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2011年6月11日 (土)

「先生呼んで!」患者さんの支え方

今夜東京で話す内容について、記憶を頼りに思い出してみます。
当時30歳ぐらいでまだまだ若かった僕は、農村部の病院で内科医をしていました。少しずつ仕事にも慣れてきて色んな仕事を後輩に指導する立場になりつつありました。これから自分はどういう分野にキャリアアップするのか迷っていた時期でもあります。この病院では、自分の専門分野をもつことはなく、ありとあらゆる内科の患者さんを担当していました。大学病院にいる頃、所属していた医局で僕ら若い医師達は、全般的に診療ができるよう訓練を受けました。医局というのは、大学病院の医師の会社のようなところです。医師はその会社から各地の病院に派遣 (赴任) されるという仕組みでした。ですから、僕も農村部の病院では派遣社員というわけです。派遣期間はほとんど聞かされておらず、何年ぐらい一つの病院で仕事をするのかは医師によってまちまちでした。
僕はこの赴任先の病院で、がん患者さんを担当することも多く、独学で学んだ緩和ケアを必要に迫られて実行しました。痛みを取ること、食事ができないときの対応をすること、そして病気の恐怖を支えること。
ある女性のがん患者さんがいらっしゃいました。外科に入院したこの患者さんは、恐怖のあまり大きな声で怒鳴る、そうかと思うと急に泣くといった情緒不安定な日々が続いていました。
「どうして私がこんな病気になるのよ!」「これからいったいどうなるのよ!」
毎日の対話を続けていても状況は一向によくならなかったようです。ある日病棟の詰め所でカルテを書いていると看護師さんからこう話しかけられました。「先生、何とか助けてくれないかな」「・・・うん。でもこの方は外科の○○先生の患者さんでしょ・・・」当時は主治医の責任というのは今よりも大きく、一人の患者を診療したら外来も入院の間もずっと対応するというのがこの病院のルールでした。責任は大きく、医師と患者の心のつながりは強いのですが、一方で主治医が他の医師に相談し協力して診療にあたることはなかなかありませんでした。むしろ、他の医師からあれこれ意見を言われるのを疎ましいと思う医師も多くいる、そういう時代だったのです。

それでも、この患者さんを何とかしないとと確信し、外科の医師のところまで言って頼んでみました。「○○先生、この患者さんいつも叫んでいて看護師さんたちも対応に困っているようでして・・・もしよかったら僕が一度会いに行ってもいいですか?」「ああ、そう。いや僕も困っているんだよね。どれだけ説明しても分かってくれなくてさ。一度行ってくれる」思ったよりも簡単に年配の○○先生は受け入れてくれました。そして、緩和ケアの勉強をし知識をもった気になっている情熱と若さが取り柄の内科医は勇んで患者さんの部屋に行きました。その手にはベッドサイドで腰掛けるための丸いすを持って。
少し緊張しながらも「こんにちは」と話しかけました。「外科の○○先生から頼まれて今日は参りました。僕は内科です」ちらっとこちらを見ますが、明らかに警戒しているのが分かります。「何の用で来たのよ」ここでひるんではこの方の緩和ケアが始まりません。でもまさか「看護師さんが・・・」と他人を引き合いに出すこともかえって信頼を失います。ここは思い切って、「時々ね、つらそうな声が聞こえてくるんです。僕もこの病棟に何人か患者さんがいるんで診察に来るんです。それでね、つい心配になって」「へ?」興味のなさそうな返事でしたが続けました。「病気のこと話しませんか?」

警戒した患者さんと何を話したのか今は思い出せませんが、とにかく固く閉じた心の窓がほんの少しでも開けられないかと、細心の注意をしながら色んな話をしました。
自分のことも自分が思っていることも。とにかく自分という人間をさらけ出さない限りこの方はこっちを向かないと、必死になってしゃべり続けました。この方の心を解きほぐすには、とにかく「仲良くなる」のが第一歩だと、確信していました。当時は精神科医の同僚もおらず、書物の通り、見よう見まねで一生懸命でした。誰も自分を指導してくれません。でも、指導して自分が鍛えられてから初めて医療を提供するという猶予はありません。目の前には毎日毎日患者さんがやってきます。「あのぉ、申し訳ないのですが自分はまだまだ修行不足でして・・・僕の診察をうけるのであればあと2年待っていただけないでしょうか」などと言ってはおれず、この心の苦しみを抱える女性がん患者さんと多くの時間を過ごすようにしました。いつも全ての仕事が終えた夕食後のひととき。外が暗くなる頃、昼間の病棟の喧噪が急に静まり、廊下を歩く人の足音が大きな存在感を増す時間。この方も一番さびしくなる時間です。

