« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

2011年5月30日 (月)

「毎日の色を守ること」子供がパニック障害、ひきこもり、登校拒否になったとき、親はどうしたらよいのか。

最近、ある方から「思春期の子供がパニック障害でなかなか学校へ行けない。家族はどういう風に接したらよいのだろうか」という相談を受けました。この親御さんはお子さんが学校へ通えないことで本当に心を痛める毎日を送っておられることでしょう。相談は続きます。「子供は毎日、『退屈だ』『しんどい』と話します。親としてどう子供に接したらよいのでしょう」

僕は内科、緩和ケアの仕事を毎日しています。日常の診療はがんの患者さんがほとんどです。がんの患者さんも精神的な問題を抱えることはとても多く、同僚の精神科医から毎日色々と教わっています。しかし、精神科のトレーニングをうけておらず、また思春期精神障害については一般的な知識しかありません。「僕は専門ではないので・・・ちょっと・・・」と答えるのは簡単ですが、少なくとも、この親御さんにとっては相談相手は僕以外ないのですから、相談されたからには、普段の診療活動を応用して考えてみようと思いました。専門ではない自分があれこれと思いつきで指南するとことで、かえって状況が悪くなるかもしれないとも思いましたが「そうですねえ、」と話し始めました。話しているうちに、心のどこかで『あれ?こんな風に話したことが以前にもあった』と昔のことを思い出しました。

その時のできごととはこんなことです。僕が以前、郡部の病院で働いていた頃は、自分の専門分野だけ診療していればよいという状況ではなく、内科医としてあらゆる患者さんに対応する必要がありました。内科の一般的な患者さんを診療していると、精神的なことが原因で身体の調子を悪くする方にもたびたび出会いました。この病院では、「自分は専門外なので」と診療の前に患者さんをお断りする余裕はありません。まずは診療してみて、それから考えるというのが普通の対応でした。この町には主要な国道から少し離れた場所に精神科の病院がありましたが、ひっそりとしたこの精神科の病院に行くことは、この町の人たちにとっては少し抵抗を感じることだったのでしょう。ということで、患者さんは何かしら身体や心に変調があれば、まずは内科を受診するのが普通でした。そんな中には、若くして精神に変調を来している方も少なからずいらっしゃいました。また夜になるとパニック障害で過換気になり自分で収めることができず救急外来に来る方患者さんも時々診察しました。
僕はこういう現場での必要に迫られる形で本を読み、精神科の疾患についてできる範囲で独学を始めました。こういった精神的な変調を来していて、毎日の日常生活を生きづらく過ごす人たちにどういう接し方をしたらよいのか、本を読みながら見よう見まねで学んでいきました。時間はかかりますが、試行錯誤しながら患者さんと一緒に考える姿勢で診療をしていました。「私が何とかします!」とは患者さんに言うことはできず、「私でできることはやってみましょう」と前置きしていました。

パニック障害の主婦、軽症のうつ病の営業マン、アルコール依存症の作業員、ダウン症の子供を持つ母親、それぞれの方々は、症状は軽くても生きづらく、それでも懸命に毎日を暮らしていました。みなさん「なぜ自分がこういう状況になったのか」という問いを繰り返していました。
こういう患者さんが何かがきっかけとなって数日間だけ入院するときには、普段の外来診療とちがい、患者さんだけではなく、ご家族ともお会いすることができます。家族もまた患者さんとどう接してよいのか悩んでいました。そして「なぜ自分の家族(患者さん)がこういう状況になったのか」と家族もまた同じ問いをくり返していました。こうして知り合ったご家族の事情を聞いていると、当然個別の面談が必要となることもあり、患者さんとは別の時間に外来に来られることもありました。そんな時には僕はいつも、「なぜこういう状況になったのか」をひもとくことは一切せず、ご家族と一緒に「問題を抱える家族(患者さん)とどう接したらよいのか」を考え続けました。なかなか名案は思い浮かばないのですが、ご家族との対話を通じて色んなことに気がつきました。家族は、患者さんを思う気持ちを強く持っていると同時に、患者さんの以前の元気で輝いていた時を記憶しています。どうにか自分の家族(患者さん)が今の苦しみから抜け出してほしい、あの時のあなたに戻ってほしいという思いが大きく膨らむ。今の状況を受け入れてありのままの自分の家族(患者さん)を見つめることができず、つい成果を求めて「ああしてみたら、こうしてみたら」と声をかけてしまう。でも患者さんの手を引っ張っても、患者さんは立ち上がらず、事態は動かずかえって悪化する。つまり「焦って、見張る」構えにどうしても陥ってしまうのです。そうではなくやはり「信じて、見守る」ことが一番よいだろうとは誰もが考えているのですが、それはなかなかできないことのようでした。

「焦って、見張る」ではなく、「信じて、見守る」の構えになるにはどうしたらよいのでしょうか。「信じて、見守る」生活というのはどうしたら作れるのでしょうか。

少し関係のない話をします。僕の息子たちは小学生です。彼らには、たとえば「待ち合わせしたらその場所から動くな。親が探すから」と常々話しています。迷子になった子供は親を探して動き回ります。でも小さい子供は経験が少ないので、勘が働きません、きっとママならこうするかなとか人の考えることを想像して行動するということはできないのです。ですから、いつも「動くな」と約束します。それでも息子たちは動いてしまうので、事態は悪い方向へ向かいます。どこを探しても息子たちは見つからず、気がついたら一人で家に帰ってしまうこともありました。「動かず信じて待つ」ことがどれだけ気持ちが焦ることか、息子たちをみているとよくわかります。
パニック障害やうつ、引きこもり、登校拒否といった子供たちをもつ親は、反対に今度は自分が「動かず信じて待つ」番なのです。こういう子供たちは、僕の経験から感じることは、普通の人以上に周りから刺激を受けてしまい、色んなことがうまくいかなくなるのではないかと考えています。「え、どうしてこんなことで」と周りの人が考えるようなことでも、その子供たちにはいろんな事情で刺激を受けすぎてしまうのです。小さな刺激でも大きく感受してしまう。アンテナの感度が鋭い。時には妄想ではないかと周りの人が思うほどです。でもどれだけ考えても感度が鋭くなることに理屈は見つかりません。どうしたら刺激を減らせるか、どうしたら受けた刺激のショックを自分で軽減できるか。色んな作戦を考えるのですがなかなかうまくいきません。うまくいくことはあっても、三歩進んで二歩下がる少しずつの前進です。

「親が一緒なら外出できるかも」
「教室じゃなくて運動場の体育なら授業が受けられるかも」
「2駅向こうまでなら電車に乗れるかも」
「いじめがなくなれば大丈夫かも」
その子の周りの何かが変われば、その子自身の問題も解決するのではないか?
周りの状況だけが原因であることはなく、やはりその子自身の刺激の受け止め方や、周りの人達との付き合い方が変わらない限りは、なかなかつらい状況から抜けられない。まるで、天動説(=周りが変わった)、地動説(=自分の心が変わった)のような関係です。ですからどれだけ天の動きを変えようと試みてもやはりうまくいかず、三歩進んで二歩下がるのです。

その子供自身の心(=地)が変わる以上、その子供の心(=地)が自分自身で変わっていくことを信じて、周りの人達つまり家族(=天)が変わらないようにすれば「信じて、見守る」ことができるのではないか。「動かず信じて待つ」暮らしを続けることで、その子供によい影響があるのではないか、自分の普段の臨床経験と、生活の実体験からそんな風に考察してみました。

そんな暮らしとは、毎日の色が変わらない暮らしではないでしょうか。つまり、毎日の朝ご飯の時間、寝る時間が変わらない、月曜日の午前は仕事に行く、木曜日の午後は趣味でテニスに行く、金曜日の夕方は買い物して帰るとだいたい午後6時前に家に着く。毎日退屈に同じ一日を過ごす必要はないのです。月曜日はこういう風、火曜日はこんな風・・・と毎日の色ができるような暮らしを送る。皆さんもきっと知らず知らずのうちに曜日によって心の中で流れる時間に色があるのではないでしょうか。生活と共に移り変わる色が。その色を心のどこかでいつも感じているからこそ、時計がなくともだいたい何時ぐらいか分かる。この一見退屈な暮らしが、刺激を必要以上に受けてしまう問題を抱えた子供たちを見守るには大事なものなのではないでしょうか。きっとこの子たちも「退屈だ」「しんどい」と言いながらも、毎日の時間の流れ、毎日の色にさらされることによって、心が落ち着き、自分を取り戻す過程になるのではないか。こういう生活、ルーチンな生活を家族がおくることが「信じて、見守る」ことなのではないでしょうか。いつの日にか子供から「今日は水曜日なのに早く帰ったね」と声がかかれば、その子供の心にはすでに毎日の色が映っています。子供の周りが毎日の色を守り続けていれば、子供には帰る場所ができるのではないでしょうか。すぐには帰ってこれなくてもいずれ帰ってくるそんな気がするのです。思春期の子供は身体も精神も急速に成長します。その成長に戸惑っているのはまず自分自身でしょう。自分が変わっていくことは喜びよりも恐怖です。「ああ、自分も大きくなったなあ、成長したなあ」などと、親のように感慨深く自分を見つめている暇はないのです。濁流の様に流れる時間と、変化する自分に戸惑い、フリーズしてしまう。その変化に順応するまで、周りの景色、つまり親も含めた家族の毎日の色が変わらないことは、変化に恐怖を感じている子供にはいつの日にか安心を与えるのではないでしょうか。

問題を抱えた子供を持つ親にとって大事なことは、子供の退屈をまぎらわすために、気分転換と称して映画に連れ出すことでも、子供の勇気に力を加えるために、訓練と称して苦手な事に向き合わせることでもないと思います。子供の抱える問題を詳細に分析し、ストレスの原因を突き止めることでもありません。ましてや、親として自分自身の生き方や育て方に原因をみつけて、必要以上に苦しむことでもありません。ただ、毎日の色を固守して、平凡で退屈な暮らしを努力して送ることが、僕には大切なことだと思えるのです。

そして、一つ注意として覚えておいてほしいことがあります。それは、親と家族が作り出す毎日の規則正しい色にその子供を巻き込まないことです。
「私は毎朝6時半に起きることに決めた。あなたもそうしなさいよ」
「お風呂は9時半までと決めたんだから、あなたも守ってね」
「夜は、12時までに寝ること、いいわね。私もそうするから」
親の努力に余裕のない子供を巻き込んではいけません。親は自分の努力を子供に認めてもらおうと、「私だってがんばっているだから(あなたもがんばりなさい)」と決して言ってはなりません。子供が自然に家族の作り出す毎日の色に溶け込むまでは、無理に規則正しさを強いれば、かえって状況は悪化するでしょう。

