« 南相馬便り (詳細) その3 | トップページ | 「全部つながっているのよ」 »

2011年5月 6日 (金)

南相馬便り (詳細) その4

●朝の散歩
こうして、僕らの南相馬での活動は終わりに近づいていきました。4日目の朝が来ました。とてもさわやかな朝でした。もりのゆの近くを一人で散歩してみました。避難所に指定されていない中学校がありましたが、学生は全くおらず学校には満開を過ぎた桜の木がただ静かにたたずんでいました。4月の最終週、南相馬の小学校と中学校の子供達は、道の駅(だったと思います)に集まり観光バスで集団登校し相馬市の学校で授業を受けていました。原発事故による放射線の影響を避けるためです。相馬市までバスで30-60分の道のり。ですから、今でも避難所になっている小学校や中学校は、授業を再開する子供達のために明け渡すことなくずっとその生活が続いていました。

放射線は見えず、聞こえず、におわず。僕も4日間いるうちにマスクもせず普通の姿で道を歩きます。慣れてしまうのです。20110506_130004 知覚できないものの恐怖や意味が全く認識できなくなってきました。ここの住民の方はよけいにその感覚を身体で感じると思います。県外に避難している方々も多く、また仕事をするために父親だけ南相馬市の避難所に単身赴任している方も増えてきました。放射線の恐怖も時間と共に麻痺してきます。また連日発表される放射線量も郡山や福島市よりも低いことが分かります。低レベルの放射線を長く被曝することの健康被害についてはまだ人類はほとんど経験がありません。ただ「あっちよりもまし」という一見科学的な判断で南相馬市に戻ってくる人も増えてきました。絶対的な放射線量よりも相対的な「あっちよりもまし」が余計に判断を狂わせます。人類初めての経験をする以上は、政府であれ、東電であれ、雑誌のNatureNew England Journal of Medicineの論文やeditorialであれ、国内外の著明な専門家であれ、「あなたはここに住んで大丈夫です。戻ってきてよろしい」と誰も力一杯言ってくれないのです。

自分で調べて、考えて行動するしかない。自分のリスクマネジメントは他人に預けてはならない、その事を出発前から考えていました。

こちらに来る前には、南相馬市に来たら空を見上げて、「南相馬」「フクシマ」「福島第一原発」というテレビや雑誌から切り取られる記号化された被災地ではなく、自分の感じたその地の空がどうなっているかを体験しようと思っていました。そして、空を見上げてみました。20110506_162015 そこには青い空と白い雲。当たり前風景ですが自分が見慣れたいつもと同じ風景が広がっています。自分と地震、津波、原発をつなぎとめる何かがやっと見えた気がしました。どれだけネットで情報を得ても、どれだけ人のブログをのぞいても、どれだけ新聞を読んでも、テレビを観てもわからないこと、結局はそこに住む人達と話し手を握りあいお互いを感じあうことでしか、南相馬の空は見えてこないこんな当たり前のことが分かりました。それは出発前に感じていたことと同じでした。

●南相馬総合病院

さて、出発です。最後の日は南相馬市立総合病院で演奏をします。いつものようにコンビニで朝食を買い出かけます。病院に着くと、事務の方々が待合室のイスを動かして演奏場所を作ってくださいました。皆さん、会計を待っている間に演奏を聴いています。20110506_130048 副院長の及川先生がとてもとても丁重な紹介をにこにこしながらして下さいます。僕からも挨拶をとうながされ、ただ一言「神戸から参りました医師の新城です。たった4日間しかいられなくて本当に申し訳ありません。皆さんのことは忘れません」とだけ話し演奏を始めました。

どこの避難所でもそうですが、演奏者と目を合わせながら大きな声で歌う方はほとんどいらっしゃいません。皆さん気恥ずかしそうに歌詞カードに目を落とし、自分の口元で歌詞をくちずさみます。20110506_130157 音楽のボランティアで気をつけていることがあります。無理に演奏や活動に皆さんを巻き込まないことです。自分たちが楽しそうに演奏している姿とエネルギーを皆さんに音と共に届けるこういう心構えが僕は必要だと思います。慰問演奏をしていて一番楽しんでいるのは他でもない自分なのです!原田さんと一緒に合奏し自分の気に入った曲を弾くのがとてもとても楽しいことなのです。皆さん、僕の楽しみにお付き合い下さりありがとうございました。(ひまわりや赤いスイートピーは僕の好みです)