外科の○○先生も、病棟の看護師も安心していました。毎日のように僕が対応するから、決して病状はよくなることはなくても、誰かがこの患者さんを支えてくれる。でもおかしな事が始まりました。外科の○○先生が診察しても、徐々に耳を貸さなくなり、看護師が「ねえ、こうしてみません?」とケアを提案しても全く聞かなくなりました。ある日、夜中に強い痛みがおこりました。その時対応した看護師に、「先生呼んで!」「とにかくあの内科の先生呼んで!」と大きな声で叫びました。看護師もどうしてよいかわからず僕に電話をかけてきました。「急に強い痛みがあり、先生のことを呼んでます!」
この頃は当直の医師がいても受け持ちの患者の事は全ていつでも直接電話がかかってきました。どんなささいなことでも担当患者のことは全て対応していたのです。この夜も真夜中に車を走らせ病院に向かいました。着いたときにはすでに痛みは遠のきつつあり、ただ「大丈夫?」と声をかけると、「先生、遅いじゃないの。さっきは本当に痛かったんだから」とこの患者さんはどこか怒ったように話します。
とにかくこの方と話す時は安心できないのです。心のどこかを緊張させて話さないと大変なことが起こるようないやな予感がするのです。顔と口調は努めて穏やかで優しく、でもこの患者さんの言葉を最初に拾い上げる耳は感度を高めて言葉の隙間に隠されている意味も聞き取ろうとします。そして受け取った言葉を詳細に吟味して、それでもすぐに言葉を返す。その言葉には決して毒を混ぜてはいけません。絶えずこの患者さんに「絶望の中でも、心のどこかにはきっと小さな星があるはずだよ」というメッセージが伝わるように話し続けました。僕が「小さな星」を彼女の心の中から探そうとすると、まるでそれを見透かすかのようにすぐに、探し回る僕を絶望に満ちた闇に引き込もうとします。「先生はそういうけどさ、どうせこのまま死んじゃうんだから」「どうせ家族もこんな私に困ってるのよ。いなくなっていいのよ私なんて」
細心の注意を払いながら対話を続けました。細心はいつしか砕身となり僕もこの方と話した後はぐったりと疲れるようになりました。そして、昼、夜わからない「先生呼んで!」に対応する緊張が続きました。それでも、若かった僕はこの患者さんから逃げない覚悟を決めて付き合い続けました。抗うつ薬や抗不安薬、睡眠薬を組み合わせながら何とか「小さな星」を見つけて、彼女の手の中におさまる日を待ちました。あらゆる薬は決して彼女をオプティミストにすることはありませんでした。

しばらく月日が過ぎて、彼女と僕の時間は彼女の死で終わりました。当時の僕は、彼女を支えきったという充実感を感じていました。ほんの少し感じた違和感のようなものは日常の流れに押し流されていつしか消えていきました。

あれから10年が過ぎ、緩和ケアの専門医として働き、色んな精神科医と一緒に働くことで人と向き合う様々な方法を教わった自分が当時を思い返すと、あの時の違和感が何であるかわかるようになりました。あの時の僕は自分の時間と労力を彼女に注ぎ、彼女に真剣に向き合い逃げないことで支え続けようとしました。そして「先生呼んで!」の彼女の叫びは救急隊の出動命令の如く、迅速に対応するべき号令でした。残った時間が短く、間近に迫った死が約束された彼女を支えるにはこれが一番、と若さと情熱で走り続けていたのです。でも、今から思い返すとはっきりわかります。この違和感は「本当は彼女を支えたのではなく、彼女を一人で生きていけないようにしたんじゃないの?」という厳しい自分への問いです。彼女がどんなに苦悩に満ちた状況であっても、彼女自身の力で生きていけるように支えること。身体も心も軸を失いぐらぐらした状態でも、彼女をまるごと背負っていくのではなく、大ケガしないように見守りながら時に手を貸すこと。そんな支え方ができなかった自分を反省するのです。

「先生呼んで!」の叫びを無視することもできません。「先生呼んで!」と叫ばない彼女を治療で作り出すこともできません。あの時の自分に足りなかったものはなんでしょうか。あの時の自分の違和感を今の自分はどう昇華できるのでしょうか。

他人を心配する事は一見良い行いと思うのですが、決して良いことではありません。なぜなら心配された相手は自分自身で生きていく力すなわち自立心を結局失うからです。僕がすべきだったことは、「先生呼んで!」と叫んだときその場に居合わせた看護師が彼女に対応できるようにすること、「先生呼んで!」と叫んだ後なかなかたどり着けなくても、時にはそのまま一夜を明かしても「昨夜は大変だったね」といつも通りほほえんで声をかけられること。こういう関係を僕と彼女はつくる必要がありました。彼女の心の「小さな星」を探そうと必死になって続けた会話は、いつしか亡くなりゆく者への傲慢な諭しになったのです。相手を思って、心を砕いての諭しですが、「このように生きてみたらどうだろうか、物事のよい面を見るようにしたらどうだろうか」「人生の真理、愛と情の支えに気がついたらどうだろうか」、このような諭しは、相手を心配して発する善の言葉にあふれていても、結局は相手の力を奪う傲慢な憐れみとなるのです。病者、弱者への憐れみが彼らの力を奪い、時には治療者が依存されることで一見平和を取り戻す。「先生呼んで!」にすぐに駆けつける。誠意を込めて対応を続ける。何度も言うようにこのやり方では本当の支え、援助にはならないのです。

相手の力を信じて、病者が時には孤独に耐えられるような援助をする。自分以外の人間の援助も受け取ることができる独立し自立した関係になる。若い僕に足りなかったのは、病者を人生の先達として尊敬する構えと、見守る忍耐力、そして自分自身の謙虚さであろうと思います。そして今の僕がもう一度彼女に出会ったなら、今度は「先生呼んで!」と叫び声が聞こえても、「ごめんね、すぐに行けないから自分で何とかできるところまでやってみて」と、すぐに側へ走り出したくてむずむずする自分をなだめながら優しく答えることでしょう。そして、一番側にいる人と彼女が何とかするのをそっと見守ることでしょう。

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