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2011年7月22日 (金)

「ひと」に関心のない医師たち

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今日、初めて会う患者さんの所に伺ったとき、いつもとは違う体験をしました。丁度僕が病室に入ると、その患者さんは背中を痛がっているところでした。そして側にいた実習中の看護学生が、患者さんの背中をさすっていたのです。僕が患者さんの側に行っても学生はさするのをやめようとせず続けていました。僕はこの学生に圧倒的な感動を覚えました。ふつう学生は、いつも痛々しいほどに周囲に気を遣い、特に病院のスタッフの挙動にはとても敏感になっています。僕は、決して威圧的な態度で患者さんの側には行かないのですが(と自分では信じています)大抵の学生は、僕が話し始めるとその手を止めて、遠慮するのか一歩引いてしまいます。でも、今日の学生は、全く気に留める様子もなく確かな使命感で患者さんの背中をさすりつづけました。そして、僕はかがんで患者さんに話しかけました。「痛いの?」

この学生の一見自然な行為が、何で僕の心を動かすのか、それには伏線があります。昨日、死の床にある別の女性の患者さんを診察していた時です。僕がその方の手を取り耳元で話しかけているときでした。4人部屋なのですが、後ろでカーテンをそっと開ける気配がしました。その方を受け持っている研修医が顔を出し、「○○さん!」と声をかけると、患者さんは「ああ、ご苦労様」と声を返しました。弱々しい声でしたが、表情は微笑んでいました。すると、その研修医は僕とその患者さんの姿を見て「あ・・・あ・・・また後から来ます・・・」とその場を離れていってしまったのです。

僕はこの患者さんの主治医ではないのですが、その患者さんの調子が良かった頃から緩和ケア医として、別の科の主治医と一緒に診察を受け持っていました。患者さんとは、色んな事を話してきました。患者さんはご自身の人生をふり返り、自分の仕事のこと、家族のこと、最近困っていることを話しました。僕も自分の家族のこと、子供達のことをよく話しました。特に僕の子供達のことを話すと、とてもうれしそうな顔をします。「昨日は次男に運動靴を買ったよ」「昨日はみんなで食べるウナギを買ってきたよ。子供達も食べていたよ」こんな話をすると、黄疸で黄色くなった顔が以前のようにさっと明るくなります。僕が行くといつも必ず僕の手を握ります。体調が落ち込んでからは、話すのが億劫なんでしょう、多くの事を話したいんだけどこの握った手から言葉を伝えるねとそんなメッセージが心に浮かびます。お互い黙っていても、その手を通じて対話をしているのです。

そんな対話を目撃した研修医は、とても居心地が悪かったのでしょう。その場を離れていきました。きっとこの研修医は、この患者さんを受け持って、終末期のがん患者さんとどう対話したらよいのかとても迷っていると思います。その迷いは手を取るように分かります。僕とその患者さんが以前から関わってきた時間、というものが、この研修医にはまだありません。突然登場した新しい医者。それでも患者さんは快く受け入れてくれています。僕は、この患者さんに関しては相談を受けて対応する(緩和ケア専門医としてコンサルトに対応する)医師なので、直接この受け持ちの研修医を指導することはありません。別の科の上司がこの研修医の指導にあたります。

それにしても、最近の若い医師は変わったなつくづく感じます。というのは、そっと出て行ったその日も、これまでも、僕と研修医は一切この患者さんのことについて話をしたことがありません。僕から研修医をつかまえて、自分が何を考えて、緩和ケアの専門医の立場からどういう仕事をしているのか、彼に詳しく説明するのもよいと思います。様々なことを教える必要がある、と僕の方の準備はできているんです。しかし、この研修医は最初の一歩を自分の足で踏み出さないと、彼(彼女)自身の今後のためにならない、と半ば勝手に思いこみ、僕はずっと待っています。

「先生、普段この患者さんとどんな話をしているのですか?」
「先生、この患者さんはどんな方なんですか?」

自分の受け持つ患者の、検査結果や病態には関心があっても、その人に関心をもてない若い研修医が増えてきました。自分の受け持っている患者を他の科の医者に診察依頼しても、その結果を聞かないばかりか、患者さんと一緒に付いてくる研修医もほとんどいなくなりました。カーテン越しに僕と患者さんの会話に聞き耳を立てる研修医がいなくなりました。

こんなこともありました。

手術の前から診察していた、男性の患者さんがいました。手術をとても迷っていました。また自暴自棄にもなっていたため、彼の気持ちに対応するべく、消化器内科の先生から僕に緩和ケアの依頼がありました。その日以降、彼と話を続けて、その結果彼は手術を決断しました。色んな迷いはありましたし、僕自身も手術を勧めたわけではありません。それでも彼は僕との対話を通じて、自分自身の言葉で手術をした方がよいと決断しました。そして外科に移り、手術の日を迎えました。彼と手を握りあい、何とか困難を乗り切ったことを讃えました。そして手術の後も、僕は毎日のように会いに行きました。外科の手術が終わり2週間も経った頃、そろそろ外科での診療も終わり、その後は今後の生活を考えるのが彼にとって必要な事と考えて、その方の主治医を引き受けました。
彼が外科に移ってから、ある研修医が普段の診療を担当していました。毎日のように患者さんに起こる変化、検査の結果がきれいな字で正確に書かれています。毎日のように患者さんの所に通っていたこの研修医は、手術後2週間を経て僕が主治医になったとたんぱったりと患者さんの所へ行かなくなりました。僕が主治医になると、この患者さんは「内科」の患者さんになるからです。先ほどの研修医と同じく、彼は僕の所に一度も患者さんのことを聴きに来ることはありませんでした。というよりも、僕自身もどの研修医が担当しているのか顔が良く分かりません。患者さんは「あの先生はぱたっと来なくなったなあ。先生がいてくれるからいいけどさ・・・」

「先生、この患者さんの所へこれからも行っていいですか?」
「先生、この患者さんこれからどうなるんでしょうね?」

こんな会話はとうとう一度もないままでした。手術の手技、立ち会い、周術期の管理には関心があっても、その人が突然病気になり、手術を決断するまでの葛藤や、病気を抱えて生きていく困難さを想像する研修医がほとんどいなくなりました。みな期間限定で患者さんと付き合います。病棟が変わっても主治医が変わっても会いに来る研修医はすっかりいなくなりました。

またこんなこともありました。

近くの、とある在宅医療の医師から紹介のあった初老の女性患者さんです。その患者さんは、それほど病状が悪いわけではありません。しかし、家族の中に他にも病人がいることから、介護するご主人の負担が大きくなり、この患者さんは家で一人待っていることも多くなってきました。家で酸素を吸うようになり(在宅酸素)よけいに動ける範囲が減りました。家での生活がつらくなってきているようなのです。
しかし、この先生の紹介状を見ると「まだまだ家で過ごせると思います。酸素濃度もまだ問題ありません」と書いてありました。そこで、患者さんとご主人に尋ねました。「普段、診察している先生に今日のように思ったことを話せないのですか?」すると患者さんはこう答えました。その医師はとても優しくて良い先生だけど、いつも忙しそうに診察しているせいか、何か話を打ち切ろうとする雰囲気がある。だから、とても家族の深い事情までは話せないというより、話そうという空気にならないし、自分の本当に考えていることはなかなか相談できない。それに、在宅で診てくれる先生には悪くて、入院したいと言い出せないとも話してくれました。

「ご家族は皆さんどんな暮らしなんですか?」
「ご家族の皆さんはどうしていらっしゃいますか?」

いつから医師は、患者におこる「現象」ばかり関心を持って、「ひと」に関心を持たなくなってしまったのでしょうか。知らない間に、緩和ケアにも「現象」重視が目に付くようになってきました。疼痛の程度はどうなのか、睡眠の状況はどうなのか、何日に1回便が出るのか、同居の家族は何人なのか。病名の告知はされているのか、予後の告知はされているのか、本人は予後を知りたがっているのか。符号化した情報だけが山積して、その集合が「ひと」だと思いこんでいる。知らない間に、緩和ケアにも符号の山が一杯。

僕が感じた不快を感じた研修医や在宅医療の医師と患者さんとの隔たり。これはここ10年の教育の結果なんだと痛感します。自分も必死に注力してきた教育の成果が目の前に広がっている。自分も荷担した教育の成果が、今自分の落胆を生み出している。決して、他の医師の怠慢や感性の問題だけではない。自分の中にも、自分自身を落胆させるこの教育の成果がべっとりと染みついているに違いない。今から何をやり直したらよいのか。自分にできる事は何か。

今日出会ったひたむきな看護学生。その方のように、ただひたすら患者さんの「ひと」だけに向き合う診療を取り戻すためには、今の教育には何が足りないのか。その事を以前からずっと考えているのです。この看護学生の方から今日僕が学んだのは、「患者のためには、自我を捨てる」ことでした。自分の面目、立場、資格、気恥ずかしさ、虚栄心、人からどう思われるかを気にすること、それらを捨てて患者の側に立てる勇気だと痛感しました。

これから、ここに書いた患者さん達に会ってもう一度、今日感じたことをもう一度考えてみます。そして、意味が分からないかもしれないけど明日この学生に会ったら御礼を伝えようと思います。そして研修医には声をかけてみようと思います。まず自分自身が「なんでこんなこと僕が言わなきゃならんのか」という自我を先に捨ててしまわないと、研修医を指導することはできませんから。研修医や開業医の振る舞いを現象ととらえて自分が不快を感じるのは、結局彼らと同じレベルのことです。「ひと」に関心のない医師たちを「ひと」ととらえて自分が関心を持たない限り、彼らと自分とのより良い新たな関係は決して生まれないからです。


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