仲良くなった事務の方と写真を撮り、午前10時に病院を出発しました。20110506_130229 帰りに津波の被害を受けた場所をもう一度通ってみました。多くの自衛隊の方々が瓦礫の撤去のために働いていました。交通整理も誠実そうなまなざしです。20110506_130258 迷彩服を着て遠くから見るとその異様で非日常な状況に人の心には恐怖を生みます。でも近くによって話せばみんな顔がちがいます。昨日トイレであった防護服の警察官もそうです。昨日夕方にケガをして南相馬市立総合病院であった警察官や自衛隊の方もそうです。みんなみんな名前のある同じ志を持った人達なのです。その事もとても良く分かりました。

AERAで震災直後「放射能がくる」とわざとショッキングな表紙で購読者の恐怖と好奇心を喚起しました。それには多くの批判があり、実際に連載を打ち切ったライターもいました。でも僕は思います。あの表紙に写った防護服の男性。その方にも名前があり家族があり使命がある。表紙の彼という人格を今の僕はちゃんと感じることができます。

また最初に書いたあの、防護服を着た自衛隊と、原発事故の避難地域から動こうとしない老夫婦の報道。あの時に感じた報道の異質さがやっと分かりました。

あの報道では、自衛隊の隊員は一生懸命に老夫婦に語りかけます。Img_284242_28334618_3jpeg 居丈高に「ここは避難地域である。即刻立ち退きを命ずる」という口調ではないのです。心配して、「ここにいると危ないから、どうか一緒に来て」と人として老夫婦に一生懸命に話しかけていました。被災者も援助者も同じ人。その人と人との対話を自分は感じていたのだと全てがつながっていきました。

そして視界には高台にある原町火力発電所が見えました。鉄塔が倒れていました。20110506_130629 Youtubeでみた津波の映像が思い出されます。その映像でも「あー俺の車が!」と話しているのが聞こえます。そうなのです、圧倒的な恐怖と起きている事態の大きさが理解できないとき人は日常の言葉でしか語れないのです。難しい言説や、専門的な発言よりも、等身大の自分の言葉でしか理解をすることができないのです。僕にとってもそれは同じでした。どれだけ背伸びをしても出てこない言葉。飾った言葉。技巧的な言葉。全てが自分から出てこなくなりました。「自分の等身大の言葉で、自分の感じた事を文字にする」ことしかできないと自分に謙虚になりました。

帰り道に、何か土産をと思いさがしました。妻にメールしました。「放射線がいやでなければ相馬のお土産買うけどどう?」と書くと、「別にそんな気にすることないんでしょ?放射線。せっかくだから相馬のお土産希望です」と返事がありました。夫のリスクマネジメントを信用していることに僕はとてもうれしく思いました。

相馬市の道の駅によると、朝子供達を送っていったたくさんの通学バスが並んでいました。そこでは「津波で家を流された。でも一生懸命仕事をしています。おいしいから食べてみて」と海道物産の青のりの佃煮と、ふりかけを売っているおじさんに出会いました。あまりのおいしさに買い込みました。でもこの会社はgoogleでみても津波で流されています。今後どうするのでしょうか。またお取り寄せしたい。20110506_131051

車で長時間運転し、朝10時に南相馬を出発し、16時に茨城空港に戻りました。僕らが計画を立てている間に仙台空港も復旧しました。仙台空港からなら南相馬は近い。本当は茨城空港からもまっすぐ北上すれば近いのですが原発があるため通れません。レンタカーを念入りに洗車してから、飛行機で名古屋を経由しおいしい夕食を食べみんなで打ち上げをし労をねぎらった後、神戸に戻りました。時間は夜の10時を過ぎていました。家に帰ると家族はいつも通りに僕を迎えてくれました。

こうして、僕らのたった4日間のボランティア活動が終わりました。結局自分たちが一番学ばされたのです。南相馬市の温かい人たちが僕らにいろんなことを勉強させてくれました。このことずっと忘れません。5月の連休が過ぎようとする今、きっと南相馬市にはどんどん人が戻り町の機能も回復していることでしょう。

「原発さえなければ、この町はとっくに復興している」皆さんが口をそろえて話していたことです。家が残ってなお避難している方々、家がなくなってしまった方々、南相馬を後にして別の地で生活を始めた方々、どなたにも等しく平穏が訪れますように。祈ります。

「震災、津波は天災、原発は人災」これも皆さんが口をそろえて話していたことです。原発を人災とすることで人々の怒りと悲しみを全て引き受けることになった原発と東電。そしてそれに関わる政治家や多くの技術者。しかし、南相馬市(鹿島、原町、小高)の人達も原発に深く関わっている方々がたくさんいます。つまり人災の一端は彼らの身内にもあるのです。彼らのこの複雑な悲しみと怒りがどう癒えていくのかその事だけは僕にはわかりませんでした。それでもきっと少しずつ毎日良くなります。根拠のない確信ですが、僕は南相馬の空を思い出して今本当にそう思うのです。

●帰ってきてから (追伸)

 帰ってから、すぐに日常が戻ってきます。そして僕の中の時間もまた動き始めました。ある朝新聞を読むと、足の不自由な母娘が避難地域に戻れないという話しを読みました。(ああ、あの方だ)すぐに思い出します。たぶん、いやきっとあの方だ。そして胸が熱くなりました。(この方々は僕が避難所へ行ったときも、雑誌社の方も同時に取材を受けていました。一緒に写真を撮ることも、話しを書くことも了承してくれています)僕の時間が動き出すと同時に、あの場所の時間も確かに動いているんだ、僕の心の中では南相馬市での出来事は一旦止まってしまったけど顔を知っている、一緒に同じ時を短い間でも過ごすってこういう事なんだとまた違う時間が動き始めました。またお会いしましょうね。

 

|

« 南相馬便り (詳細) その3 | トップページ | 「全部つながっているのよ」 »

コメント

お疲れ様でした!。いろいろな地元の人声も全部を拾って。。奥さんへのお土産のオチは読む人のサービスかな!。でも続編が希望されたらまた行かないとですよ(^_^)
いつかまた会えますね、(`_´)ゞキリ!!

投稿: 井上雄介 | 2011年5月 6日 (金) 14時02分

東京在住ですが、地元が南相馬市で、先月頭に帰省しました。南相馬市に行かれたという事に何だか嬉しくなってしまい、書き込みさせて頂きます。
私にとっての震災は、何とも言えないものです。
見慣れた土地の風景が変わってしまって、自分の目で見ても半分受け入れられずにいます。
でも、地元で頑張っている人達と触れ合った事で、すごく救われました。
やっぱり、その土地に行って、そこの人達と触れ合う事って、大切ですよね。
今現在でも自分の中で葛藤があります。
いくら向き合っても答えが出せずにいますが、焦らず、自分にとっての最善を尽くせればと思っています。

文章から察するに、新城先生はまた行かれるのでしょうね。
もし、同じタイミングで南相馬市にいる機会があれば、ご一緒させて頂きたいです。
打楽器演奏の経験はありますが、十数年楽器からは離れた生活をしているので、あまり御助けにはならなそうですが、歌ならちょっと褒められる程度には歌えます。

長文失礼しました。
先生の活動、応援してます。

投稿: match_small | 2011年5月 6日 (金) 17時44分

私は南相馬市に住む50代の主婦です。
先生のブログを読んで何故か涙が止まりませんでした。
私の息子は警察官です。4月になって原発の10キロ
圏内に入って行方不明者の捜索活動が始まりました。
福島県警は本部長を含め全警察官が参加してます。
「捜索を待ってる家族がいるから頑張ります。」
警察官としての使命感だけでない電話の息子の言葉を
頼もしく思いました。政府 東京電力への怒りは勿論
あります。でも それだけでは前に進めません。
被災者は3月11日で時が止まったままです。
明日の希望も目標を持つ事もできません。

先生のブログと出会えて救われました。
ありがとうございました。

投稿: | 2011年5月 6日 (金) 22時34分

初めてコメントさせていただきます。
関東在住のものです。計画停電その他で電力が福島で作られていることはまちがいなく実感してはおりましたが、先生の飾らない文章がかえって日常生活が突然いきなり変わることの過酷さを伝えてくれました。
今まで当たり前に暮らしていたことが継続できないつらさがどのようなものか、改めて考えることができました。

網羅的な文章より一個人の感想のほうがより理解できると思えましたし、避難所生活リポートでは個々人の生活実感が切実に伝わってきました。ずっと忘れずに暮らしたいと思っています。

投稿: nainai | 2011年5月 8日 (日) 02時51分

この記事へのコメントは終了しました。

« 南相馬便り (詳細) その3 | トップページ | 「全部つながっているのよ」 »