悪化していった場合、その時に完全に関係が破綻します。患者さんは、弱った身体で次の医師や、治療法、療養先を探さなくてはなりません。
そしてもう一つの誘惑とは、ずばり「お金儲け」です。原発の御用学者の懐に、国民の税金が (自分たちのお金が) 入っていると指摘し怒りの対象となっていることと同じです。がん患者さんの治療や療法にも、高額なお金を要するものもあります。専門家は自分の叡智をお金に換算し私利私欲に走る可能性があります。そして、先ほどのA病院の医師なら、化学療法を行うことで、この患者さんからお金を得ようとする動機があるかもしれないのです。僕自身の治療も、患者さんに代価を要求しています。それでも必要以上のお金を請求することはできませんし、お金を稼ぐために多くの患者さんを勧誘することはありません。
しかし、だからといって僕は純粋だと主張するつもりはない、ということをここで述べたいと思います。なぜなら、この専門家の「お金儲け」の誘惑はいつも専門家自身の私利私欲のためではないことを知っているからです。専門家が所属する教育機関や、研究所、病院には多くの職員がいます。専門家がお金儲けを考えるとき、庭付きの一戸建てや、外車、豪華な旅行だけがその頭を支配しているのではありません。専門家を支える周囲の職員の生活のことも考えているはずなのです。専門家は研究の継続と、それに関わる人達の生活を支えるために、トップランナーであり続け、そして、さらに利益を増大し続けて行かなくてはならないプレッシャーにも絶えず直面しているのです。「お金儲け」は、世俗の義務とも言える、誰もが必要なことなのですから、僕はいわゆる御用学者に寛容です。彼らの後ろにはたくさんの人達の生活が見え隠れしています。ただ、彼らの言説の濁りを見抜いて、聞き届けるか聞き流すか自分自身が感じ取って決めていくだけです。濁った口をふさぐことや、濁りのある人間を排除する不寛容は、決して事態をよくしていきません。

専門家の危ない誘惑は、自分も絶えず直面しています。世俗と神聖のせめぎ合いは、いつの世にも誰にとっても心の葛藤です。専門家の意見を聞く時はいつも、この誘惑を思い、そしてどう取捨選択するかを考えます。彼らのアイデンティティの強化だけに自分が利用されていないか、彼らは必要以上にお金を得ようとしていないか。僕にとっての判断基準はこの二つです。

そしてこの患者さんにはこういいました。「重大な決断を5日後までに答えることはできないですよね。こんな大事な決断を急ぐ理由を考えてみると、この先生はあなたのことをとっても治療したいようです。治療したいという医者の気持ちにすぐに応えるようなことはせず、ここはしばらくじっくり考えてはみませんか」
僕は彼自身が何を選択するかを見守り続け、そして何を選択しても彼との関係は終わることなく続けていこうと思います。彼を、「専門家の危ない誘惑」から守るのがこのたびの僕の役割だと言うことを僕は深く心にとどめました。そして、こういう役割を果たせることが、僕の理想とする医師の姿なんだと皆さんに伝えたいのです。

ところで、震災も原発も今や日本中の関心事です。自分を広めたいという動機の専門家にとっては、今はとても好機なのです。僕にもその誘惑がないわけではありません。「原発を語れば、自分のブログは、より多くの人に興味を持ってもらえるのではないか」という危ない誘惑を自覚しつつも、この話を皆さんにお伝えします。どうか皆さんも「専門家の危ない誘惑」にご用心。

| | コメント (0)

緩和ケアの現場から Part 2 (2011年8月 愛知県がんセンター)

後半は、あらかじめ頂いていた質問にお答えいたしました。
個人的な体験が、今何につながっているかをお話しいたしました。

音声ファイルは、こちらから

お話ししながら使用した、イメージスライドです。

2011005


2011006


2011007


| | コメント (0)

緩和ケアの現場から part 1 (2011年8月 愛知県がんセンター)

