「毎日の色を守ること」子供がパニック障害、ひきこもり、登校拒否になったとき、親はどうしたらよいのか。
最近、ある方から「思春期の子供がパニック障害でなかなか学校へ行けない。家族はどういう風に接したらよいのだろうか」という相談を受けました。この親御さんはお子さんが学校へ通えないことで本当に心を痛める毎日を送っておられることでしょう。相談は続きます。「子供は毎日、『退屈だ』『しんどい』と話します。親としてどう子供に接したらよいのでしょう」
僕は内科、緩和ケアの仕事を毎日しています。日常の診療はがんの患者さんがほとんどです。がんの患者さんも精神的な問題を抱えることはとても多く、同僚の精神科医から毎日色々と教わっています。しかし、精神科のトレーニングをうけておらず、また思春期精神障害については一般的な知識しかありません。「僕は専門ではないので・・・ちょっと・・・」と答えるのは簡単ですが、少なくとも、この親御さんにとっては相談相手は僕以外ないのですから、相談されたからには、普段の診療活動を応用して考えてみようと思いました。専門ではない自分があれこれと思いつきで指南するとことで、かえって状況が悪くなるかもしれないとも思いましたが「そうですねえ、」と話し始めました。話しているうちに、心のどこかで『あれ?こんな風に話したことが以前にもあった』と昔のことを思い出しました。
その時のできごととはこんなことです。僕が以前、郡部の病院で働いていた頃は、自分の専門分野だけ診療していればよいという状況ではなく、内科医としてあらゆる患者さんに対応する必要がありました。内科の一般的な患者さんを診療していると、精神的なことが原因で身体の調子を悪くする方にもたびたび出会いました。この病院では、「自分は専門外なので」と診療の前に患者さんをお断りする余裕はありません。まずは診療してみて、それから考えるというのが普通の対応でした。この町には主要な国道から少し離れた場所に精神科の病院がありましたが、ひっそりとしたこの精神科の病院に行くことは、この町の人たちにとっては少し抵抗を感じることだったのでしょう。ということで、患者さんは何かしら身体や心に変調があれば、まずは内科を受診するのが普通でした。そんな中には、若くして精神に変調を来している方も少なからずいらっしゃいました。また夜になるとパニック障害で過換気になり自分で収めることができず救急外来に来る方患者さんも時々診察しました。
僕はこういう現場での必要に迫られる形で本を読み、精神科の疾患についてできる範囲で独学を始めました。こういった精神的な変調を来していて、毎日の日常生活を生きづらく過ごす人たちにどういう接し方をしたらよいのか、本を読みながら見よう見まねで学んでいきました。時間はかかりますが、試行錯誤しながら患者さんと一緒に考える姿勢で診療をしていました。「私が何とかします!」とは患者さんに言うことはできず、「私でできることはやってみましょう」と前置きしていました。
パニック障害の主婦、軽症のうつ病の営業マン、アルコール依存症の作業員、ダウン症の子供を持つ母親、それぞれの方々は、症状は軽くても生きづらく、それでも懸命に毎日を暮らしていました。みなさん「なぜ自分がこういう状況になったのか」という問いを繰り返していました。
こういう患者さんが何かがきっかけとなって数日間だけ入院するときには、普段の外来診療とちがい、患者さんだけではなく、ご家族ともお会いすることができます。家族もまた患者さんとどう接してよいのか悩んでいました。そして「なぜ自分の家族(患者さん)がこういう状況になったのか」と家族もまた同じ問いをくり返していました。こうして知り合ったご家族の事情を聞いていると、当然個別の面談が必要となることもあり、患者さんとは別の時間に外来に来られることもありました。そんな時には僕はいつも、「なぜこういう状況になったのか」をひもとくことは一切せず、ご家族と一緒に「問題を抱える家族(患者さん)とどう接したらよいのか」を考え続けました。なかなか名案は思い浮かばないのですが、ご家族との対話を通じて色んなことに気がつきました。家族は、患者さんを思う気持ちを強く持っていると同時に、患者さんの以前の元気で輝いていた時を記憶しています。どうにか自分の家族(患者さん)が今の苦しみから抜け出してほしい、あの時のあなたに戻ってほしいという思いが大きく膨らむ。今の状況を受け入れてありのままの自分の家族(患者さん)を見つめることができず、つい成果を求めて「ああしてみたら、こうしてみたら」と声をかけてしまう。でも患者さんの手を引っ張っても、患者さんは立ち上がらず、事態は動かずかえって悪化する。つまり「焦って、見張る」構えにどうしても陥ってしまうのです。そうではなくやはり「信じて、見守る」ことが一番よいだろうとは誰もが考えているのですが、それはなかなかできないことのようでした。
「焦って、見張る」ではなく、「信じて、見守る」の構えになるにはどうしたらよいのでしょうか。「信じて、見守る」生活というのはどうしたら作れるのでしょうか。
少し関係のない話をします。僕の息子たちは小学生です。彼らには、たとえば「待ち合わせしたらその場所から動くな。親が探すから」と常々話しています。迷子になった子供は親を探して動き回ります。でも小さい子供は経験が少ないので、勘が働きません、きっとママならこうするかなとか人の考えることを想像して行動するということはできないのです。ですから、いつも「動くな」と約束します。それでも息子たちは動いてしまうので、事態は悪い方向へ向かいます。どこを探しても息子たちは見つからず、気がついたら一人で家に帰ってしまうこともありました。「動かず信じて待つ」ことがどれだけ気持ちが焦ることか、息子たちをみているとよくわかります。
パニック障害やうつ、引きこもり、登校拒否といった子供たちをもつ親は、反対に今度は自分が「動かず信じて待つ」番なのです。こういう子供たちは、僕の経験から感じることは、普通の人以上に周りから刺激を受けてしまい、色んなことがうまくいかなくなるのではないかと考えています。「え、どうしてこんなことで」と周りの人が考えるようなことでも、その子供たちにはいろんな事情で刺激を受けすぎてしまうのです。小さな刺激でも大きく感受してしまう。アンテナの感度が鋭い。時には妄想ではないかと周りの人が思うほどです。でもどれだけ考えても感度が鋭くなることに理屈は見つかりません。どうしたら刺激を減らせるか、どうしたら受けた刺激のショックを自分で軽減できるか。色んな作戦を考えるのですがなかなかうまくいきません。うまくいくことはあっても、三歩進んで二歩下がる少しずつの前進です。
「親が一緒なら外出できるかも」
「教室じゃなくて運動場の体育なら授業が受けられるかも」
「2駅向こうまでなら電車に乗れるかも」
「いじめがなくなれば大丈夫かも」
その子の周りの何かが変われば、その子自身の問題も解決するのではないか?
