« 「全部つながっているのよ」 | トップページ | 医師は聴診器で何を聞いているのか。 »

2011年5月18日 (水)

「話せばわかる」と「話してもわからない」。心のケアの構えとは。

ある日緩和ケアの診察室に、がんの男性がいらっしゃいました。その方もご家族も顔が硬くこわばっています。緩和ケアの外来に、にこにこしながらいらっしゃる方はほとんどおらず、(ここはどういうところだろう)(どんな怖いことを言われるんだろう)と、とても緊張して身構えていらっしゃる方ばかりです。この方もそうでした。その表情から、まず今まで体験したことを最初に聞いた方がいいと、心に浮かびました。こういう風に思いつくのは、経験なのか勘なのか自分にも分からないのですが、心のどこかから(まず最初に今までの体験を聞け!)と何かが命じます。また心に言葉が浮かぶまでは、その方の話を聞きながら待つことにしました。

そして、聞いてみました。今までのことを。すると、その顔は徐々に怒りに包まれていきました。「A病院の医者は、ある日オレと家族を集めて、目も合わさずに『がんです。もう治療の方法はないです。余命は3ヶ月ぐらいだと思います』と急に言いやがった。病気になったのは仕方ないよ。でもその言い方と態度に腹が立って悔しくて悔しくて、どんなことがあっても3ヶ月以上生きてやろうと思ったんだ」と怒りに満ちた言葉が続きます。「それでな、家族が探してくれた別の病院の医者にも診てもらったんだ。その医者は手術がうまいと評判でな。その医者によるともう少し早く来てくれれば、15%の確率で手術できたっていうんだ。それならどうして、そのA病院の医者はオレを手術ができる病院に紹介してくれないんだ。それがまた悔しくてな」次々と味わった悔しい思いを話し続けます。ご家族にも、これは本当の話ですかと聞いてみると「はい、そうです」と立ち会った家族も確かに同じ体験をしていました。

最初に病気を診断した医者はやはり大変です。正しく病気の正体を把握しなくてはならないプレッシャーと、相手にどう話すかを思案しなくてはなりません。相手にとっては悪い話をするのですから、どれだけ正しい振る舞いをしても患者さんには多かれ少なかれ悪い印象として記憶されます。僕のように患者さんにとって2番目、3番目の医者はやはり得をします。なぜなら、患者さんにとって一番つらい思いをしてきた時期を過ぎて、少し冷静さを取り戻した頃に出会うからです。ですからこのように怒りに満ちた話を聞いたときに、「それはひどい医者だ。そんな事はこの病院ではありません!」と簡単に答えてはなりません。また前の病院の医者を「それは人に悪い話しをするやり方をちゃんと訓練されていない無能な医者だ!」などと思ってもいけません。もっと謙虚に「前の病院でつらい目にあったからこそ、この病院では同じつらい目にあわさないようにするには何がつらいことだったのか、何がいやなことだったのかよく聞いておこう」と考える方が僕はよいと思っています。医者同士は悪口を言わないという紳士協定とは違います。患者さんの心理状態で医者の印象は変化する事を知っているからです。

そして、この方の怒りの体験をかれこれ1時間近く聞き、身体を診察し、「それはつらい思いをしましたね」と言葉をかけ、背中をさすり、ひとまずはまた来週会いましょうと話しました。「知恵を絞ってあなたにできることを考えます」と手を握りお別れしました。つらい思いをした方には、とにかく優しくしたいのです。
その日から1週間が経ちました。あの方がまた診察にいらっしゃいました。傍らにはご家族が付き添って。椅子に座ったこの方を見ると、ぎらぎらと目が異様な光を放っています。そして、その目とは対照的に家族の目は光を失っていました。こんな風に、患者さんと家族の目の輝きが違うときは、(家族は何か別のことを考えているよ、一度別に話をしたらどうか)と心のどこかから声が聞こえてきます。そして、「この1週間いかがでしたか」と話しかけると、「いや寝てばっかりいました。何もする気がないんや。A病院の医者がな、オレに会う度に『悪くなった、悪くなった』と言うんだ。だいたい、あの医者はな、最初に診察を受けたときに・・・」と同じ話しが始まりました。家族の顔をそっと見ると、少しうんざりしたような顔をしています。その時この家族にある空気の淀みのようなものに気がつきました。この方と家族に同じ空気が流れていないのです。また先週と同じように怒りにあふれた言葉が出てきて表情も一変していきます。診察が終わり帰り際にそっと奥さんに声をかけ別の場所で話しを聞いてみると、「家ではうとうと寝たり、起きてきたりとあまり活気のない毎日です。あんな話しを私たちにも毎日のようにするんです。話していることは確かに本当のことで、私たちもつらい思いをしたのですが、毎日聞かされているとこっちもイヤになってきて」

その患者さんには、入院しようと話しました。「一度とにかく身体をちゃんと診ていきたい。薬の調整もしたい」と話しかけました。でも内心は、(家族と一度離れないと、この患者さんも家族も深い底なしの沼、「鬱の沼」に完全に飲み込まれてしまう)と考えていました。
「なんでオレが入院せにゃならん。まだやらなあかんことが山ほどある!」とこの患者さんは最初は賛成してくれませんでした。何とかしなくてはと、背中をかがめてこの方の目をまっすぐに見ながら「お願いですから、一緒に過ごす時間を僕に下さい。こんな短い時間ではあなたの考えていること、あなたにできる事が分からないんです。お願いです、何とかしてあげたいんです!」こんな風に情を込めて説得しました。また1週間が過ぎてどうにか入院をしてくれることになりました。「入院の適応」とか「治療の目標」と病院の中ではよく言いますが、どこかしら空虚な言葉だといつも思います。仕方がないので書類には適当に言葉を並べますが、本当は(うまく説明できないけど入院した方がいい)とか(理路整然と話せないけど治療する方がいい)というしかない時も僕にはたくさんあります。理性的なやりとりをして患者と治療の契約する、医者と患者は対等、そういう考えではこの患者さんには相対することはできません。なぜならこの時点では「話せば分かる」方ではなく「話しても分からない」方だからです。僕の考えですが本当に鬱病を併発した患者さんは最早「話せば分かる」という人間関係の根本を一時的に放棄する必要があると思うんです。そして色々と試みて鬱病がある程度改善してからまた「話せば分かる」関係になればいいんです。

「話せば分かる」というのは、いわば無限の母性のケアです。他者の言葉全てを傾聴し、そしてその方の語りがその方自身を、自分の力で癒していくのを見守っていればよいのです。良い聞き手、見守り手になればよい。そんなときには短期間にも習得できる程度のカウンセリング技法や、誠意と慈愛に満ちた対話は大きな力を発揮するでしょう。しかし「話しても分からない」とき、自分の言葉が心を病んだ例えば鬱病や認知症である相手の心に届かないとき、どうしたらよいのでしょうか。この対応に関しての教育と訓練は明らかに不足していると思います。こんな時僕は父性を発揮し「とにかく一度病院に入院してくれ、話しはそれからだ」と相手の納得を得る以前に、まず状況を変えていく事も必要なのではないかと考えています。父性のケアは時に厳しい。それについてもう少し書きます。

この患者さんは入院しても、毎日のように同じ話しをくり返します。僕もこの患者さんの病室で毎日30-60分くらいの時間を費やしますが、ある日思いました。(このまま、毎日のように同じA病院の医者とのつらいできごとを聞き、怒りの言葉とオーラに包まれるのを『傾聴』していてはかえってよくない)そうです、怒りに包まれたとき一番人は力強く行動し、その言葉は時には歯切れ良く、頼もしさも感じるほどです。しかし怒りに包まれたまま生きていくと、まるで電池が切れるように気持ちのエネルギーがなくなっていきます。怒りが枯渇した時、人は鬱になるのではないでしょうか。毎日この患者さんの怒りに満ちた話しを聞き、少しずつ対応を変えていきました。話しをあえて遮ったり、話しをあえて他の話しに変えていったり。昔の話し、仕事の話し、家族の話し。テレビの話し、趣味の話し、最近植えたトマトとキュウリの話し。いろんな話をしました。怒りに満ちた話に集中し過ぎないよう、色んな感情がこの方の心に宿るよう考えました。

家族にはこの方との付き添い方を一緒に考えました。「同じ話しであったとしても、毎日ちゃんと話しを聞くのは大事な事だと思います。でもどこかで話しを別の方向にそらしていかないと怒り続けるのを手伝えば、かえってこの患者さんを消耗させてしまいます」「え、それならどうしたらよいんですか」「ちゃんと話しを聞きながらも返事を返さない。ある程度話しが終わったら、自分の用事に戻る。そして今しばらく入院して見守る」と色々な方法を話し合いました。患者さんの心の問題に対処する時には、家族と患者さんとの付き添い方を一緒に考えるのは大切なことだと思います。家族にもケアと治療が必要なのです。日常的にどうしたらよいのか、そして時には対話を中断することも大切なのです。しかし、重い病気を抱えて悩む大切な人を突き放してしまうと感じる家族だっているでしょう。その罪悪感をどう処理したらよいのかなどを一緒に考えていく必要があると思うんです。
「ガンバレって言うな」
「○○をするな」
「××を言うべからず」
こういう分かりやすい指導は、間違いではないのですが、往々にしてその本質を失いやすい。「使ってよい言葉」と「使ってはいけない言葉」を限定していくことで、家族と周囲の人たちの幼稚な言葉狩りにもなりやすい。家族は自分の会話にどんどん臆病になり結果として、家族から患者さんへの情の流れが止まります。わかりやすい指導は、なかなか役に立ちません。

ある日この方から僕は言われました。「先生は忙しそうで、入院したのに思ったより話してくれないな」「話していても、話をそらすから」それでもその言葉に言い返さず、「いやそれでも今日もまた来ますよ。明日もまた来ますよ」と笑顔で返します。この方が再び「話せば分かる」力を取り戻す日を信じて見守っているのです。自分の気の利いた一言でこの方の世界を明るく照らすことはできないと分かっているからです。この様にカウンセリングを行う十分に訓練された治療者は、時に患者さんから話をしても聞いてもらえないと言われますがそれには理由があるのです。

この方は、「自分が鬱である」とは全く考えていませんでした。「あの医者が悪い」と同じ所に留まり続けることでもう自分の
心の状態が分からなくなっています。多くの医療者やセラピストの前に現れる患者、クライアントのほとんどは「自分の心は病んでいる」と自覚しています。こういう方々とは「話せば分かる」かもしれません。でも本当は「話しても分からない」「自分たちの前には自分ではやってこない」方にどう手をさしのべ、どう対応するのか考える必要があると思うんです。

こんな訳で僕は「話しても分からない」方には、時に厳しい父性のケアでのぞむことが大切だと思うんです。そしていつか「話せば分かる」日が来るのを焦らず待つのです。なかなか患者さんに笑顔が戻らないとき、医療者やセラピストは、「こんなことしていて、自分は役に立っているんだろうか」などと考えがちです。しかし短期的な報酬を求めず、粘り強く待つことが能力が治療者には必要だと自分の過去をふり返り反省と共に痛感しています。

医療特に緩和ケアでは、何かと母性重視で優しさが強調されます。しかし、本当に心を病んだ方にのぞむとき、母性と父性をバランスよく身につけた、よく訓練された治療者、セラピストが対応しなければ、その方を癒(いや)やすどころか時には、卑(いや)しめてしまうかもしれません。

|

« 「全部つながっているのよ」 | トップページ | 医師は聴診器で何を聞いているのか。 »

コメント

はじめまして。私自身はがん患者ですが、私は日々、「話してもわからない」認知症の舅の介護をしております。本当に苦しく辛い思いを長く経験していますが、先生のブログを拝見して、介護をするにあたって初めて人様から力をいただき希望がかいま見える気がいたしました。先生のお言葉は、長年のご苦労とご努力があったうえでのことと存じます。本当に尊いお言葉と感じます。そして、一がん患者にとっても、そのようなお医者様がおられることを、とても心強くありがたく感じいたしました。これからも拝見させていただくのを楽しみにしております。

投稿: なおひ | 2011年5月22日 (日) 20時49分

この記事へのコメントは終了しました。

« 「全部つながっているのよ」 | トップページ | 医師は聴診器で何を聞いているのか。 »