講義の前半です。概論と緩和ケアの現場で起きていることを話しました。
理念や理想の前に、まず現場で何が起きているのか無視しないことが大切です。


音声ファイルは、こちらから。

話しながら、使用したスライドです。

2011002


2011003


2011004

私の勤める緩和ケア病棟では、2010-2011 199人の看取りがありました。平均在院日数は23日。入院から7日以内の看取りが23%でした。

| | コメント (0)

2011年8月 8日 (月)

連載対談 「〈架け橋〉緩和ケア×哲学」第1回目

20110808_220033

哲学者の苫野先生と、雑誌緩和ケアで連載をさせていただいております。1年間で全6回の連載です。本文は1ページなのでとても分量が少なく、欲求不満になった二人が、ネット上で拡張版を公表いたしました。
是非ともご覧下さいませ。

連載対談
「〈架け橋〉緩和ケア×哲学」

| | コメント (0)

2011年8月 5日 (金)

「なんにもしない」医師と医療の商品化

021122_1786_0001_l__sweb

こんな患者さんに出会いました。
「がんの治療はA病院、高血圧はB病院、○○療法はC病院、漢方薬の治療をD病院でそれぞれ受けています。でもどの病院でも、自分の気持ちを話してもちゃんと聞いてくれないんです。なので、A病院の先生に自分の気持ちをちゃんと聞いてくれるところはないかと相談したら、緩和ケアのあるこの病院へ行ってごらんと言われて今日は来たんです」

まだまだお元気そうな様子です。それでも背骨に沿って痛みを感じるようになっていました。(脊椎への骨転移によるがん性疼痛)ちらっと話を聞いていると、まるでドクターショッピングをしている患者さんです。しかし、よくよく聞いてみると、自分の将来や今について考えていることをどの医者も聞いてくれないということでした。
A病院のがん専門の医師に自分の気持ちの不安を訴えると、「じゃあ、検査をして確かめてみましょう」と対応してくれるのですが、ある程度話を聞いたら外来を終わらせてしまう。自分としては、今さら広がったがんを見張ってそれが何になるのかと嫌な気分がしました、と話は続きます。
B病院はクリニックで、ずっと昔から通院しているそうです。そこで自分の悩みを相談すると、「がんの事はA病院で相談してごらん」と話すだけで、ちゃんと聞いてもらえない。そしてC病院はがんの人達がたくさん集まる病院ではありますが、「○○療法以外の相談はなかなかしにくい」と感じているそうです。結局誰にも自分の気持ちを話すことができない。毎晩のように夫婦で話しているとだんだん暗い気持ちになってくると相談を受けました。

以前は、こう言う話を聞くと(ああ、普通の医者は時間もない外来で、答えのない問いを患者さんから受け取っても、それに相対する自分の哲学もなければ、時間もないのだろう)と思っていました。そして巷で「医者は話を聞いてくれない」という言説に触れる度に(ああ、どうして医者は患者と向き合えないんだろう)と思う事も多々ありました。このような考えや相談をする患者さんは今までもたくさんいらっしゃいましたので、自分は緩和ケアの場から、周囲の医師に対して不遜な考え、つまり患者さんと向き合えない医師は何か大事なものが欠けている人格の持ち主で、自分の様に大事な価値に覚醒すれば、きっと世の中の医療は変わる、と思いこんでいました。こうして文字にすると何て不遜な考えなんでしょう。最近、こういう相談を通じて患者さんとじっくり話していて、だんだんと気がついてきたことがあります。そして自分自身の不遜さを自覚し、別の考察を持つに至ったのです。