僕の話は、実際にパニック障害になった子供を抱えて、今まさに困っている人達にとっては呑気に聞こえるかもしれません。そんなやり方で今の問題が解決するわけがない、と深い悩みを持つ方々には無神経にも聞こえるかもしれません。それでも僕は自分自身の臨床経験から、この「信じて、見守る」生活への構えが子供の心をいつの日か鎮めることができるのではと信じているのです。

| | コメント (0)

2011年5月20日 (金)

医師は聴診器で何を聞いているのか。

ネットでこういうものを見かけました。
「一人暮らしの祖母が、この半年風邪なのか咳がしょっちゅう。3ヵ所のお医者さんに行っても『うーん』って。最近のお医者さんは聴診器をあてないよね。それが先週聴診器を当てたら『あっ!喘息だ』って。『辛かったですね』と言われても…と。ことの真偽はわかりませんが祖母の生の声です」

これを読んでふと思いました。

最近身体診察をおろそかにする医師が増えていて、聴診器すら患者にあてない。だから、病気を見逃してしまう。身体診察の重要性をもう一度思い出せ!というのが、この方からの一番のメッセージだと感じました。医者は患者を前にしたとき、病気の診断を的確に実行する事を求められます。物事には必ず原因があって、その原因を探し出せば自ずと解決が達成される。原因を正確に導くには、客観的な検査の結果が不可欠。身体診察は、その中でも基本の方法であるにも関わらず、最近は軽視されるようになりました。なぜなら身体診察は、経験を必要とする診断技法だからです。聴診のような主観的な検査には、達人の技が必要なのです。若い医師には聞こえない何かが、長年の経験を積んだ医師には聞こえる。身体診察の診断技術には、自ずと医師の経験と技能が反映されてしまう。これでは、数少ない達人だけが病気を確かめる能力を身につけていることになってしまい、その能力は、あたかも秘伝の術のように世間からは隔絶されてしまいます。こういう医師の能力に依存する医療の格差がうまれることは患者にとっては不幸なことです。

この秘伝の術を乗り越えるために、人間は技術を高めてきました。心臓の音を、肺の音に耳を傾けるよりも、レントゲンや超音波検査で確かめた方がより詳細に臓器の状況が分かる。レントゲン写真やモニターに映ったものが何であるか読み取る能力を研鑽する方が医師はより早く診断能力を高めることができます。また機械は年々改良され、去年見えなかったものが、今年は見えるようになる。技術の進歩は人間の能力の進歩をはるかに上回ります。そして、何よりも人間という摩訶不思議な対象を、機械はある程度単純化してくれます。さらに、検査結果を読み取る能力の方が、身体診察の診断技術の高める能力よりも教育しやすい。こうして、医療の現場から身体診察は徐々にその活躍の場を失ってくるのです。
一方、患者も検査を求めます。忙しい時間を割いて、病院へ行き、長い時間待たされた後に、医師が聴診だけで「大丈夫です」と告げたとき、やはり「本当に大丈夫なのか?」とつい思ってしまうことはないでしょうか。夜中の救急に「転んで頭を打った。どうかなっていないかCTをして診てほしい」と診察以前に検査を求める方にお会いする事もたびたびです。患者の側も身体診察を軽視する傾向があるのです。神経の状態を診るために身体診察をして「あなたにはCTは必要ありません。大丈夫ですからお帰り下さい」とはなかなか言い出しにくくなりました。患者の安心と納得を短時間で得るには検査をした方が早いと、真夜中に疲れた頭では素直に従ってしまうのです。また身体診察を露骨に拒絶する若い患者さん(特に女性)も増えています。羞恥心からの拒絶というよりも、まるでセクシャルハラスメントでも受けるかのような反応です。

改めて、この年配の女性患者さんの「最近のお医者さんは聴診器をあてないよね」をふり返って考えてみると、最近の医師がちゃんと身体診察をしていないことよりも、医師の診察に対する姿勢に問題があるのではないか、と指摘しているように思います。この方は、「レントゲンやCT」を要求しているのではなく、「患者である私という人間をまず診なさい」と語っていると思うのです。それなら「全ての患者にはまず(面倒がらずに)身体診察をしましょう」といった礼儀、マナー、接遇の一環のように身体診察を捉えてしまいそうですが、ちょっと待って下さい。もう一つ、身体診察、さらには聴診器には別の意味があると思います。それは、聴診器には身体診察の道具としてだけではなく、医者のもつ呪術性の象徴として重要な役割がある、ということです。

かつて医学生の頃、実習中であった僕も加わった大学病院の一見意味のない大名行列、教授回診。僕の上司であった教授は、聴診器ではひょっとしたら何も聞いていないのかもしれませんが、いつも全ての患者に聴診器をあてていました。金色でぴかぴかの聴診器です。僕ら未熟な医学生同士で、「胸の音を聞いていない聴診に何の意味があるんだ。耳に聴診器が入っていないこともあったぞ」「あんな形だけのタテマエのような診察に何の意味があるんだ。時間の無駄だ。それに聴診をありがたがる患者は何か勘違いをしてるんじゃないか?」などと未熟な陰口を言っていたものです。
今ふり返ると、この行為にこそ、医師の呪術性に関する示唆があるのではないかと思うのです。

僕の考える呪術性とは、なにも怪しげな古代宗教でかがり火に向かっておかしな格好をして呪詛を唱えることや、神に生け贄を捧げることではありません。「あなたにも気がつかない身体の声をわたしは聞いているんですよ。とても小さな信号だけれどもわたしには分かるんです」と身体診察を通じて患者さんのなにかを探ろうとする“呪術”なのです。聴診器を通じて、患者の内臓から発生する音声信号を、医師が自分自身の鼓膜と脳で検知しようとするという努力だけではないのです。また検知しようとする誠実な姿勢を患者に示すことだけでもないのです。「ひょっとしたら、自分も今まで聞こえなかった、患者の身体の声が今日は聞こえるかもしれない。この方に私は注意深くあろう。そしてこの方の小さな信号を私は聞き届けたい」という診察に対する姿勢、 これこそが、医師の呪術性の正体だと僕は思うのです。医師は人間の五感を超えた「何か」に畏敬の念を示し、自分自身はその「何か」を現実の世界で執り扱う司祭のような役割を果たす必要があると考えています。「え?なに?オカルトの話し?勘弁してよ。医療は宗教とはちがうんだから。呪術性やめてよ。何かアヤシイよ」そういうあなた、もう少し話を聞いて下さい。

クリアカットな科学や、言語だけのコミュニケーションは、しばしば医師の呪術性を破壊します。人間は上意下達、脳が認識できる事以外には意味がないと思ってしまうのです。そしていつしか医師は身体の声に耳を傾けなってしまいました。「身体の声?声は耳という器官で聞くもので、声は口から発するものなのだ。身体には音声を発する機能は備わっていない」そして、数字が並ぶ検査データや、画像のようにピクセルに置換されたテクノロジーを通じて翻訳された身体を認識しようとします。こうして、医師は脳が最も認識しやすい形に翻訳された虚像を身体だと思い込むようになってきました。

それなら、医療が扱うもう一つの柱、精神や心の問題はどうか。実際の精神や心を診る方法は、診断的なルールブックに則って細分化されています。特徴A、特徴B、特徴Cが備わっていて、特徴Dがないこと、これに対して、精神科的な診断を下そう。時には研究として、何十問もあるようなアンケートで人間を測定しその結果からどういう精神やこころの状態にあるか把握しようとします。精神や心と言った目に見えないものを、診断基準や質問紙(アンケート)というものさしで測り翻訳された虚像をまた精神と思い込むようになっています。このような、身体や精神を別の何かに翻訳し認識することは、技術を身につける途上にある医師にはとても有用な方法です。「感じたままに診断せよ」では、もはや医療ではなく占い、おまじないになってしまいます。しかし、「医学という学問は本当は見えないもの、本当は感じるしかないほど小さな信号を分かりやすく数値化して表現しているだけなんだ。医療を世界中に広めるにはこうするしか仕方がないんだ。再現性こそが科学の根底なんだ」とどこかで思っていないと、あまりにも一人一人が異なる人間を診ることはできません。

さて、取り残されその価値をおとしめられた呪術性はどういう災いを現代の医療に及ぼすのでしょうか。まず、からだの声を聞くという大切な呪術性を忘れた医師は、病気の修理職人として生きるほかありません。医師の関心は、病気の正体を正確につかみ、元の状態に戻るかどうかが最大の関心事になります。いわば身体が「直る」かどうかを判断する能力が診断能力だと思い込みます。こうして医師が自身の呪術性を放棄した結果、修理職人となり病気を「治す」が「直す」になったということは、身体を「修理する」観点からは「直す」か「直らない」、元に戻るかダメになるかの2つに1つになります。そして、当然「直らない」患者と向き合う方法が分からなくなるのです。例えば、手持ちの電気機器が壊れたとしましょう。修理を依頼した電気屋に「いやー、これはもう直らないですよ、これは直すよりも新しく買った方が安い。」こんな風に言われた経験は誰もがあると思います。「直るか直らないか」「高いか安いか」が判断の基準になります。「直らない」なら修理を始めない。でも人間の身体はそんな風に買い換えることはできない。だから「直らない」のに診察をくり返す方法が見つからない医師が増えるのは想像に難くない。当然「直らない」から他の病院へ、「直らない」のであきらめて欲しいと説明する他なくなります。自分から遠ざける以外方法が見つからない。「最近の医師は話を聞かない。医師と患者のコミュニケーションが不調だ」とあちこちで聞きますが、医師は「直らない」患者との語らいがわからないんだと思います。

医師の人間性を回復させ、医師の言動をその地位にふさわしい品格に回帰させることで、患者本位の医療になるよう改善していく。これには僕も賛成です。しかし、患者と医師が一緒に剥ぎ取ってきたこの呪術性を回復させない限り、医療は本質的には回復しないと僕は確信しています。医師が患者に聴診器をあて、「あなたの身体からの小さな信号を私は聞き届けたい。あなたが気がついていないあなたの問題、あなたが誰にも話せないあなたの苦しみ、あなたがまだ知らないあなたの未来、私はこの聴診器から聞き届けたい」と、心の中で静かに呪文を唱えながら、患者を診察したとき。儀式的な呪術を施された患者にはきっと新しい心の変化が生まれると僕は確信しているのです。その時はじめて「先生に会えるだけで、元気が出ます」という患者からの最高の賛美が聞こえてくるはずです。この賛美は、賢く知識と技術を身につけた病気の修理職人が、本当の医師になる瞬間だと僕は信じているのです。

| | コメント (5)

2011年5月18日 (水)

