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2011年5月 1日 (日)

南相馬市便り

4月24日から4日間、震災、津波そして原発に揺れる南相馬市へ行ってきました。毎日診察と、そしてギターが弾ける看護師さんと一緒に演奏活動をしていました。葉加瀬太郎の曲、松田聖子の赤いスイートピー、千昌夫の北国の春、春の小川、ふるさと、上を向いて歩こう、見上げてごらん空の星をなどです。一緒に歌える曲もたくさん用意しました。

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津波で何もかも流された所と、残ったところくっきり分かれます。南相馬市は市の中枢は全く津波の影響がないため、町の様子を見ていてもなかなか震災の影響を探すことは難しいです。それ程までに津波の影響は大きいのです。くっきりしたコントラストに驚きました。町中が津波で壊滅した宮城、岩手とは全くちがう町の様子です。
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原発のため多くの人たち、特に子供を抱える家族は県外に避難しています。「子供のためには疎開がよい」って皆頭では分かっているんです。でも「家がないよりも仕事がない方がずっと大変」「家族がこの不安定な時期に離ればなれになること」が簡単に割り切れる問題とは言えません。

また恐らく風向きの影響でしょう、放射線の線量は、この福島第一原発から真北に20-30kmの南相馬市原町は、ずっと離れた福島市、郡山市よりもずっと線量が低いという状況です。県が連日発表する線量を見て続々と住民の方々が帰ってきていました。

町の居酒屋はぽつぽつ開き、ホテルもがらがらですが営業しています。地元のお店を潤す。これも支援と軟弱な自分をとがめながらも、宿を取り、風呂に入り、地元のお酒を飲んでいました。また市内に4カ所ある避難所を全て毎日回ることができました。すでに震災から1ヶ月半、3月の見通しの暗い時期と異なり、物資はそろってきましたが、人々は避難所での生活に疲れてきています。またボランティアも行政が管理し、「心のケア」を称する怪しい団体も出入りするようになり勝手なボランティア活動は毛嫌いされます。
僕は全くコネクションのない地域でしたが勝手に予め南相馬市立総合病院の院長先生と電話でお話しし、着くなり病院へ向かうと、副院長の先生も暖かく迎えて下さいました。おかげであちこちの避難所に事前に連絡して下さりとても円滑に活動をさせて頂きました。

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ボランティア、支援と言うよりも、「どうか南相馬の現実を見て勉強して下さい」という地元の方々の温かい心に自分が育てられたような気持ちになりました。そう心を慰められたのはもしかしたら僕らなのかもしれないと避難所に行くたびに感じました。

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連日のように放映されるこの南相馬市を含めた、原発から20-30kmの大変な方々。組織的な支援を受けにくく、また多くの人たちから放射線の影響を必要以上に恐れる余りこの町の皆さんはとても心が傷ついています。心のケアとは言っても医療職の専門的な知識でもどうしたらよいのかと悩むことも多々ありました。

震災と津波で家族を亡くした悲しみ。
家と仕事を津波に奪われた悲しみ。
そして、原発で家を追われ、日本で最も危険な町として記憶され棄民された怒り。

音楽の力はわずかです。でも「ああ、あの人昨日も来てくれた人だ」という安心感が避難所の人たちの心をほんの少しだけ開くことができます。色んな事を教えてもらいました。どの避難所でもさあ、話しましょうでは全く話しは始まらない。さりげないいつもの診察の対話からぽつりぽつりと語りが始まる。自分が体験した事を本当に聞いて欲しいと思っている方も多かった。そしてどなたも「まあ、神戸。えらい遠くからありがとうございます」「いつの日にか今度は神戸で何かあれば私らが行きます」とおっしゃる方が多く、「じゃあ、いつの日にかお願いします」と返事して来ました。

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なぜ自分が家族の反対を振り切ってまで、南相馬市へ行こうとしたのか今でもまだわかりません。一緒に行ってくれた看護師の原田さんと、作業療法士の吉田さんがいなければきっとできない旅でした。感謝しています。(ちなみに原田さんと吉田さんは僕とはちがう職場です) 旅を振り返って今考えています。あの地での人々の震災の不条理な悲しみは未だ癒える事なくさらに原発への怒りが加わる。そして見捨てられたと無視される怒りが加わる。南相馬で感じた人々の感情はこれらが足し算されたものではなく、怒りが主となった感情でした。「原発は人災」「原発さえなければもう町は復興できる」と口々に話していらっしゃいました。 大変な状況である事は百も承知です。怒りが人を支配する時、人はどう生きるのだろう。臨床の経験からも「あの医者にこう言われた」「あの病院からこんな仕打ちを受けた」と怒りを話す方は、うつにはなりにくい。怒る力が疲労で枯渇するこれからが、南相馬の方々の心に大変な問題を引き起こすと直感しました。悲しみをケアするより、怒りをケアするのは難しい。震災と津波で受けた心の悲しみを、原発への怒りが覆い隠してしまいそれが今を生きる力になるとはとてもつらい現実。悲しんでいる人はエネルギーが枯渇し、怒っている人はエネルギーがなくなるまで放出し続ける。きっとそれをケアできるのは仕事の回復だと思いました。生産的な活動を始める事。短い期間だけ南相馬の人達にかけられた言葉は、名刺をお渡しして「あなたの事忘れません。この生活もいつか終わるはずです。その時までどうかお元気で」でした。皆さんを手を差し出すと必ず握り返してくれました。最早物資、音楽や降圧剤は気持ちを交わすための触媒に過ぎませんでした。 町中の建物は壊れた箇所も少ないのですが、そこに住む人々の心の傷は見えないけどまだまだ傷だらけです。そしてその傷は原発のため深くなっていました。 ほんのわずかな時間のほんのわずかな活動でしたが、神戸に帰ってきてからもお会いした方々の顔が毎日思い浮かびます。僕の心の中では時間が止まったかのように震災以降固まっていたところが、結局は実際に被災された方がとお会いし、対話することで再び時間が流れ出しました。またいつの日にか伺いたいと思います。

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