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2011年7月 7日 (木)

遠くから来た親戚

20110707_10119 ここ数日来、松本復興相の恫喝報道と辞任について、世間では色んな意見が飛び交っています。「けしからん発言だ」「失礼だ」「あいつを大臣にした総理大臣も同罪だ」と怒りに満ちた声がそこここで聞こえます。自分とは直接関係のないことだからということではないのですが、こういう、人を怒らせるような振る舞いを見て、僕は怒るのではなく、『この人自分の周りの誰かに似ているな』と普段の生活で接することに置き換えて思いを馳せます。

 

 自分の病院と家との生活の繰り返しの中で、「松本復興相」と相似なのは、「遠くから来た親戚」でした。遠くからの親戚という話はご存じでしょうか。僕は毎日病院で患者さんや身近な家族と一緒に過ごし、小さな変化を確かめ合いながら、思いを交わしながら過ごしています。ていねいな対話を積み重ねる毎日です。患者さんの状態が悪くなると、亡くなる前に一度会いたいと多くの親戚の方が病室へいらっしゃいます。また皆さんを集めるようにと促すこともよくあります。「どなたか会わせたい方がいらっしゃいますか?」病院では良く交わされる会話です。

 この時に「遠くから来た親戚」(カリフォルニアの親戚ともいうそうです  )は、こんな時に登場します。ある日病院に来て居丈高に「一体どうなっているんだ!ちゃんと治療はしてるのか!医者を呼べ!」と、病院の職員を恫喝し、それまで患者さんと家族との対話を通して築き上げ、前に進んできた道を全て壊してしまうという逸話です。「オレはこの治療をするべきだと思う」「こんな状態で何で何もできんのだ」とにかく怒っている。この「遠くから来た親戚」というのは、病院で働く医療者の間の隠語のようなものですから、敬遠される人、もしくはできれば関わりたくない、起きてほしくないことの隠喩として、語られています。とにかく医療者は、怒っている人の対応にはとても苦心し、またそれまで築き上げてきた患者さん、家族との良い関係を乱されたくないと考えているのです。

 

 僕も今までに何度も「遠くから親戚」に出会いました。大抵この様な方は勤務時間外の夜や休日に、突然いらっしゃいます。自分がそこに立ち会っていないことも多くあります。それでも僕はこの「遠くから来た親戚」がどれだけ怒っていたとしても、全く怒りを感じないのです。こういう風にしか自分の気持ちが出せない、患者さんが亡くなろうとしているやるせなさから怒っている人の心のつらさをいつも感じるのです。色んな方々と毎日交流していますが、幸い「話せば分かる」方がほとんどでしたから、この「遠くから来た親戚」には、時間をとって二人で話します。そして静かに語り始めます。

 

 まず、自分が患者さんと初めて出会った日のことを話します。「お腹が痛いと外科に入院し、その痛みが普通ではなく自分が呼ばれました。その時の様子は今でも良く覚えています。患者さんは、つらそうに痛みのために泣いていました」とあったことをずーっと順を追って話します。そして、最後に今の医学的な状況を話すのです。「病気の広がりは、こうこうで今は手を尽くしましたが、ほとんど力が残っていない状況です」「そんな最中に、会わせたい人を呼ぼうとご家族と話しあいました。今日は来てくれて本当にありがとうございます。きっと患者さんも喜んでいると思います」

 医学的に正確な状況、選択した治療の妥当性を話すのではないのです。僕と患者さん、家族の間に流れてきた心の交流や時間の流れをずっとふり返りながら思い出を語るように話すのです。そうすれば、「遠くから来た親戚」の方とも違う地平が見えてきます。

 

 怒る人への対応として戦略的に対話しているのではないのです。怒っている「遠くから来た親戚」は、すでに動いている場の空気と失われた時間に乗り遅れて、焦っているのです。「どうして自分はあの時にお見舞いに行かなかったんだろう」「どうして自分は忙しさにかまけてもっと優しくできなかったんだろう」「どうしてもっと早くこんなことになっているのを自分にしらせてくれなかったんだろう」いずれにしろ、病院で展開している苦難に満ちた場に参加していなかった事は変えようのない事実、急に今日からその場に入ることになれば、戸惑うのも無理もありません。まるで、ルールの分からない競技に朝目が覚めたらいつの間にか参加していて、隣の人が血相を変えて自分に向かって叫んでいる。自分はルールが分からないから、足元のボールを蹴ればよいのか、持っていればよいのか、手につかめばよいのか、走って逃げればよいのかも分からない。それでも時間が過ぎてゆき、何かをしなくてはならない。「遠くから来た親戚」はそんな体験をしているのではないかと思うのです。

 

 それなら、まずすることはその場に展開するルールをお話しすることです。だから僕は、今まで何があったかを覚えている限り語り続けるのです。「遠くから来た親戚」もその場に参加しなくてはならない大事なメンバーなのです。その方が登場した以上、患者さんや家族に加わる以上、「遠くから来た親戚」にも大事な役割があるはずなのです。その役割が何かはいずれ分かることですから。

 

 はじめの話に戻りましょう。松本復興相は、大臣に就任する前から東北地方の被災地対応をしていたことは周知の事実です。決して「遠くから来た親戚」すなわち「遠くからきた新しいメンバー」ではないのです。しかし、彼は岩手県庁で、「俺九州の人間だから、東北の何市がどこの県とか分からんのよ」と話しました。まるで「遠くから来た親戚」です。彼は自分の目の前で展開していることのルールが分からないからこのような発言をしたのではないでしょうか。松本復興相の宮城県庁での恫喝は、「遠くから来た親戚」の怒りのようでした。そして、彼の蹴ったサッカーボールを県知事は足でトラップするのか、キャッチするのかどう振る舞うか分からず、結局そのままこぼしてしまいました。

 

 僕はいつも患者さんや家族といった弱い立場の人の気持ちを考えたい。「遠くから来た親戚」の弱った気持ちを想像したい。松本復興相への報道と、辞任への一連の流れは、動揺しながら急に病院に登場した「遠くから来た親戚」を、「大声を出したから」「医療者に加害する可能性があったから」と警備員に頼んで病院から排除する振る舞いと同じだと感じます。誰でも話せば分かると考えるのは、僕の世間知らずの甘さかもしれませんが、この一連の騒動から、「怒っている人」に、その振る舞いに対して「さらに上回る怒り」で対応する世の中にはいささか危険を感じるのです。どうか医療者の皆さんは「遠くから来た親戚」を排斥することを考えるよりも、彼らがどうしたら場のルールを理解して、「良き親戚」として振る舞えるようになるかを考えてほしいのです。

 

 「遠くからの親戚」を敬遠したい人々という隠喩に閉じ込めるのではなく、その場に積み重なった時間と人々の思いの集積と、暗黙のルールが分からない異邦人と広い心で受け止めて欲しいのです。同調圧力と、「空気を読む」という日本人的な常識に囚われずに、新たな登場人物をあなたの世界に招いて欲しいと心から思います。その寛容さがきっと「遠くからの親戚」の不躾な振る舞いと、怒る人を受け止める軸足になると僕は思うのです。

 

 

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