「話せばわかる」と「話してもわからない」。心のケアの構えとは。

ある日緩和ケアの診察室に、がんの男性がいらっしゃいました。その方もご家族も顔が硬くこわばっています。緩和ケアの外来に、にこにこしながらいらっしゃる方はほとんどおらず、(ここはどういうところだろう)(どんな怖いことを言われるんだろう)と、とても緊張して身構えていらっしゃる方ばかりです。この方もそうでした。その表情から、まず今まで体験したことを最初に聞いた方がいいと、心に浮かびました。こういう風に思いつくのは、経験なのか勘なのか自分にも分からないのですが、心のどこかから(まず最初に今までの体験を聞け!)と何かが命じます。また心に言葉が浮かぶまでは、その方の話を聞きながら待つことにしました。

そして、聞いてみました。今までのことを。すると、その顔は徐々に怒りに包まれていきました。「A病院の医者は、ある日オレと家族を集めて、目も合わさずに『がんです。もう治療の方法はないです。余命は3ヶ月ぐらいだと思います』と急に言いやがった。病気になったのは仕方ないよ。でもその言い方と態度に腹が立って悔しくて悔しくて、どんなことがあっても3ヶ月以上生きてやろうと思ったんだ」と怒りに満ちた言葉が続きます。「それでな、家族が探してくれた別の病院の医者にも診てもらったんだ。その医者は手術がうまいと評判でな。その医者によるともう少し早く来てくれれば、15%の確率で手術できたっていうんだ。それならどうして、そのA病院の医者はオレを手術ができる病院に紹介してくれないんだ。それがまた悔しくてな」次々と味わった悔しい思いを話し続けます。ご家族にも、これは本当の話ですかと聞いてみると「はい、そうです」と立ち会った家族も確かに同じ体験をしていました。

最初に病気を診断した医者はやはり大変です。正しく病気の正体を把握しなくてはならないプレッシャーと、相手にどう話すかを思案しなくてはなりません。相手にとっては悪い話をするのですから、どれだけ正しい振る舞いをしても患者さんには多かれ少なかれ悪い印象として記憶されます。僕のように患者さんにとって2番目、3番目の医者はやはり得をします。なぜなら、患者さんにとって一番つらい思いをしてきた時期を過ぎて、少し冷静さを取り戻した頃に出会うからです。ですからこのように怒りに満ちた話を聞いたときに、「それはひどい医者だ。そんな事はこの病院ではありません!」と簡単に答えてはなりません。また前の病院の医者を「それは人に悪い話しをするやり方をちゃんと訓練されていない無能な医者だ!」などと思ってもいけません。もっと謙虚に「前の病院でつらい目にあったからこそ、この病院では同じつらい目にあわさないようにするには何がつらいことだったのか、何がいやなことだったのかよく聞いておこう」と考える方が僕はよいと思っています。医者同士は悪口を言わないという紳士協定とは違います。患者さんの心理状態で医者の印象は変化する事を知っているからです。

そして、この方の怒りの体験をかれこれ1時間近く聞き、身体を診察し、「それはつらい思いをしましたね」と言葉をかけ、背中をさすり、ひとまずはまた来週会いましょうと話しました。「知恵を絞ってあなたにできることを考えます」と手を握りお別れしました。つらい思いをした方には、とにかく優しくしたいのです。
その日から1週間が経ちました。あの方がまた診察にいらっしゃいました。傍らにはご家族が付き添って。椅子に座ったこの方を見ると、ぎらぎらと目が異様な光を放っています。そして、その目とは対照的に家族の目は光を失っていました。こんな風に、患者さんと家族の目の輝きが違うときは、(家族は何か別のことを考えているよ、一度別に話をしたらどうか)と心のどこかから声が聞こえてきます。そして、「この1週間いかがでしたか」と話しかけると、「いや寝てばっかりいました。何もする気がないんや。A病院の医者がな、オレに会う度に『悪くなった、悪くなった』と言うんだ。だいたい、あの医者はな、最初に診察を受けたときに・・・」と同じ話しが始まりました。家族の顔をそっと見ると、少しうんざりしたような顔をしています。その時この家族にある空気の淀みのようなものに気がつきました。この方と家族に同じ空気が流れていないのです。また先週と同じように怒りにあふれた言葉が出てきて表情も一変していきます。診察が終わり帰り際にそっと奥さんに声をかけ別の場所で話しを聞いてみると、「家ではうとうと寝たり、起きてきたりとあまり活気のない毎日です。あんな話しを私たちにも毎日のようにするんです。話していることは確かに本当のことで、私たちもつらい思いをしたのですが、毎日聞かされているとこっちもイヤになってきて」

その患者さんには、入院しようと話しました。「一度とにかく身体をちゃんと診ていきたい。薬の調整もしたい」と話しかけました。でも内心は、(家族と一度離れないと、この患者さんも家族も深い底なしの沼、「鬱の沼」に完全に飲み込まれてしまう)と考えていました。
「なんでオレが入院せにゃならん。まだやらなあかんことが山ほどある!」とこの患者さんは最初は賛成してくれませんでした。何とかしなくてはと、背中をかがめてこの方の目をまっすぐに見ながら「お願いですから、一緒に過ごす時間を僕に下さい。こんな短い時間ではあなたの考えていること、あなたにできる事が分からないんです。お願いです、何とかしてあげたいんです!」こんな風に情を込めて説得しました。また1週間が過ぎてどうにか入院をしてくれることになりました。「入院の適応」とか「治療の目標」と病院の中ではよく言いますが、どこかしら空虚な言葉だといつも思います。仕方がないので書類には適当に言葉を並べますが、本当は(うまく説明できないけど入院した方がいい)とか(理路整然と話せないけど治療する方がいい)というしかない時も僕にはたくさんあります。理性的なやりとりをして患者と治療の契約する、医者と患者は対等、そういう考えではこの患者さんには相対することはできません。なぜならこの時点では「話せば分かる」方ではなく「話しても分からない」方だからです。僕の考えですが本当に鬱病を併発した患者さんは最早「話せば分かる」という人間関係の根本を一時的に放棄する必要があると思うんです。そして色々と試みて鬱病がある程度改善してからまた「話せば分かる」関係になればいいんです。

「話せば分かる」というのは、いわば無限の母性のケアです。他者の言葉全てを傾聴し、そしてその方の語りがその方自身を、自分の力で癒していくのを見守っていればよいのです。良い聞き手、見守り手になればよい。そんなときには短期間にも習得できる程度のカウンセリング技法や、誠意と慈愛に満ちた対話は大きな力を発揮するでしょう。しかし「話しても分からない」とき、自分の言葉が心を病んだ例えば鬱病や認知症である相手の心に届かないとき、どうしたらよいのでしょうか。この対応に関しての教育と訓練は明らかに不足していると思います。こんな時僕は父性を発揮し「とにかく一度病院に入院してくれ、話しはそれからだ」と相手の納得を得る以前に、まず状況を変えていく事も必要なのではないかと考えています。父性のケアは時に厳しい。それについてもう少し書きます。

この患者さんは入院しても、毎日のように同じ話しをくり返します。僕もこの患者さんの病室で毎日30-60分くらいの時間を費やしますが、ある日思いました。(このまま、毎日のように同じA病院の医者とのつらいできごとを聞き、怒りの言葉とオーラに包まれるのを『傾聴』していてはかえってよくない)そうです、怒りに包まれたとき一番人は力強く行動し、その言葉は時には歯切れ良く、頼もしさも感じるほどです。しかし怒りに包まれたまま生きていくと、まるで電池が切れるように気持ちのエネルギーがなくなっていきます。怒りが枯渇した時、人は鬱になるのではないでしょうか。毎日この患者さんの怒りに満ちた話しを聞き、少しずつ対応を変えていきました。話しをあえて遮ったり、話しをあえて他の話しに変えていったり。昔の話し、仕事の話し、家族の話し。テレビの話し、趣味の話し、最近植えたトマトとキュウリの話し。いろんな話をしました。怒りに満ちた話に集中し過ぎないよう、色んな感情がこの方の心に宿るよう考えました。

家族にはこの方との付き添い方を一緒に考えました。「同じ話しであったとしても、毎日ちゃんと話しを聞くのは大事な事だと思います。でもどこかで話しを別の方向にそらしていかないと怒り続けるのを手伝えば、かえってこの患者さんを消耗させてしまいます」「え、それならどうしたらよいんですか」「ちゃんと話しを聞きながらも返事を返さない。ある程度話しが終わったら、自分の用事に戻る。そして今しばらく入院して見守る」と色々な方法を話し合いました。患者さんの心の問題に対処する時には、家族と患者さんとの付き添い方を一緒に考えるのは大切なことだと思います。家族にもケアと治療が必要なのです。日常的にどうしたらよいのか、そして時には対話を中断することも大切なのです。しかし、重い病気を抱えて悩む大切な人を突き放してしまうと感じる家族だっているでしょう。その罪悪感をどう処理したらよいのかなどを一緒に考えていく必要があると思うんです。
「ガンバレって言うな」
「○○をするな」
「××を言うべからず」
こういう分かりやすい指導は、間違いではないのですが、往々にしてその本質を失いやすい。「使ってよい言葉」と「使ってはいけない言葉」を限定していくことで、家族と周囲の人たちの幼稚な言葉狩りにもなりやすい。家族は自分の会話にどんどん臆病になり結果として、家族から患者さんへの情の流れが止まります。わかりやすい指導は、なかなか役に立ちません。

ある日この方から僕は言われました。「先生は忙しそうで、入院したのに思ったより話してくれないな」「話していても、話をそらすから」それでもその言葉に言い返さず、「いやそれでも今日もまた来ますよ。明日もまた来ますよ」と笑顔で返します。この方が再び「話せば分かる」力を取り戻す日を信じて見守っているのです。自分の気の利いた一言でこの方の世界を明るく照らすことはできないと分かっているからです。この様にカウンセリングを行う十分に訓練された治療者は、時に患者さんから話をしても聞いてもらえないと言われますがそれには理由があるのです。

この方は、「自分が鬱である」とは全く考えていませんでした。「あの医者が悪い」と同じ所に留まり続けることでもう自分の
心の状態が分からなくなっています。多くの医療者やセラピストの前に現れる患者、クライアントのほとんどは「自分の心は病んでいる」と自覚しています。こういう方々とは「話せば分かる」かもしれません。でも本当は「話しても分からない」「自分たちの前には自分ではやってこない」方にどう手をさしのべ、どう対応するのか考える必要があると思うんです。

こんな訳で僕は「話しても分からない」方には、時に厳しい父性のケアでのぞむことが大切だと思うんです。そしていつか「話せば分かる」日が来るのを焦らず待つのです。なかなか患者さんに笑顔が戻らないとき、医療者やセラピストは、「こんなことしていて、自分は役に立っているんだろうか」などと考えがちです。しかし短期的な報酬を求めず、粘り強く待つことが能力が治療者には必要だと自分の過去をふり返り反省と共に痛感しています。

医療特に緩和ケアでは、何かと母性重視で優しさが強調されます。しかし、本当に心を病んだ方にのぞむとき、母性と父性をバランスよく身につけた、よく訓練された治療者、セラピストが対応しなければ、その方を癒(いや)やすどころか時には、卑(いや)しめてしまうかもしれません。

| | コメント (1)

2011年5月12日 (木)

「全部つながっているのよ」

「全部つながっているのよ」

ホスピスに入院している方々から時々聞く言葉です。
最近ある女性患者さんから聞きました。唐突に。
「全部つながっているのよ」

僕が患者さんとの時間を過ごすのも、患者さんの人生の中ではきっとほんの短い時間です。それまで皆さんそれぞれの人生を歩んでいらっしゃいます。
対話を重ねるとわかります。どなたにも幼少の頃から心に残る忘れられないことがたくさんあります。ホスピスの場の力でしょうか、それとも僕に何か力が備わっているのでしょうか。患者さんの中には、そういうここに残る忘れられないことを前ぶれなく、そう何かの波長が合うある日語り始めます。

あの日もそんな日でした。いつもの日常的な診察の会話の流れを断ち切って、「あのね、先生。今まで分からなかったこと、何でかなと思っていたこと、それが今になって全部つながるのよ」と、この女性の話が始まりました。いつも始まりは唐突です。

断片的に思い出す人生の節目節目にあったできごと。その時には意味が分からなかったこと、不条理に思ったこと、やりきれない気持ちになったこと、つらかったこと、よかったこと、うれしかったこと。一つ一つの出来事には何のつながりもないと思っていた事が、ある瞬間線で結ばれるかのようにつながる時があるようなのです。まるで推理小説の結末のように。最後まで読まないと犯人もトリックも登場人物の本当の役割も分からないが、すべてを読んだ後に細部にわたり色んな伏線や意味が見えてくる。本当にうまくできているもんだ、と彼女自身がいちばん感激しています。

こうしてある日唐突に僕が受け取った、色んな患者さんからお聞きした言葉たち。
「先生、無病息災という言葉の本当の意味がやっと今日わかりました」
「先生、時間には始まりも終わりもない。だけどいま自分がここにいる。この事の意味が分かりました」
「先生、すごいよな、最後は何もかも自分でわかるんだよな」
それぞれの意味はとってもプライベートで、僕には何のことかさっぱり分かりません。それでもずっとこういう言葉は覚えているんです。大きな謎かけのように。

自分も含めて例外なく、人は毎日どうしたらよいのかと迷い悩みながら生きています。彼女は色んな家族の深い闇(やみ)を背負っていました。一部は僕にも語ってくれました。でも心に秘める闇のすべてを他人には語りません。僕も彼女が話す事以上に知ろうとしません。自分で語る以上には、好奇心で患者さんの事は詮索しないのがホスピスの流儀です。3ヶ月前、彼女に初めてお会いした日、その表情はとても暗い顔でした。抱える病気のつらさ以上に、自分の心に確かにある深い闇をもてあましていることを僕は直感しました。時が経ち彼女は、あの日と変わらない暗い顔のまま入院されることになりました。それでもある日、ある瞬間から急につきものがとれたように「鮮やかな」顔に変わったのです。「全部つながっているのよ」その時の表情はまるで白黒だった顔に色彩が現れるようでした。その瞬間、僕は本当に驚き、神秘的ですらあるその表情に深く感動しました。

彼女が言う「全部つながっている」事の意味は、残念ながらどれだけ説明を聞いても僕には解らない。だって、それは彼女だけが悟った「つながり」、天からいや過去の彼女から今の彼女に贈られたプレゼントだから。僕はその時の事を思いだして確信しています。今まで体験した色んな事が将来つながり、あんなに「鮮やかな」表情と共に、喜びに包まれる日が来るのだと。きっと注意深く、落ち着いて待っていれば必ずその瞬間は誰にでも訪れます。今は大変な毎日の生活ですが、意味の分からない「一体これはどういう事なんだろう」の積み重ねが、将来の「ああ、こういうことなのか」につながるはずです。死を迎える前かも知れませんが、自分にもその日が来るのが楽しみです。

死は恐ろしい。自分の消滅は考えたくない。でもその間際には、自分からの大きなプレゼントがあるようです。あなたにもきっと。そして「全てはつながっている」とそばにいる誰かにそのことを告げるのです。

| | コメント (1)

2011年5月 6日 (金)

南相馬便り (詳細) その4

●朝の散歩
こうして、僕らの南相馬での活動は終わりに近づいていきました。4日目の朝が来ました。とてもさわやかな朝でした。もりのゆの近くを一人で散歩してみました。避難所に指定されていない中学校がありましたが、学生は全くおらず学校には満開を過ぎた桜の木がただ静かにたたずんでいました。4月の最終週、南相馬の小学校と中学校の子供達は、道の駅(だったと思います)に集まり観光バスで集団登校し相馬市の学校で授業を受けていました。原発事故による放射線の影響を避けるためです。相馬市までバスで30-60分の道のり。ですから、今でも避難所になっている小学校や中学校は、授業を再開する子供達のために明け渡すことなくずっとその生活が続いていました。

放射線は見えず、聞こえず、におわず。僕も4日間いるうちにマスクもせず普通の姿で道を歩きます。慣れてしまうのです。20110506_130004 知覚できないものの恐怖や意味が全く認識できなくなってきました。ここの住民の方はよけいにその感覚を身体で感じると思います。県外に避難している方々も多く、また仕事をするために父親だけ南相馬市の避難所に単身赴任している方も増えてきました。放射線の恐怖も時間と共に麻痺してきます。また連日発表される放射線量も郡山や福島市よりも低いことが分かります。低レベルの放射線を長く被曝することの健康被害についてはまだ人類はほとんど経験がありません。ただ「あっちよりもまし」という一見科学的な判断で南相馬市に戻ってくる人も増えてきました。絶対的な放射線量よりも相対的な「あっちよりもまし」が余計に判断を狂わせます。人類初めての経験をする以上は、政府であれ、東電であれ、雑誌のNatureNew England Journal of Medicineの論文やeditorialであれ、国内外の著明な専門家であれ、「あなたはここに住んで大丈夫です。戻ってきてよろしい」と誰も力一杯言ってくれないのです。

自分で調べて、考えて行動するしかない。自分のリスクマネジメントは他人に預けてはならない、その事を出発前から考えていました。

こちらに来る前には、南相馬市に来たら空を見上げて、「南相馬」「フクシマ」「福島第一原発」というテレビや雑誌から切り取られる記号化された被災地ではなく、自分の感じたその地の空がどうなっているかを体験しようと思っていました。そして、空を見上げてみました。20110506_162015 そこには青い空と白い雲。当たり前風景ですが自分が見慣れたいつもと同じ風景が広がっています。自分と地震、津波、原発をつなぎとめる何かがやっと見えた気がしました。どれだけネットで情報を得ても、どれだけ人のブログをのぞいても、どれだけ新聞を読んでも、テレビを観てもわからないこと、結局はそこに住む人達と話し手を握りあいお互いを感じあうことでしか、南相馬の空は見えてこないこんな当たり前のことが分かりました。それは出発前に感じていたことと同じでした。

●南相馬総合病院

さて、出発です。最後の日は南相馬市立総合病院で演奏をします。いつものようにコンビニで朝食を買い出かけます。病院に着くと、事務の方々が待合室のイスを動かして演奏場所を作ってくださいました。皆さん、会計を待っている間に演奏を聴いています。20110506_130048 副院長の及川先生がとてもとても丁重な紹介をにこにこしながらして下さいます。僕からも挨拶をとうながされ、ただ一言「神戸から参りました医師の新城です。たった4日間しかいられなくて本当に申し訳ありません。皆さんのことは忘れません」とだけ話し演奏を始めました。

どこの避難所でもそうですが、演奏者と目を合わせながら大きな声で歌う方はほとんどいらっしゃいません。皆さん気恥ずかしそうに歌詞カードに目を落とし、自分の口元で歌詞をくちずさみます。20110506_130157 音楽のボランティアで気をつけていることがあります。無理に演奏や活動に皆さんを巻き込まないことです。自分たちが楽しそうに演奏している姿とエネルギーを皆さんに音と共に届けるこういう心構えが僕は必要だと思います。慰問演奏をしていて一番楽しんでいるのは他でもない自分なのです!原田さんと一緒に合奏し自分の気に入った曲を弾くのがとてもとても楽しいことなのです。皆さん、僕の楽しみにお付き合い下さりありがとうございました。(ひまわりや赤いスイートピーは僕の好みです)

仲良くなった事務の方と写真を撮り、午前10時に病院を出発しました。20110506_130229 帰りに津波の被害を受けた場所をもう一度通ってみました。多くの自衛隊の方々が瓦礫の撤去のために働いていました。交通整理も誠実そうなまなざしです。20110506_130258 迷彩服を着て遠くから見るとその異様で非日常な状況に人の心には恐怖を生みます。でも近くによって話せばみんな顔がちがいます。昨日トイレであった防護服の警察官もそうです。昨日夕方にケガをして南相馬市立総合病院であった警察官や自衛隊の方もそうです。みんなみんな名前のある同じ志を持った人達なのです。その事もとても良く分かりました。

AERAで震災直後「放射能がくる」とわざとショッキングな表紙で購読者の恐怖と好奇心を喚起しました。それには多くの批判があり、実際に連載を打ち切ったライターもいました。でも僕は思います。あの表紙に写った防護服の男性。その方にも名前があり家族があり使命がある。表紙の彼という人格を今の僕はちゃんと感じることができます。

また最初に書いたあの、防護服を着た自衛隊と、原発事故の避難地域から動こうとしない老夫婦の報道。あの時に感じた報道の異質さがやっと分かりました。

あの報道では、自衛隊の隊員は一生懸命に老夫婦に語りかけます。Img_284242_28334618_3jpeg 居丈高に「ここは避難地域である。即刻立ち退きを命ずる」という口調ではないのです。心配して、「ここにいると危ないから、どうか一緒に来て」と人として老夫婦に一生懸命に話しかけていました。被災者も援助者も同じ人。その人と人との対話を自分は感じていたのだと全てがつながっていきました。

そして視界には高台にある原町火力発電所が見えました。鉄塔が倒れていました。20110506_130629 Youtubeでみた津波の映像が思い出されます。その映像でも「あー俺の車が!」と話しているのが聞こえます。そうなのです、圧倒的な恐怖と起きている事態の大きさが理解できないとき人は日常の言葉でしか語れないのです。難しい言説や、専門的な発言よりも、等身大の自分の言葉でしか理解をすることができないのです。僕にとってもそれは同じでした。どれだけ背伸びをしても出てこない言葉。飾った言葉。技巧的な言葉。全てが自分から出てこなくなりました。「自分の等身大の言葉で、自分の感じた事を文字にする」ことしかできないと自分に謙虚になりました。

帰り道に、何か土産をと思いさがしました。妻にメールしました。「放射線がいやでなければ相馬のお土産買うけどどう?」と書くと、「別にそんな気にすることないんでしょ?放射線。せっかくだから相馬のお土産希望です」と返事がありました。夫のリスクマネジメントを信用していることに僕はとてもうれしく思いました。

相馬市の道の駅によると、朝子供達を送っていったたくさんの通学バスが並んでいました。そこでは「津波で家を流された。でも一生懸命仕事をしています。おいしいから食べてみて」と海道物産の青のりの佃煮と、ふりかけを売っているおじさんに出会いました。あまりのおいしさに買い込みました。でもこの会社はgoogleでみても津波で流されています。今後どうするのでしょうか。またお取り寄せしたい。20110506_131051

車で長時間運転し、朝10時に南相馬を出発し、16時に茨城空港に戻りました。僕らが計画を立てている間に仙台空港も復旧しました。仙台空港からなら南相馬は近い。本当は茨城空港からもまっすぐ北上すれば近いのですが原発があるため通れません。レンタカーを念入りに洗車してから、飛行機で名古屋を経由しおいしい夕食を食べみんなで打ち上げをし労をねぎらった後、神戸に戻りました。時間は夜の10時を過ぎていました。家に帰ると家族はいつも通りに僕を迎えてくれました。

こうして、僕らのたった4日間のボランティア活動が終わりました。結局自分たちが一番学ばされたのです。南相馬市の温かい人たちが僕らにいろんなことを勉強させてくれました。このことずっと忘れません。5月の連休が過ぎようとする今、きっと南相馬市にはどんどん人が戻り町の機能も回復していることでしょう。

「原発さえなければ、この町はとっくに復興している」皆さんが口をそろえて話していたことです。家が残ってなお避難している方々、家がなくなってしまった方々、南相馬を後にして別の地で生活を始めた方々、どなたにも等しく平穏が訪れますように。祈ります。

「震災、津波は天災、原発は人災」これも皆さんが口をそろえて話していたことです。原発を人災とすることで人々の怒りと悲しみを全て引き受けることになった原発と東電。そしてそれに関わる政治家や多くの技術者。しかし、南相馬市(鹿島、原町、小高)の人達も原発に深く関わっている方々がたくさんいます。つまり人災の一端は彼らの身内にもあるのです。彼らのこの複雑な悲しみと怒りがどう癒えていくのかその事だけは僕にはわかりませんでした。それでもきっと少しずつ毎日良くなります。根拠のない確信ですが、僕は南相馬の空を思い出して今本当にそう思うのです。

●帰ってきてから (追伸)

 帰ってから、すぐに日常が戻ってきます。そして僕の中の時間もまた動き始めました。ある朝新聞を読むと、足の不自由な母娘が避難地域に戻れないという話しを読みました。(ああ、あの方だ)すぐに思い出します。たぶん、いやきっとあの方だ。そして胸が熱くなりました。(この方々は僕が避難所へ行ったときも、雑誌社の方も同時に取材を受けていました。一緒に写真を撮ることも、話しを書くことも了承してくれています)僕の時間が動き出すと同時に、あの場所の時間も確かに動いているんだ、僕の心の中では南相馬市での出来事は一旦止まってしまったけど顔を知っている、一緒に同じ時を短い間でも過ごすってこういう事なんだとまた違う時間が動き始めました。またお会いしましょうね。

 

| | コメント (4)

2011年5月 5日 (木)

南相馬便り (詳細) その3

福島県南相馬市で3日目の朝が来ました。昨日の荒れた天気とは違い、穏やかな1日でした。2日目と同じく4カ所の避難所を廻ります。

●原町第一小学校

昨日の順番とは反対にまずあの原町第一小学校から伺いました。2日目に演奏で伺ったときの何とも言えない目を合わせない心の閉じた雰囲気を思い出し、どうやって対話したらよいのだろうとしばし考え込みました。この日は南相馬市立総合病院、副院長の及川先生から連絡があり、2人のボランティアとして他地域から来た看護師を同行させて欲しいとの依頼がありました。また瓦礫撤去のボランティアとして一足先に到着していた井上さんも一緒でした。こうして仲間も増えて原町第一小学校に着きました。早速受付の市の職員の方がアナウンスをしてくれました。「診察が必要な方はお越し下さい」仮設の診療所は用具室です。そこにはティンパニや跳び箱にならんで、仮設のベッドが一つ置いてありました。井上さんや原田さん、吉田さんがどんどん話しかけています。20110506_161838 「あっちで診てもらったら」あっと言う間に用具室の外には5人ぐらいの行列ができました。
皆さん、本当は毎日誰かが診ているのですから本当は診察の必要はないのかもしれません。でも皆さんにきちんと身体の診察をして、脈を計り、血圧を測る。持ってきていた酸素飽和度を測る。みんな「大丈夫ですよ」と一言医師から毎日言われる事で、この異常な避難生活を一歩一歩足を踏み外さないように過ごす礎になるのです。僕にはそう思いました。

「血圧はいいですよ」「薬の効き目はいいですよ」「よく眠れていますか」そういうメッセージの奥底に「あなた大丈夫よ!」という思いを込める事が自分にとっては必要な診察だと思いました。僕には「避難所生活の至適血圧」といった概念は全く無意味だと思いました。診察を通じて「今回の事、大変だったよね」と話しかけると皆さん、ぽつりぽつりと震災のことを話し始めます。最後に左半身に麻痺がある方が診察に並んでいました。その方も診察で何を診てもらうとかそういうのではないんです。とにかく安心したい。その方の身体をきちんと診察し「大丈夫よ」と話しかけてからその方のいるスペースへ行ってみました。Th_img_0764 その方のために特別に福祉の方がベッドを避難所に設置していました。「このベッドがあれば安心だよね、良かったよね」と話すと保健師さんも「本当に良かったです。特例ですがこの方には必要な事なので」避難所の布団は敷きっぱなし。どこも衛生的ではありません。それでもベッドを持ちこむことは特別とここでも避難所生活のつらさを思います。その方と笑顔で写真を撮ってまだ色んな人と話したいと思いながらも次の避難所へと向かいました。僕の心の中では、心の閉じた方がいるのではなく、ただ自分が恐れていただけなんだと気がつきました。いつも職場で患者さんや家族に頼りにされる関係から、医師なのに「あの人一体何者?」と値踏みされるような視線を感じるのも初めての経験でした。前日に音楽の演奏をした事で覚えていて下さる方が多くてありがたく思いました。
「今日は演奏ないのよ、ごめんね」と言い残して。たった2日でも連日来る事で、現場の医療関係のスタッフも僕らに小さな信頼を向けてくれました。

●原町第二中学校

そして、原町第二中学校へ行き診察をはじめました。「心のケア」の専門家と某NPOの団体が診察室でミーティングをしているため、診察をする事ができませんでした。この避難所では各教室の扉が完全に閉まっているので自分たちの判断で部屋に入るのがためらわれる状況でした。Th_img_0767 それでも「あ、昨日の演奏よかったよ」と話しかけて下さる方もいてほっとしました。いずれにしろ用事もないようなのですぐに中学校を後にして残った時間を小学校で過ごそうと思っていたときでした。中学校にいる看護師さんから相談を受けました。ある男性の高血圧です。初めてこの避難所の教室に足を踏み入れました。他の避難所に比べてやや不衛生なのが気になりました。固い床の上に薄い敷き布団。どの避難所もそうですが、マクラがないため毛布をひもでくくりマクラの代用にしていました。
そこにその男性は一人下を向いて座っていました。話しかけても返事がとぼしく、誰が説得しても入浴しない、薬を飲む事も、診察を受ける事も断固拒否しているとのことでした。理性的に色んな事を拒否をしていると言うよりも、精神遅滞がある印象でした。母と兄と同居していてその二人とも別の場所にいるとのこと。一番信頼できる兄は仕事のため遠くに出稼ぎに行ってしまったと看護師さんからお聞きしました。兄は母とこの方を支えるために働き続けなければならないんです。この方にはずっとこの先、関われる現地の医療スタッフに任せなければ事態が進みません。弱い立場の方を支えるには言葉よりも継続した見守りです。僕にはこの方に魔法がかけられる力はないとすぐに悟りました。しばらく診療所で看護師さんと話しました。「粘り強くご家族と協力し合えば、入浴してくれるかも知れませんよ」「どうかよろしくお願いします」と役に立たない言葉しか置いていけませんでした。

すれ違った心のケアの専門家は専門用語でNPOの人たちに講義しています。僕はこういう外から来た人たちが本当に心のケアができるのかと内心疑っています。地元の人たちが心のケアを実践できるようにコーチするのが本来のやり方だと思います。多くの肩書きと業績を背負って、縁のない被災地に乗り込みまた短期間で帰って行く事僕には嫌悪感を覚えました。だから僕は自分の活動を「心のケア」とはとても言えません。皆さんの心を慰めるために演奏し、声をかけるのがせいぜいです。

揃いの蛍光色のジャンパーで所属が大きく書いてある医療者やボランティアにはどうしても嫌悪を覚えるのです。その土地の方々に染み込む心構えは別にあると思いました。

 

午後の巡回前に南相馬市の中心にある道の駅に行きました。そこは警察の方々の集合場所になっていて朝、夕は多くの特殊車両と防護服の方々であふれます。Th_cimg6866_2 警察の方に「暑いでしょ」と声をかけると「いえいえ」と返事。一般の立ち入りが禁止されている原発から10-20km圏内で遺体の捜索をしているのです。防護服には手書きマジックで名前が書かれていました。確かに誰か分からなくなるんです。Th_img_0769

●鹿島保健センター

午後は、一度南相馬市立総合病院に戻り副院長の及川先生と、原発事故による避難地域内にある小高病院の院長先生も一緒に、再び鹿島保健センターへ向かいました。及川先生は何度も何度も嬉しそうに僕らの活動に「いや、音楽はいいよね」「僕も聞きたいなあ」と応援してくれます。とても明るい雰囲気で避難している方の人数も少ないためまとまっている感じです。昨日一度ここには来ているので顔を知った方もいらっしゃいます。Th_cimg6867
皆さんテレビのあるリビングルームに集まり演奏を始めました。一緒に同行した看護師のボランティアの方々も一緒に加わって歌って下さいます。及川先生はビデオカメラを片手に一緒に歌って下さいました。最後にみんなと記念写真。Th_cimg6868

演奏を終えると小さな子供の姿を見かけました。選曲は年配の方向けなので、リクエストはありますかと声をかけると「アンパンマン」の歌のリクエストでした。この母子はとっても喜んで下さって、帰りも僕らの車に自転車に乗りながら手を振り続けてくれました。避難所では子供たちもできるだけ静かにしなければという暗黙のプレッシャーがあるようです。Th_img_0771

外でしばらく避難している方々とお話しをしました。「1日の時間が長すぎてどう過ごしていいのか分からない」と言った話しや、「いつになったら避難地域に帰れるのか」という落胆の声をよく聞きます。「早く仕事に戻りたい」「早く家に戻りたい」皆さんの思いです。原田さんはご自身の震災の経験から、
「家がなくなる事よりも、仕事がなくなる事の方がずっと大変」
と話していたのが印象的です。仕事を失うと社会を失います。人は生きて行くには他人と一緒に過ごす時間が必要なんですね。

●石神第一小学校

次に、石神第一小学校へ再び行きました。ここにも大きな画面の液晶テレビが置いてあり、その前で演奏を始めました。みなさん小声ですが一緒に歌ってくれます。洗濯に忙しい方々が行き交いながらの時間でした。
演奏を終え帰るろうと準備をしている間に、現地に勤務する看護師さんと話しをしました。小高病院の看護師が3交代で勤務していると、どの病院でもよくある勤務表とにらめっこしていました。ある看護師さんは、津波で家を流され、アパートを借りて通いで勤務していると聞きました。ご両親を津波で亡くされたとお聞きしつらい気持ちを話していらっしゃいました。それでも「仕事を続けるかどうか迷いながらも続けている」とお話しになり、それでもしばらくはこういう生活を続けますと話していらっしゃいました。
帰り際に昨日も人なつっこく僕らが昼食を食べているとお茶を入れて下さった方にまた出会いました。ずっともてなし続けてくれます。演奏が終わった事を話すと残念そうにして「いやー先生は沢田研二に似ているわ。オレもな大阪に行ったら先生らとまた食事するわ」と喜んで下さいます。Th_cimg6872 また昨日会った看護師さんも丁度勤務で避難所に来たところでした。「えー、残念。もう終わっちゃったの」と聞き、つい調子に乗りこのお二人のために一曲演奏しました。「情熱大陸」です。看護師さんは目に涙を浮かべて一緒に写真を撮ってくれました。
Th_cimg6871

こうして1日を終えてもう一度病院に戻りました。たった2日間行動を共にしただけでも、南相馬市立総合病院のスタッフの方々は明日の別れを名残惜しんでくれます。Th_img_0778 僕には不思議な気持ちが湧いてきました。本当に短い日数なのに、ここでお会いした方がと別れるのがつらくなってきました。自分がその時にその地に属しているという確かな手応えを久しぶりに思い出しました。以前は三重県の員弁という農村地区で医師をしていましたが、そこでは住所を見ただけでどんなところかわかり、あそこには誰がいるとか、看護師の誰の家に近い所とか思い浮かぶのです。神戸に来てからは全くそういうそういう土着の感覚をもてずにいました。自分がホスピスに働いているからなのか、神戸が都会なのか。
南相馬にわずかな時間しかいないのに、あの土地と土地の人たちに心をよせる何とも言えない感触が戻ってくるのはどうしてだろうと本当に不思議に思いました。今から思い出すと、人と人の心の距離なのかも知れません。

次の日は南相馬の最後の日です。あの及川先生がまた声をかけて下さり、出発の前は病院の待合ホールで演奏して欲しいとお願いされ喜んでお引き受けしました。

夜はボランティアで瓦礫と格闘していた井上さんと再び合流して、原町の村さ来へ。Th_img_0780 大勢のお客さんでにぎわっていました。まだ商店街の1/3程度のお店しか営業していませんでしたが、個人の商店には新鮮な野菜が並んでいました。Th_img_0781

この週から郵便が、そしてクロネコヤマトの車も南相馬市を走るようになっていました。きっと5月に入れば物流も整うんだろうと思います。良かったですね。

 

その4につづく

| | コメント (0)

南相馬便り (詳細) その2

  福島県南相馬市で2日目の朝です。この日から2日間は4カ所の避難所を回り午前は診療、午後は慰問演奏をしました。

● 鹿島保健センター

ライトバンで移動し鹿島保健センターへ行きました。Th_img_0711 そこは元々デイケアの施設で毎日保健師の方や市の職員の方が交代で受付をしていらっしゃいます。当初は屋内避難地域だったので、大型のテントが子供の遊び場のため(?)設営されたと聞きましたが、現在は全く使用していません。大丈夫かと思いましたが避難していいる方々の洗濯物も外で干していました。Th_img_0774 床は暖房付きのワックスのきれいなフローリング。建物はとてもきれいでした。皆さんが眠る広めの部屋には20人くらいの布団が並べてあり、80cmぐらいの高すぎないパーティションで仕切られていました。昼間は皆さん仕事にでられるとか、残っている方は年配の方が多かったです。やはり津波で家がなくなった方と、原発のために家へ戻れない方の二通りの方々がいらっしゃいました。テレビの置いてある部屋にはソファもあり、そこには各地から寄せられた飲みものが自由に飲めるように置いてありました。食事は給食が提供され、炊き出しはありませんでした。物流は徐々に改善してある状況でした。

勇気を出して一番最初に目があった男性に話しかけました。
「どこか体で悪いところありますか?」「治療していないヘルニアがあるな」と答えました。とてもにこにこした方で話し好きな方でした。ヘルニアは手術の必要もなく、「これならしばらく様子を見て大丈夫ですよとお話ししました。看護師の原田さんも作業療法士の吉田さんもそれぞれちがう人達に話しかけていました。
ある方は、原発で働いていた方でした。引退してから震災にあったと話していました。避難所にいるのは家が避難地域になったためです。また肺がんのため状態が悪化しつつある方にも出会いました。
「福島県立医科大学に通っているが、今はこんな状態でなかなか通えない」「子供達が自分の所に来いと言うが県外だしここにいる方がみんなもいるし安心なんだな」と話していらっしゃいました。幸いがんの症状はありませんでしたが、やせが目立つ状況でした。食べるものには不自由していないためこの方は見守る人がいる分自宅よりも安心できると話していました。
女性二人と話しました。やはり多くの人達が男女入り乱れて一緒にいるのでいびきもうるさく夜もぐっすり眠れないと。原発のこと政府のこと東電のこと。とっても怒っていました。地震や津波は天災、原発は人災と話していました。

テレビの部屋に戻るとソファにマスクをした女性が座っています。話しかけてみました。「風邪はもう治りかけだから大丈夫」「ここでの生活はどうですか」と聞くと、「ああ、ここはね環境は恵まれている方だと思うの。でも集落ごとのぶつかりやら、若い人達同士のいざこざ、子供の声がうるさいという人もいるのね」「お酒をいつも飲んでしまう人がいて周りの人にからむのよ。それをなだめるのも私たち年配の役目。みんな疲れているのよね」
ここにいる若い人達は僕らと目を合わせないようにしている方も多くいました。「私と話そう」と心が開いている方だけと話しました。心の閉じた方はよそからしかも短い時間来た医師に心を開くことは難しい、むしろ邪魔だろうと思いました。
また明日来ますと話し次の避難所に向かいました。

●石神第一小学校

石神第一小学校へ着き、大きな体育館に入りました。Th_img_0715 そこでは原発のため入れなくなった小高病院の看護師さんが3交代勤務で働いていました。看護師長さんに話しを通しました。「総合病院の及川先生から命じられまいりました」というとすぐに警戒した表情を解いて段ボールで囲われた診療室に案内して下さいました。
各避難所には、以前は諏訪中央病院の医師が回診し必要な物品、薬は全て揃っていました。僕も自前で薬を持っていったのですが全く必要ありませんでした。毎日午前、午後に医師の巡回があり、医師、看護師も十分な状況でした。ここでも自分の診療と言うよりも仕事を総合病院の先生方が与えて下さり、勉強させてくれているというそんな思いになりました。
市の職員の方がマイクで「診察を希望の方はお越し下さい」と話すと数人の方がいらっしゃいます。

高血圧の男性でした。元々高血圧があり悪化した様子。避難所では飲酒、過食はないためストレスも大きい印象でした。薬嫌いの方でしたがお話ししました。
「ここでは夜眠れるの?」「いや、眠れね」(福島の訛りはきつく実は半分ぐらい分からない事もありました)「薬飲もうよ。看護師さん達も心配しているよ」「いや、いらね」と押し問答。

確かに降圧剤を飲むことでこの方の何に役立つのだろう、この過酷な生活の中でなにが改善されるんだろうと考えると血圧を下げることの意味が分からなくなってきますが、「いや、こんな異常な生活もいつかきっと終わるからさ、ここにいる間だけでも薬飲もうよ。な。心配なんだよ」と話すと「わかった」と言って薬を持っていきました。次は人なつっこい女性でした。「頭が痛くてさ、いや昨日も先生には診てもらったんだけど」不安を感じて医者と話したいと思っていることすぐに分かりました。この方は津波で家が流された方。つらい思いを抱えています。頭が痛いのは話しのきっかけで、話しをしたいのです。「頭痛いのか。そっか。ここでの生活も長いの」と聞くと「もう1ヶ月ぐらいかなあ。それでな私の家はな・・・」と続きます。手持ちのロキソニンを渡して「つまらない土産だけど頭痛いときにはこれ飲んでよ」というと「先生あんたええ人。握手して」と言って握手するとすぐにどこかへ行ってしまいました。
途中ひょうが振り出しものすごい轟音に体育館が包まれ、皆さん不安そうでした。大画面液晶テレビの前にはいつも人が集まりニュースを見ています。丁度新幹線が福岡まで開通したニュースが流れていました。
お昼の時間になり小高病院の看護師さん達から声をかけられ、「避難所の給食を一緒に食べよう」と誘われました。3人で頂きました。Th_img_0717 ごはんと野菜、シチューでした。温める電子レンジもあり、昨日の夕食に残ったカレーは、大食いの吉田さんが食べていました。看護師さんも家に帰れず、アパートを借りて毎日通っていると話していました。避難所にいつもいるわけではなく通って仕事をしていらっしゃいました。
また明日来ますとここをあとにしました。

●原町第一小学校

一度南相馬市立総合病院に戻り、院長の金澤先生らと合流し一緒に出発しました。
午後には、まず原町第一小学校へ行きました。ここでも大きな体育館に大勢の方がいらっしゃいました。Th_img_0720 ここは多くの外部の人達、取材、ボランティアが出入りするので、避難している人達もどちらかというと閉じている感じの方々が多いと一見して思いました。金澤先生らは診察を始めました。僕はバイオリンを持ち、看護師の原田さんはギターを持って体育館の前に置いてある大画面テレビの前で演奏を始めました。Th_img_0723 ステージの上よりも下で演奏する方がよいと思いました。音楽が好きな年輩の方々が集まっています。自分の職場のホスピスでもそうですが、音楽の演奏を間近に聴く方、そして自分の部屋で聴く方両方がいらっしゃるのです。みな物珍しそうにしています。あまりしゃべりすぎずいろいろと演奏を始める中、少しずつ人が集まりみんなに歌詞カードを配り歌える曲を演奏しました。Th_cimg6850 他のボランティアの方もふるさとを一緒に歌ったりしました。Th_cimg6852 演奏の途中にヘルメットをかぶり「●●県から来ました。皆さんにマクラを持ってきました。どうかがんばって下さい」とマイクでアナウンスしていました。毎日のようにこういうアナウンスがあるようです。正直盛大な拍手を毎回期待することはできないなと思います。名乗らずそっと置いていく方がいいのになと思いましたし、僕はそうしようと思いました。ただ白衣だけはきちんと着て自分の素性を明らかにすることで安心してもらえたらいいな、音楽を押し売りするような風に思われないといいなと思いました。

遠くから気になる視線もあり、演奏が全て終わって、勝手にアンコールを弾いた後しばらくしてからその人の所へ行きました。
演奏が終わっても食い入るように歌詞カードを見ている方でした。「何か弾いて欲しい曲がありますか」と聴くと最初の女性の方は心が閉じている様子ですが、「ありがとう」を聴きたいとお話しになりリクエストに応えました。吉田さんが、「あっちで中学生の女の子がリクエストがあるんだけど、絶対に自分の場所を離れてはダメだと親から言われているから音楽が聴けなかったという子なんです」と聞きました。
僕らが言った少し前にも若い方どおしのいざこざがあったり、段ボールで囲われた各皆さんのスペースからモノがなくなったりと(盗まれたり)見えないところで色んな事があるのだと知りました。その中学生の子も留守番をしているのでした。3人でその子の所へ行き、リクエストを聴いてみると「千の風になって」を弾いて欲しいと頼まれました。でもこの曲は亡くなった人の話が歌詞になっています。ホスピスでもこの曲は弾かないようにしています。避難所で皆さんに聴いて頂く曲ではない、まして一緒に歌う曲ではないと思いました。かえってつらい気持ちを呼び起こしたり、不快な思いをする方がいるのではないかと。吉田さんにその場所の留守番を頼み、その女の子を入り口の外に案内し、「ここならあなただけのために演奏できますから、ここで弾くね」といって演奏しました。その女の子は演奏が終わるととても喜んでくれていました。「私の恩師がこの曲が好きで、私も好きになったんです」と。

僕らの演奏が終わると、南相馬市立総合病院のリハビリテーションのスタッフの方々が避難所の皆さんと体操をします。

●原町第二中学校

次に原町第二中学校へ向かいました。ここでは、各教室に10-20人前後が寝泊まりしていました。各教室は新聞紙でドアが目張りされ中が見えないようにしてありました。各教室には勝手に入りこめない印象でした。一つの教室が診察室になっており、金澤先生らが診察を始めました。Th_cimg6856 多目的室にはお菓子が並びそこで演奏しました。Th_img_0727 音楽が好きな方が集まって下さりしばし演奏の時間でした。駐車場にはお風呂が設営されていて、お風呂上がりの皆さんが丁度部屋に集まってくれました。Th_img_0731 「ひまわり」「ありがとう」は連ドラでこの1年くらい毎日のように流れていたのできっとご存じかと思いましたがやはり知らない方が多く、「北国の春」「ふるさと」「春の小川」が一番みなさんに喜んで頂けました。松田聖子の「赤いスイートピー」もかれこれ僕が小学校の頃30年前の曲ですが、これ曲でも「先生、これは新しいよ」とおばちゃんたちは口々に話していました。Th_img_0730
中学校の校舎裏の駐車場では避難している人たちの車内に犬やネコの姿をよく見ました。避難所には入れないペットを車内で飼っているのです。動物たちも大変な避難生活です。Th_img_0736Th_img_0737

演奏を終えて町を走ると既に仮設住宅の建設が始まっていました。地元の方に聞くと競争率4倍とのこと、まだまだ数は足りないようです。Th_img_0714 こうして1日を終え病院に戻ると、院長の金澤先生が「少し海の方へ行ってみませんか」と声をかけてくださって、車で海に向けて走りました。その光景はまさに言葉を失う状況で、黒い水が全てを押し流した事が良く分かりました。Th_img_0754 自衛隊の方々も既に日中の作業を終えた時間でした。車、船といった所有者があるものは残されていましたが、もう既に多くの瓦礫は撤去されていました。Th_cimg6858 院長はこの辺りにはたくさん家があった事、自分もよく釣りをしたところもあとかたもなくなってしまったと話し、また震災当日の事を教えてくださいました。その日は外傷の患者がわずかに病院の診察を終えた後、津波にさらわれた人たちが搬送されたそうです。しかしどなたも泥を飲み込んで救う事ができなかったと話していました。Th_img_0757 病院から5分車を西に走るだけで全く違う光景でした。

病院に再び戻ります。毎日1日の終わりにはガイガーカウンターで被曝量を確認していました。全く問題のないレベルでした。(100-150CPM)靴の裏はやはり線量が高く300CPM程度が検出されていました。放射線に過敏になっている吉田さんは毎日きちっと測定していました。南相馬市立総合病院の救急外来受付には希望する方全員の測定に対応して頂けます。でも気にしているのは僕たちだけでした。Th_img_0741

そこからの帰り道、国道6号線の原発から20km地点に行ってみました。何にも景色は変わらないので、警察の検問があります。放射線は何も見えずにおわず。一体どういう存在なのか頭が混乱してきます。
Th_cimg6862

その後地元でも評判の良い鹿島の焼肉屋丸長で食事をしました。この日は僕の40歳の誕生日でした。

その3につづく

| | コメント (0)

南相馬便り (詳細) その1

先日南相馬市での出来事を書きましたが、記憶のあるうちに詳しく書きとどめておきます。

●震災発生から出発まで

3月11日東日本を襲った大震災。そしてその後の津波の被害。毎日の報道で一体これは何だろうと心の時間が完全に止まってしまいました。信じられない光景に言葉を失い直接の被害のない自分の身の回りまで色あせてしまうようなそんな感覚。報道とネットのパニックは自分の心もすっかり巻き込まれてしまい必要もないのにニュースを見続けるようになってしまいました。消せば毎日の暮らしに戻れると思いながらもやっぱり情報の遮断はできず。そして福島第一原発の事故がおき、付近の住民だけでなく首都圏の人たちもそして自分までパニックに陥りました。
ある日の報道でした。原発事故のため避難指示が出た地域の老夫婦が、自衛隊の隊員の説得に応じることなく住み慣れた家に留まる姿でした。防護服の自衛隊員と普段着の老夫婦。そして夫が病人で看病があるからここから動けないと言っていました。この報道をみて今までの津波の衝撃的な映像、原発の科学的な言説とは全く別次元の印象を持ちました。その印象は旅を終えるまでわかりませんでした。

●出発の決意

僕の勤務している病院とは別の職場ですが、地元で信頼できる看護師の原田さんと、作業療法士の吉田さんに自分の考えを打ち明けました。原田さんは、阪神淡路大震災の時すでに看護師として神戸の町で働いていた経験もあります。しかしそれ故に心には暗い影があることも知っていたので、一緒に震災の支援をすることを言い出すのはとても迷いました。4月上旬のことでした。まだその頃は震災後、町の機能は回復していない状況でしたが、報道される福島、特に原発周囲の状況には心を痛めました。自分の職場からも宮城県への派遣はありました。僕らは個人のチームなので組織的な援助が受けられない場所へ行こう、そして福島県の南相馬市に行こうと僕が話しましたが、放射線の事もあり不安な思いでした。

悩んで悩んで、僕も妻に打ち明けたところ
「呼ばれてもないのに何で行くの」
「ただ見物したいだけじゃないの」
「子供も小さいのにちゃんと考えてよ」
「勝手に行っても何もできないでしょ」とごもっともな意見。僕も自分の中で
(ただヒーローになりたいだけなのか)
(縁もゆかりもない地に一体何をしにいくのか)
(自己満足な活動をしてなんになるのか)とも迷いました。
また職場の病院からの派遣ではないので、休暇として行くしかありません。上司に相談したところすぐに快諾してくれました。「福島へ行くなら仕事を辞めろ」などとつまらない事は一切言いません。

そして、準備を始めました。それまでの報道やネットでの情報から、現地での医療活動はある程度充足しているだろうと考えていました。外傷の患者よりも、慢性の内科系患者が多い事、原発の20-30km圏内なので、入院での治療が制限されている事がわかりました。それでも南相馬市は市長が震災の直後youtubeで映像を流し世界の100人にも選ばれていました。津波の影響が少ない市街地は行政機能も残っている事から、ホームページから宿泊、食事も可能である事も分かりました。

僕はテントで野営とか野宿ができないので、(軟弱・・・)きっと地元の旅館は客がいなくて困っているのではと思い、「もりのゆ」という旅館に電話したところ案の定客足が途絶えている事が分かり予約しました。3人で各1部屋ずつという一番喜んでもらえる予約をしました。また避難所の人数管理も連日アップデートされている事、市内の店や病院の状況を把握している事から、個人で急に避難所へ行っても相手にされないと直感的に予想し、南相馬市立総合病院へ電話してみました。すると院長の金澤先生と直接電話で話す事ができました。診療の手伝いとそして、慰問演奏を一緒にしたいと話しました。
物資は十分充足している事、個人で運べる量は知れているのでお土産のようなものだけ持って行く事にしました。また音楽はギターを担当する看護師の原田さんと僕で一度神戸で練習しました。曲は僕が弾きたい曲と、みんなが歌える曲を選びました。
葉加瀬太郎 エトピリカ、情熱大陸、ひまわり
いきものがかり ありがとう
坂本九 見上げてごらん空の星を、上を向いて歩こう
千昌夫 北国の春
唱歌 春の小川、ふるさと
子供の歌 となりのトトロ、ドラえもん などなどです。
避難所にいらっしゃる方々の年齢層が分からないため色んな曲を準備しました。

出発の前日に副院長の及川先生から電話がありました。避難所での診療の手伝いだけでなく慰問演奏を期待してくださっている事、町の避難所連絡会議で僕らが避難所に伺う事を事前に話してくださっていました。

すでに地元の連絡会議が定期的に機能していることから、行政のガバナンスが機能していると予想しました。そうなると、いくら善意の個人でも勝手に行動しても地域の人達に受け入れられる保障はないどころか、敬遠されると言うことを想像しました。

●出発の日


  こうして準備が整い、僕もとうとう家族からの応援を得て出発しました。20110506_90839 荷物が多いため水戸の友人に予め送っていたので、神戸空港から茨城空港へ行きレンタカーで福島へと向かいました。茨城県を車で走ると屋根をブルーシートで覆っている家、墓石が倒れているところを何カ所も見て地震の被害を初めて見ました。Th_img_0686_2 道中の高速道路は問題なく通行できて、そして福島市内へと入りました。ほとんど家の壊れたところもなくガソリンスタンドも開いていて、レギュラーガソリンの価格は神戸よりも安いほどです。そこから国道115号線を東に向かいました。途中放射線量の高い飯舘村を通りましたがその風景はとてものどかで放射線は全く見えず、におわずどういうものなのか分からなくなりました。報道される放射線の恐怖と、この車窓に広がるのどかな風景とが全く一致しないのです。吉田さんは放射線を嫌い空調を止めていましたがほとんど意味ないだろうなあとつくづく。それよりも花粉症の方がつらそうでした。通りすぎる車のほとんどは特殊車両でした。Th_img_0690

こうして8時半に神戸を発ち、水戸で寄り道したため17時に南相馬市立総合病院に着きました。通りすぎる車が警察や自衛隊の特殊車両で物々しい雰囲気に包まれていました。Th_cimg6834 病院に着くと、院長の金澤先生、副院長の及川先生とお会いしました。初めて会う僕らをとても丁重に迎えてくださって恐縮するほどでした。
「よく来てくれましたね」「避難所の皆さんも楽しみにしていますよ」「南相馬の現実をよく見ていってくださいね」Th_cimg6838
病院は一次救急の軽症の患者を救急外来で診るだけと診療を制限されていました。病院には2名の医師しかいませんでした。それでも看護師、事務、放射線技師の方々のチームワークがよい事は一目で分かります。20110506_90948 みなさん悲愴な顔で過ごしていると勝手に思い込んでいましたがちがいます。

病院を後にし、宿泊先である原町の「もりのゆ」に向かいました。津波の影響で流された地区とそうでない地区との差が歴然としていました。原町町中では建物の被害もほとんど目立たずむしろ茨城県内の方がずっと壊れている家を見るほどでした。Th_cimg6839 それでも店の半分以上は閉まっていました。コンビニを除くマクドナルドやCOCOsといったチェーンは軒並み閉まっていました。個人の商店は開いているところが多かったです。町中を見渡してみても半壊、全壊している家はほとんどわかりません。Th_cimg6845 「もりのゆ」の近くには桜が見事に咲いている公園がありそこでしばし桜を眺めてから「もりのゆ」の方にお話を聞きました。Th_cimg6842 原発の事故以来一次は避難していた人たちも続々と戻っているとの事、大浴場を200円で提供していると話していました。ある日、フロントに大金を差し出して、これでこれからやってくる避難所の人たちの入浴料にしてくださいと言う方がいらっしゃったとか、何百人もの方々の入浴にあてられたと聞きました。現地では報道と違い影の部分も良く分かります。連日備え付けのボディーシャンプーがなくなっているだそうです。入浴している人たちが持って行ってしまうんだそうです。Th_img_0705

そして、地元で食事をしました。カレーとラーメンだけのメニューですが十分。店はいつもの常連客で賑わっていました。よくある客が店員のように働く居心地の良い店でした。Th_img_0707 その後は、一度もりのゆに戻りました。原田さんとはほとんど一緒に練習ができていなかったので、フロントのおばちゃんに、「どこかで音出しできますか?」と聞くと「普段宴会場のところでどうぞ」と練習スタジオまで調達できました。ありがたい限りです。いきものがかりのありがとうをそこで初めて合わせました。楽譜のチェック、曲順のチェックが進む中来ました。余震。わずかな時間でしたが揺れました。滞在中はこの1回限りでした。身体に感じた余震は。練習を終えると、もりのゆの隣にあるフルールという和風スナックへ行きました。Th_img_0708 そこでも地元の方々の話が聞けました。毎晩のように来ているお客さんのようです。
「原発の事故直後に多くの人たちが避難させられた」
「どんどん最近は戻ってきている」「信じられないほどの揺れだった」
「わたしは避難せずずっとここにいた」「ビールだけは集配してくれない」
とにかく隣の相馬市までいろんなものを買い出しに行かなくてはならないと話していました。それでも5月になれば物流も整うと思いました。このスナックではすっかり長居してしまいました。原発への怒りは大きく、客もママさんも(と言ってもかなりの年配)口々にそのことを話していました。また丁度20km圏内立ち入り禁止になった時でしたが、地元に人たちによると空き巣が多く、立ち入り禁止にしないと治安が悪すぎると困っていました。このスナックは「初診(初めての客)2000円、再診(なじみの客)1000円」という安い明朗会計な店でした。和風スナックがなんで和風かはさっぱり分かりませんでしたが、確かに突き出しの和食はおいしかった。焼酎のお湯割りは毎回濃さの変わるいい加減ぶり。それでもとっても居心地がよい。
夜も更けてきました。もりのゆの部屋に戻ると次の日に備えて眠りにつきました。

その2につづく

| | コメント (0)

2011年5月 1日 (日)

南相馬市便り

4月24日から4日間、震災、津波そして原発に揺れる南相馬市へ行ってきました。毎日診察と、そしてギターが弾ける看護師さんと一緒に演奏活動をしていました。葉加瀬太郎の曲、松田聖子の赤いスイートピー、千昌夫の北国の春、春の小川、ふるさと、上を向いて歩こう、見上げてごらん空の星をなどです。一緒に歌える曲もたくさん用意しました。

Cimg6849

津波で何もかも流された所と、残ったところくっきり分かれます。南相馬市は市の中枢は全く津波の影響がないため、町の様子を見ていてもなかなか震災の影響を探すことは難しいです。それ程までに津波の影響は大きいのです。くっきりしたコントラストに驚きました。町中が津波で壊滅した宮城、岩手とは全くちがう町の様子です。
Cimg6832

原発のため多くの人たち、特に子供を抱える家族は県外に避難しています。「子供のためには疎開がよい」って皆頭では分かっているんです。でも「家がないよりも仕事がない方がずっと大変」「家族がこの不安定な時期に離ればなれになること」が簡単に割り切れる問題とは言えません。

また恐らく風向きの影響でしょう、放射線の線量は、この福島第一原発から真北に20-30kmの南相馬市原町は、ずっと離れた福島市、郡山市よりもずっと線量が低いという状況です。県が連日発表する線量を見て続々と住民の方々が帰ってきていました。

町の居酒屋はぽつぽつ開き、ホテルもがらがらですが営業しています。地元のお店を潤す。これも支援と軟弱な自分をとがめながらも、宿を取り、風呂に入り、地元のお酒を飲んでいました。また市内に4カ所ある避難所を全て毎日回ることができました。すでに震災から1ヶ月半、3月の見通しの暗い時期と異なり、物資はそろってきましたが、人々は避難所での生活に疲れてきています。またボランティアも行政が管理し、「心のケア」を称する怪しい団体も出入りするようになり勝手なボランティア活動は毛嫌いされます。
僕は全くコネクションのない地域でしたが勝手に予め南相馬市立総合病院の院長先生と電話でお話しし、着くなり病院へ向かうと、副院長の先生も暖かく迎えて下さいました。おかげであちこちの避難所に事前に連絡して下さりとても円滑に活動をさせて頂きました。

Cimg6845

ボランティア、支援と言うよりも、「どうか南相馬の現実を見て勉強して下さい」という地元の方々の温かい心に自分が育てられたような気持ちになりました。そう心を慰められたのはもしかしたら僕らなのかもしれないと避難所に行くたびに感じました。

Cimg6868_2

連日のように放映されるこの南相馬市を含めた、原発から20-30kmの大変な方々。組織的な支援を受けにくく、また多くの人たちから放射線の影響を必要以上に恐れる余りこの町の皆さんはとても心が傷ついています。心のケアとは言っても医療職の専門的な知識でもどうしたらよいのかと悩むことも多々ありました。

震災と津波で家族を亡くした悲しみ。
家と仕事を津波に奪われた悲しみ。
そして、原発で家を追われ、日本で最も危険な町として記憶され棄民された怒り。

音楽の力はわずかです。でも「ああ、あの人昨日も来てくれた人だ」という安心感が避難所の人たちの心をほんの少しだけ開くことができます。色んな事を教えてもらいました。どの避難所でもさあ、話しましょうでは全く話しは始まらない。さりげないいつもの診察の対話からぽつりぽつりと語りが始まる。自分が体験した事を本当に聞いて欲しいと思っている方も多かった。そしてどなたも「まあ、神戸。えらい遠くからありがとうございます」「いつの日にか今度は神戸で何かあれば私らが行きます」とおっしゃる方が多く、「じゃあ、いつの日にかお願いします」と返事して来ました。

Cimg6850

なぜ自分が家族の反対を振り切ってまで、南相馬市へ行こうとしたのか今でもまだわかりません。一緒に行ってくれた看護師の原田さんと、作業療法士の吉田さんがいなければきっとできない旅でした。感謝しています。(ちなみに原田さんと吉田さんは僕とはちがう職場です) 旅を振り返って今考えています。あの地での人々の震災の不条理な悲しみは未だ癒える事なくさらに原発への怒りが加わる。そして見捨てられたと無視される怒りが加わる。南相馬で感じた人々の感情はこれらが足し算されたものではなく、怒りが主となった感情でした。「原発は人災」「原発さえなければもう町は復興できる」と口々に話していらっしゃいました。 大変な状況である事は百も承知です。怒りが人を支配する時、人はどう生きるのだろう。臨床の経験からも「あの医者にこう言われた」「あの病院からこんな仕打ちを受けた」と怒りを話す方は、うつにはなりにくい。怒る力が疲労で枯渇するこれからが、南相馬の方々の心に大変な問題を引き起こすと直感しました。悲しみをケアするより、怒りをケアするのは難しい。震災と津波で受けた心の悲しみを、原発への怒りが覆い隠してしまいそれが今を生きる力になるとはとてもつらい現実。悲しんでいる人はエネルギーが枯渇し、怒っている人はエネルギーがなくなるまで放出し続ける。きっとそれをケアできるのは仕事の回復だと思いました。生産的な活動を始める事。短い期間だけ南相馬の人達にかけられた言葉は、名刺をお渡しして「あなたの事忘れません。この生活もいつか終わるはずです。その時までどうかお元気で」でした。皆さんを手を差し出すと必ず握り返してくれました。最早物資、音楽や降圧剤は気持ちを交わすための触媒に過ぎませんでした。 町中の建物は壊れた箇所も少ないのですが、そこに住む人々の心の傷は見えないけどまだまだ傷だらけです。そしてその傷は原発のため深くなっていました。 ほんのわずかな時間のほんのわずかな活動でしたが、神戸に帰ってきてからもお会いした方々の顔が毎日思い浮かびます。僕の心の中では時間が止まったかのように震災以降固まっていたところが、結局は実際に被災された方がとお会いし、対話することで再び時間が流れ出しました。またいつの日にか伺いたいと思います。

| | コメント (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »