人が死ぬとき
最近、病棟で癌のため一生を終えた一人の男性がいらっしゃいます。僕は息を引き取るその瞬間には立ち会えませんでしたが、その場にいた看護師の話によると、この方は、母、妻、娘と集まった家族を一人ずつ呼び寄せて言葉を残したのだそうです。詳しい話は聞きませんでしたが「ありがとう」「後のことは頼む」「先に逝ってしまうことすまない」といった言葉だったそうです。家族が集まることができる日を選んだかのような、ある週末の午後の出来事でした。話を聞いた僕や立ち会った看護師はこの出来事にとても感動しました。なぜ感動するかと言えば、この方のように自分が死ぬ直前に言葉を家族に贈る方は滅多にいないからです。
テレビドラマでは、人の死の瞬間の描写はおおよそこういうものです。ある日、患者 (父親) の周りを家族が取り囲む。仕事で忙しい息子も仕事のスーツのまま息を切らせて病室に駆け込んでくる。「オヤジ!」と大きく声をかける。妻はその傍らに座り、涙を流しながらハンカチを鼻に押し当てうろたえている。娘は父親の手を握っている。
息子が大きく声をかけると、患者はつけられた酸素マスクをその力のない手で外し、声にならないほど小さな声で息子に語りかける。「え?オヤジなんだ?」「あとは・・・頼む・・・」「わかった、わかったぞオヤジ、安心しろ!」
その瞬間、がくっと手が落ちる。そして、後ろに控えていた医者が脈をとり、下を向きながら臨終を告げる。その瞬間、家族はせき切れたように泣き始める。「お父さん!」「オヤジ!」
このような描写のため多くの家族は誤解しています。死の瞬間まできちんと人は話せると思っているのです。この誤解は時に、治療への誤解へとつながっていきます。痛み止めに医療用麻薬が必要な患者さんが時にいます。ある研究では9割の人に必要と言われています。 (これは自分の実感よりも多いと思いますが) これは亡くなるまでのつらい症状を緩和する大切な治療です。にも関わらず、亡くなる前に使われている薬が、患者さんを眠らせていると誤解している家族が想像以上に多いのです。
残念ながら僕は、この男性のように亡くなるまできちんと意味のある会話ができる看取りにはほとんど立ち会ったことがありません。周りの人達は別れの挨拶を告げて死を迎えて欲しいと思うのですが、多くの人はそういう風には死なない。人の生から死への意識の変化というのは、白昼の光に満ちた力のある状態から、急に真っ暗な夜の闇に至るのではない。その間の薄暗い夕暮れを経ながら、時には夕暮れの光が強まったり弱まったりしながら、死へ向かう時間というものを過ごすのです。そして、死はある瞬間に訪れるのではなく、意識のグラデーションを緩やかに移行していく中で訪れます。この夕暮れの状態を、終末期せん妄と呼ぶときもありますが、他によい呼び方が医療の世界にないだけです。この夕暮れの状態の間、人は夢と現実の間を行ったり来たりしながら過ごすのです。この夢を「走馬燈のように人生を振り返る」とか「亡くなった先祖と対話をする」とか「まだここには来るなと死んだばあさんに言われて戻ってきた」とか表現するのかもしれません。
今までの研究の結果では、7割の患者は亡くなる直前には意識がなくなるということがわかっています。さらに詳しい研究の結果では、患者の意識がなくなるのは平均1.8日で、患者の多くは死を迎える3日以内には意識がなくなっている、もしくは意味のある会話がしにくくなるということが分かっています。1) ですから亡くなる前に意識がなくなってくるのは、死の道のりとしては自然なことです。この男性のように亡くなる直前に会話ができる方がまれなのです。
また人がこの意識の夕暮れを迎える頃には、眠る時間がだんだん長くなります。そして昼、夜という1日の時間も、月曜日、火曜日という週の時間も失われます。だいたいこの時間の区切りというのは、人が生活のためにたまたま区切ったものであって、亡くなりゆく人にとっては、時間の流れはもはやモノトーンのよう、まるでなくなってしまったかのようにも見えます。付き添いの人達は「昼寝ている」「夜起きている」とよく話しますが、それは「元気な人の時間と、病者の時間の流れがちがう」ことに気が付いていないからに他なりません。意識の夕暮れを迎えた人は、私たちと同じ時間を過ごしながら、全く異なる時間が流れる世界にいるのです。
こうして人は夕暮れから死という闇へと徐々に移ろっていきます。夕暮れの間、人は自分が「死を迎える」と考えながらも「生が持続する」と信じています。意識が夕暮れであるため、言葉ははっきりとしないことも多く、改まった話をすることもほとんどありません。思いは昔の楽しい頃に戻り、そして時間が止まっていますから、周りの人達がやきもきしてしまうほどどこか吞気に見えます。複雑な会社の経理や、遺産相続の配分、未納の町内会費、ましてや未返済の借金といった複雑な事を判断する力はほとんどありません。特に数字にも弱くなります。
ところが、何もかもできなくなるように見えるこの時期にも「他人の情を受け取る」という大切な心のチャンネルだけはきちんとあいています。誠実に優しく接すれば、家族や旧知の方以外の新しい方、例えば医師や看護師、医療者を受け入れます。その人はあなたを医師や看護師、医療者とは思わないかもしれませんが、「自分に親切にしてくれる、気持ちの良い人」それはちゃんと分かるのです。家族の遺産相続のような複雑で面倒な話には反応しなくても、手を握り優しく語りかければ、言葉の意味は分からなくてもちゃんと自分に向けられた情を瞬時に受け取ることができるのです。だから「死ぬまで耳は聞こえる」のです。それは周囲の人の音声信号を鼓膜が受け取り、蝸牛で電気信号に変換され、聴神経を電解質とタンパク質の伝導で脳に伝わり、言語中枢で判断しているのではありません。もっと別の、電気信号に変換できない情という不思議な信号で交信するのです。
家族一人一人に言葉を残して、死を迎えた彼。最期まで自分が死ぬなんて認めていなかったかもしれません。でもある日「今日自分は死を迎える」と実際に語り、家族を一人ずつ呼んで言葉を贈りました。この奇跡に僕は感動し、病院を去るときの家族の表情から、この奇跡的な贈り物が、死の悲しみや、連日の看病による疲労感を癒しただけでなく、彼らの心に不思議な充実感を残したことを悟りました。そしてこの奇跡的な時間を作り出せた彼を、心から尊敬してしまうのです。
こういう亡くなる前の奇跡的な時間には、家族だけに言葉は贈られます。僕を含めて医師や看護師に贈られることはほとんどありません。またこの奇跡的な時間を演出したり、作り出すような不遜な助言は全く持って不要です。亡くなりゆく人達は自分で死を悟り、そして語り始めます。残る人達には、彼の奇跡を信じて見守る以外何もできないのです。「人は生きてきたように死んでいく」とよく言われます。人が死ぬときの時間は亡くなりゆく人の意志で自分が創っていくのです。そして、その時何を語るのかはその人が生きて、自分の周囲に施したこと全てのことが伏線となるのです。もしもあなたが、この奇跡的な時間に立ち会った経験があるのだとしたら、きっとそれは亡くなってもうここにはいない、あなたの大切な人からの贈り物なのです。
引用文献
1) Pautex, S, Moynier-Vantieghern, K, Herrmann, FR, Zulian, GB. State of consciousness during the last days of life in patients receiving palliative care. J Pain Symptom Manage 2009;38(5):e1-3.
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