« 南相馬便り (詳細) その2 | トップページ | 南相馬便り (詳細) その4 »

2011年5月 5日 (木)

南相馬便り (詳細) その3

福島県南相馬市で3日目の朝が来ました。昨日の荒れた天気とは違い、穏やかな1日でした。2日目と同じく4カ所の避難所を廻ります。

●原町第一小学校

昨日の順番とは反対にまずあの原町第一小学校から伺いました。2日目に演奏で伺ったときの何とも言えない目を合わせない心の閉じた雰囲気を思い出し、どうやって対話したらよいのだろうとしばし考え込みました。この日は南相馬市立総合病院、副院長の及川先生から連絡があり、2人のボランティアとして他地域から来た看護師を同行させて欲しいとの依頼がありました。また瓦礫撤去のボランティアとして一足先に到着していた井上さんも一緒でした。こうして仲間も増えて原町第一小学校に着きました。早速受付の市の職員の方がアナウンスをしてくれました。「診察が必要な方はお越し下さい」仮設の診療所は用具室です。そこにはティンパニや跳び箱にならんで、仮設のベッドが一つ置いてありました。井上さんや原田さん、吉田さんがどんどん話しかけています。20110506_161838 「あっちで診てもらったら」あっと言う間に用具室の外には5人ぐらいの行列ができました。
皆さん、本当は毎日誰かが診ているのですから本当は診察の必要はないのかもしれません。でも皆さんにきちんと身体の診察をして、脈を計り、血圧を測る。持ってきていた酸素飽和度を測る。みんな「大丈夫ですよ」と一言医師から毎日言われる事で、この異常な避難生活を一歩一歩足を踏み外さないように過ごす礎になるのです。僕にはそう思いました。

「血圧はいいですよ」「薬の効き目はいいですよ」「よく眠れていますか」そういうメッセージの奥底に「あなた大丈夫よ!」という思いを込める事が自分にとっては必要な診察だと思いました。僕には「避難所生活の至適血圧」といった概念は全く無意味だと思いました。診察を通じて「今回の事、大変だったよね」と話しかけると皆さん、ぽつりぽつりと震災のことを話し始めます。最後に左半身に麻痺がある方が診察に並んでいました。その方も診察で何を診てもらうとかそういうのではないんです。とにかく安心したい。その方の身体をきちんと診察し「大丈夫よ」と話しかけてからその方のいるスペースへ行ってみました。Th_img_0764 その方のために特別に福祉の方がベッドを避難所に設置していました。「このベッドがあれば安心だよね、良かったよね」と話すと保健師さんも「本当に良かったです。特例ですがこの方には必要な事なので」避難所の布団は敷きっぱなし。どこも衛生的ではありません。それでもベッドを持ちこむことは特別とここでも避難所生活のつらさを思います。その方と笑顔で写真を撮ってまだ色んな人と話したいと思いながらも次の避難所へと向かいました。僕の心の中では、心の閉じた方がいるのではなく、ただ自分が恐れていただけなんだと気がつきました。いつも職場で患者さんや家族に頼りにされる関係から、医師なのに「あの人一体何者?」と値踏みされるような視線を感じるのも初めての経験でした。前日に音楽の演奏をした事で覚えていて下さる方が多くてありがたく思いました。
「今日は演奏ないのよ、ごめんね」と言い残して。たった2日でも連日来る事で、現場の医療関係のスタッフも僕らに小さな信頼を向けてくれました。

●原町第二中学校

そして、原町第二中学校へ行き診察をはじめました。「心のケア」の専門家と某NPOの団体が診察室でミーティングをしているため、診察をする事ができませんでした。この避難所では各教室の扉が完全に閉まっているので自分たちの判断で部屋に入るのがためらわれる状況でした。Th_img_0767 それでも「あ、昨日の演奏よかったよ」と話しかけて下さる方もいてほっとしました。いずれにしろ用事もないようなのですぐに中学校を後にして残った時間を小学校で過ごそうと思っていたときでした。中学校にいる看護師さんから相談を受けました。ある男性の高血圧です。初めてこの避難所の教室に足を踏み入れました。他の避難所に比べてやや不衛生なのが気になりました。固い床の上に薄い敷き布団。どの避難所もそうですが、マクラがないため毛布をひもでくくりマクラの代用にしていました。
そこにその男性は一人下を向いて座っていました。話しかけても返事がとぼしく、誰が説得しても入浴しない、薬を飲む事も、診察を受ける事も断固拒否しているとのことでした。理性的に色んな事を拒否をしていると言うよりも、精神遅滞がある印象でした。母と兄と同居していてその二人とも別の場所にいるとのこと。一番信頼できる兄は仕事のため遠くに出稼ぎに行ってしまったと看護師さんからお聞きしました。兄は母とこの方を支えるために働き続けなければならないんです。この方にはずっとこの先、関われる現地の医療スタッフに任せなければ事態が進みません。弱い立場の方を支えるには言葉よりも継続した見守りです。僕にはこの方に魔法がかけられる力はないとすぐに悟りました。しばらく診療所で看護師さんと話しました。「粘り強くご家族と協力し合えば、入浴してくれるかも知れませんよ」「どうかよろしくお願いします」と役に立たない言葉しか置いていけませんでした。

すれ違った心のケアの専門家は専門用語でNPOの人たちに講義しています。僕はこういう外から来た人たちが本当に心のケアができるのかと内心疑っています。地元の人たちが心のケアを実践できるようにコーチするのが本来のやり方だと思います。多くの肩書きと業績を背負って、縁のない被災地に乗り込みまた短期間で帰って行く事僕には嫌悪感を覚えました。だから僕は自分の活動を「心のケア」とはとても言えません。皆さんの心を慰めるために演奏し、声をかけるのがせいぜいです。

揃いの蛍光色のジャンパーで所属が大きく書いてある医療者やボランティアにはどうしても嫌悪を覚えるのです。その土地の方々に染み込む心構えは別にあると思いました。

 

午後の巡回前に南相馬市の中心にある道の駅に行きました。そこは警察の方々の集合場所になっていて朝、夕は多くの特殊車両と防護服の方々であふれます。Th_cimg6866_2 警察の方に「暑いでしょ」と声をかけると「いえいえ」と返事。一般の立ち入りが禁止されている原発から10-20km圏内で遺体の捜索をしているのです。防護服には手書きマジックで名前が書かれていました。確かに誰か分からなくなるんです。Th_img_0769

●鹿島保健センター

午後は、一度南相馬市立総合病院に戻り副院長の及川先生と、原発事故による避難地域内にある小高病院の院長先生も一緒に、再び鹿島保健センターへ向かいました。及川先生は何度も何度も嬉しそうに僕らの活動に「いや、音楽はいいよね」「僕も聞きたいなあ」と応援してくれます。とても明るい雰囲気で避難している方の人数も少ないためまとまっている感じです。昨日一度ここには来ているので顔を知った方もいらっしゃいます。Th_cimg6867
皆さんテレビのあるリビングルームに集まり演奏を始めました。一緒に同行した看護師のボランティアの方々も一緒に加わって歌って下さいます。及川先生はビデオカメラを片手に一緒に歌って下さいました。最後にみんなと記念写真。Th_cimg6868

演奏を終えると小さな子供の姿を見かけました。選曲は年配の方向けなので、リクエストはありますかと声をかけると「アンパンマン」の歌のリクエストでした。この母子はとっても喜んで下さって、帰りも僕らの車に自転車に乗りながら手を振り続けてくれました。避難所では子供たちもできるだけ静かにしなければという暗黙のプレッシャーがあるようです。Th_img_0771

外でしばらく避難している方々とお話しをしました。「1日の時間が長すぎてどう過ごしていいのか分からない」と言った話しや、「いつになったら避難地域に帰れるのか」という落胆の声をよく聞きます。「早く仕事に戻りたい」「早く家に戻りたい」皆さんの思いです。原田さんはご自身の震災の経験から、
「家がなくなる事よりも、仕事がなくなる事の方がずっと大変」
と話していたのが印象的です。仕事を失うと社会を失います。人は生きて行くには他人と一緒に過ごす時間が必要なんですね。

●石神第一小学校

次に、石神第一小学校へ再び行きました。ここにも大きな画面の液晶テレビが置いてあり、その前で演奏を始めました。みなさん小声ですが一緒に歌ってくれます。洗濯に忙しい方々が行き交いながらの時間でした。
演奏を終え帰るろうと準備をしている間に、現地に勤務する看護師さんと話しをしました。小高病院の看護師が3交代で勤務していると、どの病院でもよくある勤務表とにらめっこしていました。ある看護師さんは、津波で家を流され、アパートを借りて通いで勤務していると聞きました。ご両親を津波で亡くされたとお聞きしつらい気持ちを話していらっしゃいました。それでも「仕事を続けるかどうか迷いながらも続けている」とお話しになり、それでもしばらくはこういう生活を続けますと話していらっしゃいました。
帰り際に昨日も人なつっこく僕らが昼食を食べているとお茶を入れて下さった方にまた出会いました。ずっともてなし続けてくれます。演奏が終わった事を話すと残念そうにして「いやー先生は沢田研二に似ているわ。オレもな大阪に行ったら先生らとまた食事するわ」と喜んで下さいます。Th_cimg6872 また昨日会った看護師さんも丁度勤務で避難所に来たところでした。「えー、残念。もう終わっちゃったの」と聞き、つい調子に乗りこのお二人のために一曲演奏しました。「情熱大陸」です。看護師さんは目に涙を浮かべて一緒に写真を撮ってくれました。
Th_cimg6871

こうして1日を終えてもう一度病院に戻りました。たった2日間行動を共にしただけでも、南相馬市立総合病院のスタッフの方々は明日の別れを名残惜しんでくれます。Th_img_0778 僕には不思議な気持ちが湧いてきました。本当に短い日数なのに、ここでお会いした方がと別れるのがつらくなってきました。自分がその時にその地に属しているという確かな手応えを久しぶりに思い出しました。以前は三重県の員弁という農村地区で医師をしていましたが、そこでは住所を見ただけでどんなところかわかり、あそこには誰がいるとか、看護師の誰の家に近い所とか思い浮かぶのです。神戸に来てからは全くそういうそういう土着の感覚をもてずにいました。自分がホスピスに働いているからなのか、神戸が都会なのか。
南相馬にわずかな時間しかいないのに、あの土地と土地の人たちに心をよせる何とも言えない感触が戻ってくるのはどうしてだろうと本当に不思議に思いました。今から思い出すと、人と人の心の距離なのかも知れません。

次の日は南相馬の最後の日です。あの及川先生がまた声をかけて下さり、出発の前は病院の待合ホールで演奏して欲しいとお願いされ喜んでお引き受けしました。

夜はボランティアで瓦礫と格闘していた井上さんと再び合流して、原町の村さ来へ。Th_img_0780 大勢のお客さんでにぎわっていました。まだ商店街の1/3程度のお店しか営業していませんでしたが、個人の商店には新鮮な野菜が並んでいました。Th_img_0781

この週から郵便が、そしてクロネコヤマトの車も南相馬市を走るようになっていました。きっと5月に入れば物流も整うんだろうと思います。良かったですね。

 

その4につづく

|

« 南相馬便り (詳細) その2 | トップページ | 南相馬便り (詳細) その4 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。