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2011年5月20日 (金)

医師は聴診器で何を聞いているのか。

ネットでこういうものを見かけました。
「一人暮らしの祖母が、この半年風邪なのか咳がしょっちゅう。3ヵ所のお医者さんに行っても『うーん』って。最近のお医者さんは聴診器をあてないよね。それが先週聴診器を当てたら『あっ!喘息だ』って。『辛かったですね』と言われても…と。ことの真偽はわかりませんが祖母の生の声です」

これを読んでふと思いました。

最近身体診察をおろそかにする医師が増えていて、聴診器すら患者にあてない。だから、病気を見逃してしまう。身体診察の重要性をもう一度思い出せ!というのが、この方からの一番のメッセージだと感じました。医者は患者を前にしたとき、病気の診断を的確に実行する事を求められます。物事には必ず原因があって、その原因を探し出せば自ずと解決が達成される。原因を正確に導くには、客観的な検査の結果が不可欠。身体診察は、その中でも基本の方法であるにも関わらず、最近は軽視されるようになりました。なぜなら身体診察は、経験を必要とする診断技法だからです。聴診のような主観的な検査には、達人の技が必要なのです。若い医師には聞こえない何かが、長年の経験を積んだ医師には聞こえる。身体診察の診断技術には、自ずと医師の経験と技能が反映されてしまう。これでは、数少ない達人だけが病気を確かめる能力を身につけていることになってしまい、その能力は、あたかも秘伝の術のように世間からは隔絶されてしまいます。こういう医師の能力に依存する医療の格差がうまれることは患者にとっては不幸なことです。

この秘伝の術を乗り越えるために、人間は技術を高めてきました。心臓の音を、肺の音に耳を傾けるよりも、レントゲンや超音波検査で確かめた方がより詳細に臓器の状況が分かる。レントゲン写真やモニターに映ったものが何であるか読み取る能力を研鑽する方が医師はより早く診断能力を高めることができます。また機械は年々改良され、去年見えなかったものが、今年は見えるようになる。技術の進歩は人間の能力の進歩をはるかに上回ります。そして、何よりも人間という摩訶不思議な対象を、機械はある程度単純化してくれます。さらに、検査結果を読み取る能力の方が、身体診察の診断技術の高める能力よりも教育しやすい。こうして、医療の現場から身体診察は徐々にその活躍の場を失ってくるのです。
一方、患者も検査を求めます。忙しい時間を割いて、病院へ行き、長い時間待たされた後に、医師が聴診だけで「大丈夫です」と告げたとき、やはり「本当に大丈夫なのか?」とつい思ってしまうことはないでしょうか。夜中の救急に「転んで頭を打った。どうかなっていないかCTをして診てほしい」と診察以前に検査を求める方にお会いする事もたびたびです。患者の側も身体診察を軽視する傾向があるのです。神経の状態を診るために身体診察をして「あなたにはCTは必要ありません。大丈夫ですからお帰り下さい」とはなかなか言い出しにくくなりました。患者の安心と納得を短時間で得るには検査をした方が早いと、真夜中に疲れた頭では素直に従ってしまうのです。また身体診察を露骨に拒絶する若い患者さん(特に女性)も増えています。羞恥心からの拒絶というよりも、まるでセクシャルハラスメントでも受けるかのような反応です。

改めて、この年配の女性患者さんの「最近のお医者さんは聴診器をあてないよね」をふり返って考えてみると、最近の医師がちゃんと身体診察をしていないことよりも、医師の診察に対する姿勢に問題があるのではないか、と指摘しているように思います。この方は、「レントゲンやCT」を要求しているのではなく、「患者である私という人間をまず診なさい」と語っていると思うのです。それなら「全ての患者にはまず(面倒がらずに)身体診察をしましょう」といった礼儀、マナー、接遇の一環のように身体診察を捉えてしまいそうですが、ちょっと待って下さい。もう一つ、身体診察、さらには聴診器には別の意味があると思います。それは、聴診器には身体診察の道具としてだけではなく、医者のもつ呪術性の象徴として重要な役割がある、ということです。

かつて医学生の頃、実習中であった僕も加わった大学病院の一見意味のない大名行列、教授回診。僕の上司であった教授は、聴診器ではひょっとしたら何も聞いていないのかもしれませんが、いつも全ての患者に聴診器をあてていました。金色でぴかぴかの聴診器です。僕ら未熟な医学生同士で、「胸の音を聞いていない聴診に何の意味があるんだ。耳に聴診器が入っていないこともあったぞ」「あんな形だけのタテマエのような診察に何の意味があるんだ。時間の無駄だ。それに聴診をありがたがる患者は何か勘違いをしてるんじゃないか?」などと未熟な陰口を言っていたものです。
今ふり返ると、この行為にこそ、医師の呪術性に関する示唆があるのではないかと思うのです。

僕の考える呪術性とは、なにも怪しげな古代宗教でかがり火に向かっておかしな格好をして呪詛を唱えることや、神に生け贄を捧げることではありません。「あなたにも気がつかない身体の声をわたしは聞いているんですよ。とても小さな信号だけれどもわたしには分かるんです」と身体診察を通じて患者さんのなにかを探ろうとする“呪術”なのです。聴診器を通じて、患者の内臓から発生する音声信号を、医師が自分自身の鼓膜と脳で検知しようとするという努力だけではないのです。また検知しようとする誠実な姿勢を患者に示すことだけでもないのです。「ひょっとしたら、自分も今まで聞こえなかった、患者の身体の声が今日は聞こえるかもしれない。この方に私は注意深くあろう。そしてこの方の小さな信号を私は聞き届けたい」という診察に対する姿勢、 これこそが、医師の呪術性の正体だと僕は思うのです。医師は人間の五感を超えた「何か」に畏敬の念を示し、自分自身はその「何か」を現実の世界で執り扱う司祭のような役割を果たす必要があると考えています。「え?なに?オカルトの話し?勘弁してよ。医療は宗教とはちがうんだから。呪術性やめてよ。何かアヤシイよ」そういうあなた、もう少し話を聞いて下さい。

クリアカットな科学や、言語だけのコミュニケーションは、しばしば医師の呪術性を破壊します。人間は上意下達、脳が認識できる事以外には意味がないと思ってしまうのです。そしていつしか医師は身体の声に耳を傾けなってしまいました。「身体の声?声は耳という器官で聞くもので、声は口から発するものなのだ。身体には音声を発する機能は備わっていない」そして、数字が並ぶ検査データや、画像のようにピクセルに置換されたテクノロジーを通じて翻訳された身体を認識しようとします。こうして、医師は脳が最も認識しやすい形に翻訳された虚像を身体だと思い込むようになってきました。

それなら、医療が扱うもう一つの柱、精神や心の問題はどうか。実際の精神や心を診る方法は、診断的なルールブックに則って細分化されています。特徴A、特徴B、特徴Cが備わっていて、特徴Dがないこと、これに対して、精神科的な診断を下そう。時には研究として、何十問もあるようなアンケートで人間を測定しその結果からどういう精神やこころの状態にあるか把握しようとします。精神や心と言った目に見えないものを、診断基準や質問紙(アンケート)というものさしで測り翻訳された虚像をまた精神と思い込むようになっています。このような、身体や精神を別の何かに翻訳し認識することは、技術を身につける途上にある医師にはとても有用な方法です。「感じたままに診断せよ」では、もはや医療ではなく占い、おまじないになってしまいます。しかし、「医学という学問は本当は見えないもの、本当は感じるしかないほど小さな信号を分かりやすく数値化して表現しているだけなんだ。医療を世界中に広めるにはこうするしか仕方がないんだ。再現性こそが科学の根底なんだ」とどこかで思っていないと、あまりにも一人一人が異なる人間を診ることはできません。

さて、取り残されその価値をおとしめられた呪術性はどういう災いを現代の医療に及ぼすのでしょうか。まず、からだの声を聞くという大切な呪術性を忘れた医師は、病気の修理職人として生きるほかありません。医師の関心は、病気の正体を正確につかみ、元の状態に戻るかどうかが最大の関心事になります。いわば身体が「直る」かどうかを判断する能力が診断能力だと思い込みます。こうして医師が自身の呪術性を放棄した結果、修理職人となり病気を「治す」が「直す」になったということは、身体を「修理する」観点からは「直す」か「直らない」、元に戻るかダメになるかの2つに1つになります。そして、当然「直らない」患者と向き合う方法が分からなくなるのです。例えば、手持ちの電気機器が壊れたとしましょう。修理を依頼した電気屋に「いやー、これはもう直らないですよ、これは直すよりも新しく買った方が安い。」こんな風に言われた経験は誰もがあると思います。「直るか直らないか」「高いか安いか」が判断の基準になります。「直らない」なら修理を始めない。でも人間の身体はそんな風に買い換えることはできない。だから「直らない」のに診察をくり返す方法が見つからない医師が増えるのは想像に難くない。当然「直らない」から他の病院へ、「直らない」のであきらめて欲しいと説明する他なくなります。自分から遠ざける以外方法が見つからない。「最近の医師は話を聞かない。医師と患者のコミュニケーションが不調だ」とあちこちで聞きますが、医師は「直らない」患者との語らいがわからないんだと思います。

医師の人間性を回復させ、医師の言動をその地位にふさわしい品格に回帰させることで、患者本位の医療になるよう改善していく。これには僕も賛成です。しかし、患者と医師が一緒に剥ぎ取ってきたこの呪術性を回復させない限り、医療は本質的には回復しないと僕は確信しています。医師が患者に聴診器をあて、「あなたの身体からの小さな信号を私は聞き届けたい。あなたが気がついていないあなたの問題、あなたが誰にも話せないあなたの苦しみ、あなたがまだ知らないあなたの未来、私はこの聴診器から聞き届けたい」と、心の中で静かに呪文を唱えながら、患者を診察したとき。儀式的な呪術を施された患者にはきっと新しい心の変化が生まれると僕は確信しているのです。その時はじめて「先生に会えるだけで、元気が出ます」という患者からの最高の賛美が聞こえてくるはずです。この賛美は、賢く知識と技術を身につけた病気の修理職人が、本当の医師になる瞬間だと僕は信じているのです。

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コメント

最後まで読んでよかったです。
コミュニケーションスキルについてどのようにトレーニングすべきかいわゆる教科書を読んでもわからなかったことが少しわかった気がしました。

投稿: ogata | 2011年5月21日 (土) 10時58分

初めまして。
私は逆流性食道炎持ちなのですが、かかりつけの内科医が私にとって、理想的でとても助かっています。
ほとんどの診察のたびに腹部の聴診、触診をしてくれアドバイスをしてくれます。
また、昨年、甲状腺がんのオペも受けました。入院の前には腹部、胸部を聴診打診をして、簡単な全身状態のチェックもしてくれました。
退院直後には、食道炎が入院のストレスでかなり悪化し胸痛がひどかったのですが、「食道炎の悪化と思って合併症があるといけないから」と、胸部の聴診をしっかり診て下さいました。
検査も大切ですが、機械にたよらずにできる、視診、聴診、触診は、基本中の基本なのだな、と感じ、とても安心することができる診察をいつもうけられて、良い医師に出会えたと思っています。
長文、失礼しました。またおじゃまします。

投稿: sotto voce | 2011年5月23日 (月) 00時31分

最近、自分以外に打診を行っている医師に出会ったことがありません。基本的な診察行為を放棄したのは医師だと思います。打聴診の所見を患者さんと共有することで、それが診断に大きな役割を持つことを共有することを繰返すと、患者さん側に何が大事かを理解してもらえると思います。理学的所見をキチンととることは将に基本なのです。打腱器も大事です。医師が一番大事なものを放棄して信頼を得ることは不可能ではないでしょうか。

投稿: 原朋邦 | 2011年5月23日 (月) 00時41分

病院で、働いています。本当に、検査だけで、判断して、きちんと胸を聴診したのかと思います。ただ、先生が書いてあるとおり患者さんにも問題があると感じています。

投稿: itie0224atsuko | 2011年5月24日 (火) 08時49分

「直らない」のに診察をくり返す方法がみつからない医師、という言葉が輝いてみえました。明日からしばらく毎日、聴診器をポケットに入れて、身体診察をしながら回診してみようと思います。(外来では時間的に無理な気もしますが…)

投稿: GYNE | 2011年5月26日 (木) 00時05分

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