日本に限らず医療にはお金がかかります。そのお金は健康保険でまかなわれるとはいえ、患者さん自身の手持ちのお金から医療を受ける度に出費する必要があります。これは言うまでもありません。患者さんがお金を支払う以上、その代価を医療の形として受け取ります。しかしその代価は、いつも物質的還元を得るわけではありません。つまり、薬や検査の写真といった手にとってその感触を確かめることができるものばかりではありません。情報であるとか、信頼関係であるとか、そういう無形の還元もあるでしょう。しかし、医療から受けとる還元にいつも患者さんが満足するとは限りません。特にがんのような病では、成果のない治療、耳を被いたくなるような悪い情報も中にはあるでしょう。うまくいかない手術、満足できない治療の成果。そのような「不満足な商品」であっても、患者さんはお金という代価を通じて購入することを強いられます。そして当然のようにクレームや訴訟がおきます。それは「不満足な商品を無理矢理買わされ、返品ができない」ことと相似な心理とも言えます。消費者社会の中で「医療を商品として購買する」患者さんが増えてくることは必然なので、これは当然の帰結とも言えます。
そして、例えば「病院ランキング」は、購買する商品を探すべく、ミシュランガイド食べログと同じように、消費者の欲求に対応するものとして医療は人々の心に認識されている可能性があります。「どの病院へ行けば一番よいのか」そんな計測と予測が不可能な問題に、社会は消費活動の尺度をあてはめてしまったのです。

医療の側は、こうした、医療を商品と考える患者さんとどう向き合ってきたのでしょうか。まず「インフォームドコンセント」です。説明を受けた上での同意。そして選択。どのような治療を受けるのか医師から十分に説明を受けた上で、自分自身が治療法を選択していく。医師から無理矢理これが良かろうと一方的に受けていた、今までの医療への反省です。すなわち無理矢理押し売りされる商品から、自分が選んで買う商品に変わったということです。
これは、当初は患者と医師がきちんと話し合った上で自分自身の医療を考え、共に同じ目標に向かって前に進むという、至って正当な概念だったのです。しかし、いつしか「インフォームドコンセント」とは、合併症やリスクといった「うまくいかないシナリオ」を患者が十分聞いたかを確認する免責事項(disclaimer)としての性格が強くなってきました。「もしもうまくいかなかったらどうなるのか」を十分聞いた上で、手術や処置といった時には自分自身の身体をかえって傷つけてしまう可能性のあるいわゆる侵襲的行為を受ける。いささか乱暴だが簡単に言えば、「この商品を買っても使い物にならないどころか、かえってあなたの身体に危険が及ぶかもしれない。それをちゃんと知っておいてからお買い求め下さい」という概念に近いのです。
もう一つは、病院機能評価に代表されるように、医療の質を重視するようになったことです。医療を安全に継続的に提供する体制を整えること、そして全ては患者のために医療が提供されること。その観点から病院の質を評価する動きです。多くのマニュアルと、病院の物的、人的機能を査定されます。計測可能な質の評価は、結局商品を提供する売り場のアメニティであるとか、商品を製造する工程の正確さ、そして医療のリスクを回避するために不良品発生の頻度を低下させるという、消費的工業的観点で医療を変容させてしまいました。

患者も医療者も病院も、この医療の商品化を発展させてきたといえるのではないでしょうか。
また、「患者さま」という言葉、そして接遇研修をくり返す病院職員。これらは医療を消費される商品として差し出したこと、医療行為を貨幣的価値で測定し続けたことの証左であるともいえます。つまり「医療とはサービス業である。そして医療職とはサービス提供者である」という訓示は、医療の商品化の象徴的な発想として僕の視界に入ってきました。そして、この訓示は自分の心に突き刺さり、心地よいどころか、このままでは大変なことになるというアラームが鳴り始めました。

僕の出会ったあの患者さんに戻りましょう。この患者さんを囲む医師は僕を含めて5人いることが分かりました。そして、この方は「がん難民」では決してありません。主治医もいます。それでも誰とも心をつなげることはできない。それは親身になる医師が一人もいないという事ではないと今の僕は思うのです。それぞれの病院の医師たちは、この患者さんを丁寧に診察して、自分の提供できる医療を誠意を持って提供しています。そして成果も出してきました。治療しても病気が悪化する状況の中でも、がんを診察する医師はこの患者さんから逃げることなく、ずっと対応しています。それでも、この患者さんは誰とも話せないと不満を感じています。この患者さんはそれぞれの病院に、「親身になって相談に乗ってくれる」という商品を求めて医師と向き合います。つまり、「検査」「薬」「検査結果の解釈」「最新の治療」「ちょっと変わった療法」といった購入可能な商品に、この患者さんは満足できなくなっているのです。これからの生活、自分の悩み、根源的な問い。この患者さんの心の闇を引き受ける医師を求めている。