周りの状況だけが原因であることはなく、やはりその子自身の刺激の受け止め方や、周りの人達との付き合い方が変わらない限りは、なかなかつらい状況から抜けられない。まるで、天動説(=周りが変わった)、地動説(=自分の心が変わった)のような関係です。ですからどれだけ天の動きを変えようと試みてもやはりうまくいかず、三歩進んで二歩下がるのです。
その子供自身の心(=地)が変わる以上、その子供の心(=地)が自分自身で変わっていくことを信じて、周りの人達つまり家族(=天)が変わらないようにすれば「信じて、見守る」ことができるのではないか。「動かず信じて待つ」暮らしを続けることで、その子供によい影響があるのではないか、自分の普段の臨床経験と、生活の実体験からそんな風に考察してみました。
そんな暮らしとは、毎日の色が変わらない暮らしではないでしょうか。つまり、毎日の朝ご飯の時間、寝る時間が変わらない、月曜日の午前は仕事に行く、木曜日の午後は趣味でテニスに行く、金曜日の夕方は買い物して帰るとだいたい午後6時前に家に着く。毎日退屈に同じ一日を過ごす必要はないのです。月曜日はこういう風、火曜日はこんな風・・・と毎日の色ができるような暮らしを送る。皆さんもきっと知らず知らずのうちに曜日によって心の中で流れる時間に色があるのではないでしょうか。生活と共に移り変わる色が。その色を心のどこかでいつも感じているからこそ、時計がなくともだいたい何時ぐらいか分かる。この一見退屈な暮らしが、刺激を必要以上に受けてしまう問題を抱えた子供たちを見守るには大事なものなのではないでしょうか。きっとこの子たちも「退屈だ」「しんどい」と言いながらも、毎日の時間の流れ、毎日の色にさらされることによって、心が落ち着き、自分を取り戻す過程になるのではないか。こういう生活、ルーチンな生活を家族がおくることが「信じて、見守る」ことなのではないでしょうか。いつの日にか子供から「今日は水曜日なのに早く帰ったね」と声がかかれば、その子供の心にはすでに毎日の色が映っています。子供の周りが毎日の色を守り続けていれば、子供には帰る場所ができるのではないでしょうか。すぐには帰ってこれなくてもいずれ帰ってくるそんな気がするのです。思春期の子供は身体も精神も急速に成長します。その成長に戸惑っているのはまず自分自身でしょう。自分が変わっていくことは喜びよりも恐怖です。「ああ、自分も大きくなったなあ、成長したなあ」などと、親のように感慨深く自分を見つめている暇はないのです。濁流の様に流れる時間と、変化する自分に戸惑い、フリーズしてしまう。その変化に順応するまで、周りの景色、つまり親も含めた家族の毎日の色が変わらないことは、変化に恐怖を感じている子供にはいつの日にか安心を与えるのではないでしょうか。
問題を抱えた子供を持つ親にとって大事なことは、子供の退屈をまぎらわすために、気分転換と称して映画に連れ出すことでも、子供の勇気に力を加えるために、訓練と称して苦手な事に向き合わせることでもないと思います。子供の抱える問題を詳細に分析し、ストレスの原因を突き止めることでもありません。ましてや、親として自分自身の生き方や育て方に原因をみつけて、必要以上に苦しむことでもありません。ただ、毎日の色を固守して、平凡で退屈な暮らしを努力して送ることが、僕には大切なことだと思えるのです。
そして、一つ注意として覚えておいてほしいことがあります。それは、親と家族が作り出す毎日の規則正しい色にその子供を巻き込まないことです。
「私は毎朝6時半に起きることに決めた。あなたもそうしなさいよ」
「お風呂は9時半までと決めたんだから、あなたも守ってね」
「夜は、12時までに寝ること、いいわね。私もそうするから」
親の努力に余裕のない子供を巻き込んではいけません。親は自分の努力を子供に認めてもらおうと、「私だってがんばっているだから(あなたもがんばりなさい)」と決して言ってはなりません。子供が自然に家族の作り出す毎日の色に溶け込むまでは、無理に規則正しさを強いれば、かえって状況は悪化するでしょう。
僕の話は、実際にパニック障害になった子供を抱えて、今まさに困っている人達にとっては呑気に聞こえるかもしれません。そんなやり方で今の問題が解決するわけがない、と深い悩みを持つ方々には無神経にも聞こえるかもしれません。それでも僕は自分自身の臨床経験から、この「信じて、見守る」生活への構えが子供の心をいつの日か鎮めることができるのではと信じているのです。