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2011年6月

2011年6月27日 (月)

人が死ぬとき

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最近、病棟で癌のため一生を終えた一人の男性がいらっしゃいます。僕は息を引き取るその瞬間には立ち会えませんでしたが、その場にいた看護師の話によると、この方は、母、妻、娘と集まった家族を一人ずつ呼び寄せて言葉を残したのだそうです。詳しい話は聞きませんでしたが「ありがとう」「後のことは頼む」「先に逝ってしまうことすまない」といった言葉だったそうです。家族が集まることができる日を選んだかのような、ある週末の午後の出来事でした。話を聞いた僕や立ち会った看護師はこの出来事にとても感動しました。なぜ感動するかと言えば、この方のように自分が死ぬ直前に言葉を家族に贈る方は滅多にいないからです。

テレビドラマでは、人の死の瞬間の描写はおおよそこういうものです。ある日、患者 (父親) の周りを家族が取り囲む。仕事で忙しい息子も仕事のスーツのまま息を切らせて病室に駆け込んでくる。「オヤジ!」と大きく声をかける。妻はその傍らに座り、涙を流しながらハンカチを鼻に押し当てうろたえている。娘は父親の手を握っている。
息子が大きく声をかけると、患者はつけられた酸素マスクをその力のない手で外し、声にならないほど小さな声で息子に語りかける。「え?オヤジなんだ?」「あとは・・・頼む・・・」「わかった、わかったぞオヤジ、安心しろ!」
その瞬間、がくっと手が落ちる。そして、後ろに控えていた医者が脈をとり、下を向きながら臨終を告げる。その瞬間、家族はせき切れたように泣き始める。「お父さん!」「オヤジ!」
このような描写のため多くの家族は誤解しています。死の瞬間まできちんと人は話せると思っているのです。この誤解は時に、治療への誤解へとつながっていきます。痛み止めに医療用麻薬が必要な患者さんが時にいます。ある研究では9割の人に必要と言われています。 (これは自分の実感よりも多いと思いますが) これは亡くなるまでのつらい症状を緩和する大切な治療です。にも関わらず、亡くなる前に使われている薬が、患者さんを眠らせていると誤解している家族が想像以上に多いのです。

残念ながら僕は、この男性のように亡くなるまできちんと意味のある会話ができる看取りにはほとんど立ち会ったことがありません。周りの人達は別れの挨拶を告げて死を迎えて欲しいと思うのですが、多くの人はそういう風には死なない。人の生から死への意識の変化というのは、白昼の光に満ちた力のある状態から、急に真っ暗な夜の闇に至るのではない。その間の薄暗い夕暮れを経ながら、時には夕暮れの光が強まったり弱まったりしながら、死へ向かう時間というものを過ごすのです。そして、死はある瞬間に訪れるのではなく、意識のグラデーションを緩やかに移行していく中で訪れます。この夕暮れの状態を、終末期せん妄と呼ぶときもありますが、他によい呼び方が医療の世界にないだけです。この夕暮れの状態の間、人は夢と現実の間を行ったり来たりしながら過ごすのです。この夢を「走馬燈のように人生を振り返る」とか「亡くなった先祖と対話をする」とか「まだここには来るなと死んだばあさんに言われて戻ってきた」とか表現するのかもしれません。
今までの研究の結果では、7割の患者は亡くなる直前には意識がなくなるということがわかっています。さらに詳しい研究の結果では、患者の意識がなくなるのは平均1.8日で、患者の多くは死を迎える3日以内には意識がなくなっている、もしくは意味のある会話がしにくくなるということが分かっています。1) ですから亡くなる前に意識がなくなってくるのは、死の道のりとしては自然なことです。この男性のように亡くなる直前に会話ができる方がまれなのです。

また人がこの意識の夕暮れを迎える頃には、眠る時間がだんだん長くなります。そして昼、夜という1日の時間も、月曜日、火曜日という週の時間も失われます。だいたいこの時間の区切りというのは、人が生活のためにたまたま区切ったものであって、亡くなりゆく人にとっては、時間の流れはもはやモノトーンのよう、まるでなくなってしまったかのようにも見えます。付き添いの人達は「昼寝ている」「夜起きている」とよく話しますが、それは「元気な人の時間と、病者の時間の流れがちがう」ことに気が付いていないからに他なりません。意識の夕暮れを迎えた人は、私たちと同じ時間を過ごしながら、全く異なる時間が流れる世界にいるのです。

こうして人は夕暮れから死という闇へと徐々に移ろっていきます。夕暮れの間、人は自分が「死を迎える」と考えながらも「生が持続する」と信じています。意識が夕暮れであるため、言葉ははっきりとしないことも多く、改まった話をすることもほとんどありません。思いは昔の楽しい頃に戻り、そして時間が止まっていますから、周りの人達がやきもきしてしまうほどどこか吞気に見えます。複雑な会社の経理や、遺産相続の配分、未納の町内会費、ましてや未返済の借金といった複雑な事を判断する力はほとんどありません。特に数字にも弱くなります。
ところが、何もかもできなくなるように見えるこの時期にも「他人の情を受け取る」という大切な心のチャンネルだけはきちんとあいています。誠実に優しく接すれば、家族や旧知の方以外の新しい方、例えば医師や看護師、医療者を受け入れます。その人はあなたを医師や看護師、医療者とは思わないかもしれませんが、「自分に親切にしてくれる、気持ちの良い人」それはちゃんと分かるのです。家族の遺産相続のような複雑で面倒な話には反応しなくても、手を握り優しく語りかければ、言葉の意味は分からなくてもちゃんと自分に向けられた情を瞬時に受け取ることができるのです。だから「死ぬまで耳は聞こえる」のです。それは周囲の人の音声信号を鼓膜が受け取り、蝸牛で電気信号に変換され、聴神経を電解質とタンパク質の伝導で脳に伝わり、言語中枢で判断しているのではありません。もっと別の、電気信号に変換できない情という不思議な信号で交信するのです。

家族一人一人に言葉を残して、死を迎えた彼。最期まで自分が死ぬなんて認めていなかったかもしれません。でもある日「今日自分は死を迎える」と実際に語り、家族を一人ずつ呼んで言葉を贈りました。この奇跡に僕は感動し、病院を去るときの家族の表情から、この奇跡的な贈り物が、死の悲しみや、連日の看病による疲労感を癒しただけでなく、彼らの心に不思議な充実感を残したことを悟りました。そしてこの奇跡的な時間を作り出せた彼を、心から尊敬してしまうのです。

こういう亡くなる前の奇跡的な時間には、家族だけに言葉は贈られます。僕を含めて医師や看護師に贈られることはほとんどありません。またこの奇跡的な時間を演出したり、作り出すような不遜な助言は全く持って不要です。亡くなりゆく人達は自分で死を悟り、そして語り始めます。残る人達には、彼の奇跡を信じて見守る以外何もできないのです。「人は生きてきたように死んでいく」とよく言われます。人が死ぬときの時間は亡くなりゆく人の意志で自分が創っていくのです。そして、その時何を語るのかはその人が生きて、自分の周囲に施したこと全てのことが伏線となるのです。もしもあなたが、この奇跡的な時間に立ち会った経験があるのだとしたら、きっとそれは亡くなってもうここにはいない、あなたの大切な人からの贈り物なのです。

引用文献
1) Pautex, S, Moynier-Vantieghern, K, Herrmann, FR, Zulian, GB. State of consciousness during the last days of life in patients receiving palliative care. J Pain Symptom Manage 2009;38(5):e1-3.

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2011年6月19日 (日)

言葉の不調

「以前の先生の講演にはキレがあってよかったよね」最近時々人から言われます。医学系の講演ですとエビデンスを基に話す、要するに他人の言葉を使い回して話すことが多いのです。他人の言葉を自分の中で共鳴させているその事が実は快感だったりするんです。でも聴いている方は、その言葉が空虚であることにうっすら気がついている。それでも内容は分からなくても、爽快なキレだけはメタメッセージとして受け止める。そして「よかったですよ」って言ってくださる。それは、自分の勉強した労力とその時間に対する賛辞なのかと受け止めています。

 

コミュニケーションのテクニックもそう。緩和ケアでコミュニケーションが重要なのは言うまでもないことですが、その方法論をストックフレーズの蓄積と再生にあてていることに気がついていない。いつも自分が発する言葉は逡巡してしぼり出すようにして、やっと出てくるもの。誰でもその事は分かっているから、何となく今巷にあふれるコミュニケーション理論がしっくりこない。

 

こうしているうちに、自分の心から発する言葉がないから、他人の言葉を借りているという現実に直面する。理論構築をどれだけ正確にしても、他人の言葉を借りて他人の思想に憑依しているだけではないかと。自分の中から本当に出てきた言葉を捉まえたい。いや、自分の思想を自分の言葉で語らなければ人前で語る資格はないのでは、と思い始めて少し苦しくなってきているのです。そして自分の心と向き合いながら語りを考えるうちに、吃り、間があくようになってきてしまいました。病室でも、以前には耐えられた沈黙が最近は少し怖い。

 

今、自分はOSアップデートの時期。不完全な自分をさらけだす講演がつらいこともあり、またバグの多いOSをさらす自分が恥ずかしく、聴衆の方には申し訳ない時もあります。それでも賛辞を下さる。ありがたい。自分の言葉を疑い、吃りがでるのは特に3.11の震災以降。ほとんどの言葉が空虚になったようなそんな錯覚に陥り、実はそれは今も続いています。つぎはぎの言葉が、消費される言葉が、借り物の言葉が、どうしても自分の心で許せなくなる。今しばらくはそんな日々が続きそうです。

 

不完全な自分でも毎日を生きて、接する方々に誠意をもってお付き合いしたいと思っています。いつだって「完全な状態」で生きていける日はないのだから。どこか足りなくて、どこか過ぎている。それでも目の前の患者さんには「何か」をして差し上げなくてはなりません。「あれがない、これがない、まだ迷っている」と言ってはいられないのです。今の病院では○○ができない、今の病棟では○○ができない、前の病院では○○ができた、今の自分では○○ができない。こうは言っていられないのです。不完全な自分でも納得がいく毎日を送るにはどうしたらよいかと考えてみる。受験勉強していた頃の自分が心からささやいてくる。

『自分が一番良い安定した状態を自分でメンテナンスすること』

 

そうでした。医学部を目指し学校の授業そっちのけで毎日図書館へ僕は通いました。あの時長い時間集中して勉強するには、ちゃんと休憩をとって自分のペースを守る。他人と競争しない。昼寝は10分。おしゃべりは短く。お腹いっぱい食べない。でも少しだけおやつを食べる。何のことはないあの時とまだちっとも僕は変わっていないんだ。次は何年先に今の自分が助言をささやくのか。その助言を忘れる前にこうして残しているのです。

 


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2011年6月11日 (土)

「先生呼んで!」患者さんの支え方

今夜東京で話す内容について、記憶を頼りに思い出してみます。
当時30歳ぐらいでまだまだ若かった僕は、農村部の病院で内科医をしていました。少しずつ仕事にも慣れてきて色んな仕事を後輩に指導する立場になりつつありました。これから自分はどういう分野にキャリアアップするのか迷っていた時期でもあります。この病院では、自分の専門分野をもつことはなく、ありとあらゆる内科の患者さんを担当していました。大学病院にいる頃、所属していた医局で僕ら若い医師達は、全般的に診療ができるよう訓練を受けました。医局というのは、大学病院の医師の会社のようなところです。医師はその会社から各地の病院に派遣 (赴任) されるという仕組みでした。ですから、僕も農村部の病院では派遣社員というわけです。派遣期間はほとんど聞かされておらず、何年ぐらい一つの病院で仕事をするのかは医師によってまちまちでした。
僕はこの赴任先の病院で、がん患者さんを担当することも多く、独学で学んだ緩和ケアを必要に迫られて実行しました。痛みを取ること、食事ができないときの対応をすること、そして病気の恐怖を支えること。
ある女性のがん患者さんがいらっしゃいました。外科に入院したこの患者さんは、恐怖のあまり大きな声で怒鳴る、そうかと思うと急に泣くといった情緒不安定な日々が続いていました。
「どうして私がこんな病気になるのよ!」「これからいったいどうなるのよ!」
毎日の対話を続けていても状況は一向によくならなかったようです。ある日病棟の詰め所でカルテを書いていると看護師さんからこう話しかけられました。「先生、何とか助けてくれないかな」「・・・うん。でもこの方は外科の○○先生の患者さんでしょ・・・」当時は主治医の責任というのは今よりも大きく、一人の患者を診療したら外来も入院の間もずっと対応するというのがこの病院のルールでした。責任は大きく、医師と患者の心のつながりは強いのですが、一方で主治医が他の医師に相談し協力して診療にあたることはなかなかありませんでした。むしろ、他の医師からあれこれ意見を言われるのを疎ましいと思う医師も多くいる、そういう時代だったのです。

それでも、この患者さんを何とかしないとと確信し、外科の医師のところまで言って頼んでみました。「○○先生、この患者さんいつも叫んでいて看護師さんたちも対応に困っているようでして・・・もしよかったら僕が一度会いに行ってもいいですか?」「ああ、そう。いや僕も困っているんだよね。どれだけ説明しても分かってくれなくてさ。一度行ってくれる」思ったよりも簡単に年配の○○先生は受け入れてくれました。そして、緩和ケアの勉強をし知識をもった気になっている情熱と若さが取り柄の内科医は勇んで患者さんの部屋に行きました。その手にはベッドサイドで腰掛けるための丸いすを持って。
少し緊張しながらも「こんにちは」と話しかけました。「外科の○○先生から頼まれて今日は参りました。僕は内科です」ちらっとこちらを見ますが、明らかに警戒しているのが分かります。「何の用で来たのよ」ここでひるんではこの方の緩和ケアが始まりません。でもまさか「看護師さんが・・・」と他人を引き合いに出すこともかえって信頼を失います。ここは思い切って、「時々ね、つらそうな声が聞こえてくるんです。僕もこの病棟に何人か患者さんがいるんで診察に来るんです。それでね、つい心配になって」「へ?」興味のなさそうな返事でしたが続けました。「病気のこと話しませんか?」

警戒した患者さんと何を話したのか今は思い出せませんが、とにかく固く閉じた心の窓がほんの少しでも開けられないかと、細心の注意をしながら色んな話をしました。
自分のことも自分が思っていることも。とにかく自分という人間をさらけ出さない限りこの方はこっちを向かないと、必死になってしゃべり続けました。この方の心を解きほぐすには、とにかく「仲良くなる」のが第一歩だと、確信していました。当時は精神科医の同僚もおらず、書物の通り、見よう見まねで一生懸命でした。誰も自分を指導してくれません。でも、指導して自分が鍛えられてから初めて医療を提供するという猶予はありません。目の前には毎日毎日患者さんがやってきます。「あのぉ、申し訳ないのですが自分はまだまだ修行不足でして・・・僕の診察をうけるのであればあと2年待っていただけないでしょうか」などと言ってはおれず、この心の苦しみを抱える女性がん患者さんと多くの時間を過ごすようにしました。いつも全ての仕事が終えた夕食後のひととき。外が暗くなる頃、昼間の病棟の喧噪が急に静まり、廊下を歩く人の足音が大きな存在感を増す時間。この方も一番さびしくなる時間です。

外科の○○先生も、病棟の看護師も安心していました。毎日のように僕が対応するから、決して病状はよくなることはなくても、誰かがこの患者さんを支えてくれる。でもおかしな事が始まりました。外科の○○先生が診察しても、徐々に耳を貸さなくなり、看護師が「ねえ、こうしてみません?」とケアを提案しても全く聞かなくなりました。ある日、夜中に強い痛みがおこりました。その時対応した看護師に、「先生呼んで!」「とにかくあの内科の先生呼んで!」と大きな声で叫びました。看護師もどうしてよいかわからず僕に電話をかけてきました。「急に強い痛みがあり、先生のことを呼んでます!」
この頃は当直の医師がいても受け持ちの患者の事は全ていつでも直接電話がかかってきました。どんなささいなことでも担当患者のことは全て対応していたのです。この夜も真夜中に車を走らせ病院に向かいました。着いたときにはすでに痛みは遠のきつつあり、ただ「大丈夫?」と声をかけると、「先生、遅いじゃないの。さっきは本当に痛かったんだから」とこの患者さんはどこか怒ったように話します。
とにかくこの方と話す時は安心できないのです。心のどこかを緊張させて話さないと大変なことが起こるようないやな予感がするのです。顔と口調は努めて穏やかで優しく、でもこの患者さんの言葉を最初に拾い上げる耳は感度を高めて言葉の隙間に隠されている意味も聞き取ろうとします。そして受け取った言葉を詳細に吟味して、それでもすぐに言葉を返す。その言葉には決して毒を混ぜてはいけません。絶えずこの患者さんに「絶望の中でも、心のどこかにはきっと小さな星があるはずだよ」というメッセージが伝わるように話し続けました。僕が「小さな星」を彼女の心の中から探そうとすると、まるでそれを見透かすかのようにすぐに、探し回る僕を絶望に満ちた闇に引き込もうとします。「先生はそういうけどさ、どうせこのまま死んじゃうんだから」「どうせ家族もこんな私に困ってるのよ。いなくなっていいのよ私なんて」
細心の注意を払いながら対話を続けました。細心はいつしか砕身となり僕もこの方と話した後はぐったりと疲れるようになりました。そして、昼、夜わからない「先生呼んで!」に対応する緊張が続きました。それでも、若かった僕はこの患者さんから逃げない覚悟を決めて付き合い続けました。抗うつ薬や抗不安薬、睡眠薬を組み合わせながら何とか「小さな星」を見つけて、彼女の手の中におさまる日を待ちました。あらゆる薬は決して彼女をオプティミストにすることはありませんでした。

しばらく月日が過ぎて、彼女と僕の時間は彼女の死で終わりました。当時の僕は、彼女を支えきったという充実感を感じていました。ほんの少し感じた違和感のようなものは日常の流れに押し流されていつしか消えていきました。

あれから10年が過ぎ、緩和ケアの専門医として働き、色んな精神科医と一緒に働くことで人と向き合う様々な方法を教わった自分が当時を思い返すと、あの時の違和感が何であるかわかるようになりました。あの時の僕は自分の時間と労力を彼女に注ぎ、彼女に真剣に向き合い逃げないことで支え続けようとしました。そして「先生呼んで!」の彼女の叫びは救急隊の出動命令の如く、迅速に対応するべき号令でした。残った時間が短く、間近に迫った死が約束された彼女を支えるにはこれが一番、と若さと情熱で走り続けていたのです。でも、今から思い返すとはっきりわかります。この違和感は「本当は彼女を支えたのではなく、彼女を一人で生きていけないようにしたんじゃないの?」という厳しい自分への問いです。彼女がどんなに苦悩に満ちた状況であっても、彼女自身の力で生きていけるように支えること。身体も心も軸を失いぐらぐらした状態でも、彼女をまるごと背負っていくのではなく、大ケガしないように見守りながら時に手を貸すこと。そんな支え方ができなかった自分を反省するのです。

「先生呼んで!」の叫びを無視することもできません。「先生呼んで!」と叫ばない彼女を治療で作り出すこともできません。あの時の自分に足りなかったものはなんでしょうか。あの時の自分の違和感を今の自分はどう昇華できるのでしょうか。

他人を心配する事は一見良い行いと思うのですが、決して良いことではありません。なぜなら心配された相手は自分自身で生きていく力すなわち自立心を結局失うからです。僕がすべきだったことは、「先生呼んで!」と叫んだときその場に居合わせた看護師が彼女に対応できるようにすること、「先生呼んで!」と叫んだ後なかなかたどり着けなくても、時にはそのまま一夜を明かしても「昨夜は大変だったね」といつも通りほほえんで声をかけられること。こういう関係を僕と彼女はつくる必要がありました。彼女の心の「小さな星」を探そうと必死になって続けた会話は、いつしか亡くなりゆく者への傲慢な諭しになったのです。相手を思って、心を砕いての諭しですが、「このように生きてみたらどうだろうか、物事のよい面を見るようにしたらどうだろうか」「人生の真理、愛と情の支えに気がついたらどうだろうか」、このような諭しは、相手を心配して発する善の言葉にあふれていても、結局は相手の力を奪う傲慢な憐れみとなるのです。病者、弱者への憐れみが彼らの力を奪い、時には治療者が依存されることで一見平和を取り戻す。「先生呼んで!」にすぐに駆けつける。誠意を込めて対応を続ける。何度も言うようにこのやり方では本当の支え、援助にはならないのです。

相手の力を信じて、病者が時には孤独に耐えられるような援助をする。自分以外の人間の援助も受け取ることができる独立し自立した関係になる。若い僕に足りなかったのは、病者を人生の先達として尊敬する構えと、見守る忍耐力、そして自分自身の謙虚さであろうと思います。そして今の僕がもう一度彼女に出会ったなら、今度は「先生呼んで!」と叫び声が聞こえても、「ごめんね、すぐに行けないから自分で何とかできるところまでやってみて」と、すぐに側へ走り出したくてむずむずする自分をなだめながら優しく答えることでしょう。そして、一番側にいる人と彼女が何とかするのをそっと見守ることでしょう。

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2011年6月 6日 (月)

がん告知という呪い

今朝の毎日新聞に、岡部健先生の連載中のエッセイが載っていました。ご自身も胃がんを患い、そして余命の告知についての考察を書いていらっしゃいます。

《告知のあり方にも複雑な思いがある》

 私は、自分の病気を知りたい患者には真実を伝えてきました。一方で、人が未来を知ることは幸せなのかと、がんを体験して強く感じました。
 病院で余命3カ月と告知されたある患者は、その言葉が頭にしみついて「あと何日」と数える毎日を過ごしていました。余命数カ月と告知されても年単位で生き続ける例もあるのに、患者には不安と絶望感だけが残り、普通に過ごせたはずの時間まで奪われてしまう。「告知ありき」の流れには疑問を感じます。

僕の経験から、病名でも余命でも、相手に事実を伝えるというのは、医師にとっては決して容易なことではありません。患者の気持ちをいたわりながら告知するにはどうすればよいか逡巡すればするほど、言葉が見つからなくなるからです。この告知を巡る問題は、今まで大きく変化し続けてきました。その変化について少し振り返ってみようと思います。
以前は、患者は真実を知らない方がいい、治療は医者に任せておけばよいのだというパターナリズムが主流でした。患者が病名を知る前に、医師からがんであることを「伝えますか」「伝えません か」と問われた多くの家族は、「伝えないでください」と答える方も多くいました。患者は自分ががんであることも知らぬまま、化学療法(抗がん剤)の強い副作用 に耐えたり、最期の時を迎えたり。家族と医師と看護師は、患者の見えない聞こえないところで、たくさんの嘘の打ち合わせをしていました。もちろん患者を落ち込ませたくない、生きる希望を奪いたくないそんな患者の気持ちを思いやる心から、本当の病名を言わないことや嘘をたくさん作っていたのです。病室ではこわばった作り笑顔。患者は内心どこかおかしいと気づいている。それでも患者は家族の気持ちを察して何も言わずにだまされたふりをしていることもあったことでしょう。でも本当は、医師も患者と向き合うのが怖かったのかもしれません。「あなたはがんです」その言葉に医師はとても恐れを感じていますから。なぜなら、医師は自分の力で患者を治せないという無力感を患者の前ではなかなか吐露できないものなのです。

時代は変わり、特にここ20年くらいで徐々に状況は変わりました。自分の病気はやはり自分が知っていなくてはと、がんであることをほとんどの患者は知るようになりました。自分自身の治療や生き方を自分で決めるという考え方がその根底にはあります。個人の権利を尊重する考え方の影響を大きく受けています。自分 のことは自分で決める。決して悪いことではありません。がんの治療はうまくいかないこともたくさんあります。自分で納得して決めたからこそ、うまくいかないときも納得できる。そしてまた、がんを患ったという悲しみもつらさもなくなることはありませんが、やはり患者、家族、医師の間で嘘がないことから、つらさを分かち合い、共に病気の恐怖と向き合うという新たな関係が生まれるのです。中には、一切の治療をやめて死を静かに見つめつつ、残された時間を大切に生きる方もいらっしゃいました。

こうして告知の問題はすでに解決した問題だと多くの医師も患者も考えるようになりました。がんを告知するのが当たり前。「告知すべきかせざるべきか」すでに過去の論争のように思っています。しかしこのがん告知をめぐる問題は形を変えて今も続いているのです。

時は流れて21世 紀となった現在、「病院ランキング」や「ブログ」など様々な医療に関する情報があふれています。自分がどの病院へ行けば一番良い治療を受けられるのか、患 者、家族は様々な情報を検索する時代となりました。そして、病院もこの状況を受けて医療はますます専門化しました。結果として、一人の患者が色んな病院の 治療を受けるようになりました。特に都市部ではその傾向が強く、「手術はA病院、普段はB病院、抗がん剤はC病院、亡くなる前はD病 院」とそれぞれの病院で受けられる医療を吟味しながら治療を継続するような患者もいます。また、「この病院では長い入院は困ります」と言われ、患者、家族 が望まない転院を迫られることも増えてきました。あるがん専門病院では「うちの病院はほとんどの患者は亡なくなりません!軽快退院は80% 近くです!(だって、他の病院へ転院するから)」という悪い冗談もあるほどです。そして病院が変わる度に主治医が変わります。大きな病院になると、外来の 医師と入院の医師、手術の医師、検査の医師と複数の医師が関わるようになります。それぞれの得意分野を活かしてチーム医療が提供されるようになってきまし た。このような医療体制の変化は、良質な医療を受けたい患者と、良質な医療を提供したい病院とが同じ夢を見ながら自然と変化したことです。しかし、この主 治医が変わることは異なる状況を生みます。つまり、良質な医療を受けたいという患者、家族の考えは、良質な医療の連続というよりも、誰も自分たちに親身に なってくれる医師が結局誰もいないという、不幸な不連続が目立つことにもなってきたのです。

こうした現在の医療体制で、まず「告知ありき」が原則の「がん告知」にはまた違った一面が見えてきました。

今の総合病院では、初診の時いきなり「あなたはがんです」と準備もなく言われることも増えてきました。不幸を告げるにあたって、そこに医師の逡巡はない。患者に正確な病名、そして真実を告げることに全く躊躇がない。がんを知らされなかった無念の患者の声、患者と向き合えなかった家族の後悔、どこかおかしいと 不自然さを感じていた医師、それらに応えたはずの告知が、今となっては躊躇のない告知になってしまったのです。医師にもすでに病名を告げることの迷いはあ りません。そして、専門分化された病院では、その患者はいずれ別の病院に転院します。診断をした病院から手術をする病院へ。手術をする病院から抗がん剤を する病院へ。抗がん剤をする病院から看取りをする病院へ。こうして治療の開始と転院を円滑にする「告知」が、特に都市部で蔓延してしまいました。また、少し前の個人情報保護法で患者の個人情報すなわち病名も患者自身が知るべき情報であって、例え家族であっても患者より先に知るのはおかしいという解釈がまことしやかに広まりました。僕はここまで病院で働く医療者の判断力は劣化したのかと情けない思いがしました。「患者に正確な病名を真っ先にしかも迅速に伝えない」ことが、一体どういう罪に問われるのでしょう。

患者に病名を「告げる」か「告げない」か。葛藤がいつまでも自分の身の回りに続くことは人にとってはとても不快です。その不快から逃れるためには、1つの立場を明確にしてその立場から決して動かないと周囲に宣言するのが一番の早道です。こうして「私は患者に正確な病名を告げる方針です」「個人情報保護法をご存じですか?病名は患者の個人情報です。まず正確な病名を患者は知るべきなのです」と声高らかに宣言するのです。そして、この宣言には免責が含まれます。「だから、私が 診察した以上、あれこれ後からクレームを言っても一切関知しません」と。最近は医療の側が絶えずクレームの一歩先に準備をするようになってきました。余命についても「あなたのために、ちゃんと言っておきます。残った時間は3ヶ月でしょう」と患者のためを思ってという疑いのない正義の下、簡単に話される ようになりました。「残った時間を、有意義に過ごすために退院してください。 家が一番です」「残った時間を苦痛なく過ごすためにホスピスを申し込んでください。それが一番です」そんな話が続きます。こうして告知はそれぞれの患者を思う気持ちがだんだんと埋もれていきました。

僕の知る、新聞にエッセイを書いた岡部先生はとても患者思いの医師です。それでも現在の告知のあり方に躊躇を感じています。それはここまで考察した内容とまた別の視点があると僕は考えています。
それは田口ランディさんの書いた「キュア」という本の一幕です。医師がある患者に、膵臓がんの末期であることを告げます。そのとき患者は医師が勧める手術を拒絶します。そして医師に、「私の余命はどのくらいですかね?」と尋ねると、医師は迷いながら、「知りたいのですか?」と問い直す。うなずく患者。「手術をしなかった場合は、・・・・・・悪くて半年です」と医師は話す。余命の告知です。すると患者はこう言います。「呪いですね」「先生は、たったいま私に死ぬという予言を与えた。半年後にオマエは死ぬぞ。それを昔の人は呪いと言いました」

最初にこの一節を読んだとき、小説に登場する医師と同じく僕には意味が分かりませんでした。「呪い」なんて今の世の中にあるの?だいたいオカルト的で科学的じゃない。古代人の話じゃあるまいしやめてよ。そう思いました。しかし、この小説を読み終え、自分の周りをよく見渡してみると、確かに「呪いの儀式」はあちこちで行われ ていました。もしかして患者を思って話していたことが、「呪い」のような何かを含んでいるかもしれないとも思いました。いくらコミュニケーション技術や手法を学び、丁寧な面談と手順、そして相手の気持ちを考えて心情を汲み取ろうとして接していても、今の医療状況の中では患者は「呪い」をかけられる。医師は自分の吐く言葉を、接遇、正しい言葉遣いでどれだけ整えても、簡単に「呪い」の儀式は始まります。

「呪い」は何も医師から患者へと向けられるものだけではありません。医師は自分の考えに呪縛され、それ故に不幸を味わうこともあります。僕にも思い当たることがあります。僕 の大学の恩師は胆石が専門でしたが、ある日胆石の発作がおこり大学病院に入院しました。幸い治療を受けて退院することができましたが、今思い出すとある一つの格言を連想します。それは小説「キュア」にも登場します。「人を呪わば穴二つ」つまり、患者を呪えばいずれ自分にも災いは降りかかるという言葉です。 医師が自分の専門領域の病気になることが多いというおかしな伝説があります。もしかしたら医師は二つ目の穴に落ちているのかもしれません。絶えずある特定 病気の呪いの言葉を医師自身が診療を通じて自分の身体に共鳴させていれば、必ず体は感応します。空想かもしれませんが、僕の恩師もこの穴に落ちてしまった のかもしれません。

病名も告知も「告げるべきか」「告げないべきか」という次元にとどまっている限りはいつまでもこの問題の本質が見えてこないことでしょう。新聞のエッセイのコメントのように「告知ありきの流れに疑問」を感じながらも新しい地平が見えてこない。余命を告げる「呪い」を超えた患者との対話はあり得るのでしょうか。

決して患者に冷たい医師だけではありません。患者を理解し患者の気持ちを慮る(おもんばかる)ほど、どう話したらよいのか逡巡し悩む。悩んで悩んで言葉が続かず、そして本当に患者のことを思うあまり、巷にあふれるコミュニケーションの技術が無力化してしまう。そんな風に迷いながら告知をめぐる葛藤を簡単に解決せず考え続ける医師も多いと信じています。

患者を呪わず、患者を思い病気を告げること。この問題についてはまだまだ自分も含めて医師には体得が必要な素養があるようです。そしてその素養はおそらく医学の教養だけでは及ばず、ビジネス界から導入した接遇やコミュニケーション技法、コーチング理論でも及ばず、もっと古代からの人間同士の営みのようなもの を根本的に考察する必要があるのかもしれません。現代テクノロジーで万能化したように思える医学ですが、ひょっとしたら呪術の時代から、進歩していないと ころがあるのかもしれません。いや、進歩しては(変化しては)いけないところがあるのかもしれません。

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