緩和ケアは、病気のさまざまな苦痛、そしてスピリチュアルペイン(≒根源的な問い)に対応する医療の形です。医療の様々な行為が商品化されていくなかで、こぼれてしまった問題をすくい取るような医療だと僕は思っていました。でも、患者さんは緩和ケアも一つの「商品」としてとらえるようになってきました。緩和ケアを受ける、緩和ケアを購入することで、自分の心の闇に光を入れたい。緩和ケアに通うことで、明るく暮らしていけるようになりたい。

僕は、この患者さんの話をずっと聴きながら考えました。初めて会う患者さんと小1時間話すことでは、まだ心と心の交流はできません。「ここは、緩和ケアの病棟に入院するための外来で、あなたの求めている通院しながらの治療はできません」(通院する病院、主治医がいらっしゃる場合には、僕の外来の通院はしないのが原則なのです。色々とやってきましたがその方が結局は患者さんには良いと思っています)このように、「あなたのほしい商品はここにはない、店を間違えている」という話はすべきではないと心のどこかでアラームが聞こえました。そして言葉をかけました。
「今までのご苦労はよく分かりました。またいつの日にかここに来て頂いても構いませんよ。でも僕は『なんにもしない医師』としてあなたとじっくりお話しするのがよいと思うんです」と。患者さん、付き添いのご家族も「えっ!」という顔でしたが、構わず言葉を続けました。「僕はあなたの役に立ちたいと思います。でもしばらくすれば、きっとまた新しい病院を探す必要が出てくると思うんです。それは、あなた自身が、この病院と僕が何をしてくれるのかどんな薬、どんな話をしてくれるのかと期待しているからです」と続けました。そして「僕が『なんにもしない医師』だと思ってそれでも話をしようと思ってくださるのなら、ちゃんと十分な時間をとってあなたのお話をお聞きします」と話しました。長い話をお聞きし、また、普段病院で話さないことも話した事もあり、患者さんもご家族もひとまず不満なくお帰りになりました。僕自身の提供する医療が、商品としてこの患者さんの心に認識されないのであれば、きっと一緒に苦労していけるのではないか、この患者さんのもつ不安を鎮めていく力を自分自身が得るのではないか、そんな直観がありました。

病気に困った患者さん、家族にとってどの病院でどの医療を受ければよいのか分からない。患者として一番良い治療を受けたいというのは当然の感情だ。もちろんそれは正しい。しかし、今まで述べてきたようにこの感情、いや欲求に対応するために医療は商品化してきたのです。さらに、このまま緩和ケアを含む全ての医療行為が商品として流通していけば、それはいつも「得られる利益、結果」に先鋭化した消費者的吟味の対象となります。このままの状況が続けば、緩和ケアも苦痛のない生活を保証する商品として流通し、その結果「現実には全ての苦痛がない生活は得られない」という、患者、医療者からの失望へとつながります。そしてまた、緩和ケアは「低コスト」であるとか、「急性期病院の空床を増やす」といった間違った商品価値にすり替わるのには耐えられません。そして、医療が商品化した状況でこの患者さんのように、心が定まらない方に多く出会います。患者さんにとって、分かりやすい医療の形へと変えてきたはずなのに、どういう訳か不調なのです。これからどうしていけば良いのでしょうか。

そして僕は今、空想します。あの患者さんが

「何だかよく分からないけど、先生と話すとほっとするよ」

といつの日にか言ってくれたら、商品ではないこの何だかよく分からない価値を彼と僕が一緒に見いだすことができれば、医療の新しい形、いや、元々の形が見えてくるのではないかと今の僕は夢見ているのです。


| | コメント (0)

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »