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2011年6月19日 (日)

言葉の不調

「以前の先生の講演にはキレがあってよかったよね」最近時々人から言われます。医学系の講演ですとエビデンスを基に話す、要するに他人の言葉を使い回して話すことが多いのです。他人の言葉を自分の中で共鳴させているその事が実は快感だったりするんです。でも聴いている方は、その言葉が空虚であることにうっすら気がついている。それでも内容は分からなくても、爽快なキレだけはメタメッセージとして受け止める。そして「よかったですよ」って言ってくださる。それは、自分の勉強した労力とその時間に対する賛辞なのかと受け止めています。

 

コミュニケーションのテクニックもそう。緩和ケアでコミュニケーションが重要なのは言うまでもないことですが、その方法論をストックフレーズの蓄積と再生にあてていることに気がついていない。いつも自分が発する言葉は逡巡してしぼり出すようにして、やっと出てくるもの。誰でもその事は分かっているから、何となく今巷にあふれるコミュニケーション理論がしっくりこない。

 

こうしているうちに、自分の心から発する言葉がないから、他人の言葉を借りているという現実に直面する。理論構築をどれだけ正確にしても、他人の言葉を借りて他人の思想に憑依しているだけではないかと。自分の中から本当に出てきた言葉を捉まえたい。いや、自分の思想を自分の言葉で語らなければ人前で語る資格はないのでは、と思い始めて少し苦しくなってきているのです。そして自分の心と向き合いながら語りを考えるうちに、吃り、間があくようになってきてしまいました。病室でも、以前には耐えられた沈黙が最近は少し怖い。

 

今、自分はOSアップデートの時期。不完全な自分をさらけだす講演がつらいこともあり、またバグの多いOSをさらす自分が恥ずかしく、聴衆の方には申し訳ない時もあります。それでも賛辞を下さる。ありがたい。自分の言葉を疑い、吃りがでるのは特に3.11の震災以降。ほとんどの言葉が空虚になったようなそんな錯覚に陥り、実はそれは今も続いています。つぎはぎの言葉が、消費される言葉が、借り物の言葉が、どうしても自分の心で許せなくなる。今しばらくはそんな日々が続きそうです。

 

不完全な自分でも毎日を生きて、接する方々に誠意をもってお付き合いしたいと思っています。いつだって「完全な状態」で生きていける日はないのだから。どこか足りなくて、どこか過ぎている。それでも目の前の患者さんには「何か」をして差し上げなくてはなりません。「あれがない、これがない、まだ迷っている」と言ってはいられないのです。今の病院では○○ができない、今の病棟では○○ができない、前の病院では○○ができた、今の自分では○○ができない。こうは言っていられないのです。不完全な自分でも納得がいく毎日を送るにはどうしたらよいかと考えてみる。受験勉強していた頃の自分が心からささやいてくる。

『自分が一番良い安定した状態を自分でメンテナンスすること』

 

そうでした。医学部を目指し学校の授業そっちのけで毎日図書館へ僕は通いました。あの時長い時間集中して勉強するには、ちゃんと休憩をとって自分のペースを守る。他人と競争しない。昼寝は10分。おしゃべりは短く。お腹いっぱい食べない。でも少しだけおやつを食べる。何のことはないあの時とまだちっとも僕は変わっていないんだ。次は何年先に今の自分が助言をささやくのか。その助言を忘れる前にこうして残しているのです。

 


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