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2011年5月 5日 (木)

南相馬便り (詳細) その2

  福島県南相馬市で2日目の朝です。この日から2日間は4カ所の避難所を回り午前は診療、午後は慰問演奏をしました。

● 鹿島保健センター

ライトバンで移動し鹿島保健センターへ行きました。Th_img_0711 そこは元々デイケアの施設で毎日保健師の方や市の職員の方が交代で受付をしていらっしゃいます。当初は屋内避難地域だったので、大型のテントが子供の遊び場のため(?)設営されたと聞きましたが、現在は全く使用していません。大丈夫かと思いましたが避難していいる方々の洗濯物も外で干していました。Th_img_0774 床は暖房付きのワックスのきれいなフローリング。建物はとてもきれいでした。皆さんが眠る広めの部屋には20人くらいの布団が並べてあり、80cmぐらいの高すぎないパーティションで仕切られていました。昼間は皆さん仕事にでられるとか、残っている方は年配の方が多かったです。やはり津波で家がなくなった方と、原発のために家へ戻れない方の二通りの方々がいらっしゃいました。テレビの置いてある部屋にはソファもあり、そこには各地から寄せられた飲みものが自由に飲めるように置いてありました。食事は給食が提供され、炊き出しはありませんでした。物流は徐々に改善してある状況でした。

勇気を出して一番最初に目があった男性に話しかけました。
「どこか体で悪いところありますか?」「治療していないヘルニアがあるな」と答えました。とてもにこにこした方で話し好きな方でした。ヘルニアは手術の必要もなく、「これならしばらく様子を見て大丈夫ですよとお話ししました。看護師の原田さんも作業療法士の吉田さんもそれぞれちがう人達に話しかけていました。
ある方は、原発で働いていた方でした。引退してから震災にあったと話していました。避難所にいるのは家が避難地域になったためです。また肺がんのため状態が悪化しつつある方にも出会いました。
「福島県立医科大学に通っているが、今はこんな状態でなかなか通えない」「子供達が自分の所に来いと言うが県外だしここにいる方がみんなもいるし安心なんだな」と話していらっしゃいました。幸いがんの症状はありませんでしたが、やせが目立つ状況でした。食べるものには不自由していないためこの方は見守る人がいる分自宅よりも安心できると話していました。
女性二人と話しました。やはり多くの人達が男女入り乱れて一緒にいるのでいびきもうるさく夜もぐっすり眠れないと。原発のこと政府のこと東電のこと。とっても怒っていました。地震や津波は天災、原発は人災と話していました。

テレビの部屋に戻るとソファにマスクをした女性が座っています。話しかけてみました。「風邪はもう治りかけだから大丈夫」「ここでの生活はどうですか」と聞くと、「ああ、ここはね環境は恵まれている方だと思うの。でも集落ごとのぶつかりやら、若い人達同士のいざこざ、子供の声がうるさいという人もいるのね」「お酒をいつも飲んでしまう人がいて周りの人にからむのよ。それをなだめるのも私たち年配の役目。みんな疲れているのよね」
ここにいる若い人達は僕らと目を合わせないようにしている方も多くいました。「私と話そう」と心が開いている方だけと話しました。心の閉じた方はよそからしかも短い時間来た医師に心を開くことは難しい、むしろ邪魔だろうと思いました。
また明日来ますと話し次の避難所に向かいました。

●石神第一小学校

石神第一小学校へ着き、大きな体育館に入りました。Th_img_0715 そこでは原発のため入れなくなった小高病院の看護師さんが3交代勤務で働いていました。看護師長さんに話しを通しました。「総合病院の及川先生から命じられまいりました」というとすぐに警戒した表情を解いて段ボールで囲われた診療室に案内して下さいました。
各避難所には、以前は諏訪中央病院の医師が回診し必要な物品、薬は全て揃っていました。僕も自前で薬を持っていったのですが全く必要ありませんでした。毎日午前、午後に医師の巡回があり、医師、看護師も十分な状況でした。ここでも自分の診療と言うよりも仕事を総合病院の先生方が与えて下さり、勉強させてくれているというそんな思いになりました。
市の職員の方がマイクで「診察を希望の方はお越し下さい」と話すと数人の方がいらっしゃいます。

高血圧の男性でした。元々高血圧があり悪化した様子。避難所では飲酒、過食はないためストレスも大きい印象でした。薬嫌いの方でしたがお話ししました。
「ここでは夜眠れるの?」「いや、眠れね」(福島の訛りはきつく実は半分ぐらい分からない事もありました)「薬飲もうよ。看護師さん達も心配しているよ」「いや、いらね」と押し問答。

確かに降圧剤を飲むことでこの方の何に役立つのだろう、この過酷な生活の中でなにが改善されるんだろうと考えると血圧を下げることの意味が分からなくなってきますが、「いや、こんな異常な生活もいつかきっと終わるからさ、ここにいる間だけでも薬飲もうよ。な。心配なんだよ」と話すと「わかった」と言って薬を持っていきました。次は人なつっこい女性でした。「頭が痛くてさ、いや昨日も先生には診てもらったんだけど」不安を感じて医者と話したいと思っていることすぐに分かりました。この方は津波で家が流された方。つらい思いを抱えています。頭が痛いのは話しのきっかけで、話しをしたいのです。「頭痛いのか。そっか。ここでの生活も長いの」と聞くと「もう1ヶ月ぐらいかなあ。それでな私の家はな・・・」と続きます。手持ちのロキソニンを渡して「つまらない土産だけど頭痛いときにはこれ飲んでよ」というと「先生あんたええ人。握手して」と言って握手するとすぐにどこかへ行ってしまいました。
途中ひょうが振り出しものすごい轟音に体育館が包まれ、皆さん不安そうでした。大画面液晶テレビの前にはいつも人が集まりニュースを見ています。丁度新幹線が福岡まで開通したニュースが流れていました。
お昼の時間になり小高病院の看護師さん達から声をかけられ、「避難所の給食を一緒に食べよう」と誘われました。3人で頂きました。Th_img_0717 ごはんと野菜、シチューでした。温める電子レンジもあり、昨日の夕食に残ったカレーは、大食いの吉田さんが食べていました。看護師さんも家に帰れず、アパートを借りて毎日通っていると話していました。避難所にいつもいるわけではなく通って仕事をしていらっしゃいました。
また明日来ますとここをあとにしました。

●原町第一小学校

一度南相馬市立総合病院に戻り、院長の金澤先生らと合流し一緒に出発しました。
午後には、まず原町第一小学校へ行きました。ここでも大きな体育館に大勢の方がいらっしゃいました。Th_img_0720 ここは多くの外部の人達、取材、ボランティアが出入りするので、避難している人達もどちらかというと閉じている感じの方々が多いと一見して思いました。金澤先生らは診察を始めました。僕はバイオリンを持ち、看護師の原田さんはギターを持って体育館の前に置いてある大画面テレビの前で演奏を始めました。Th_img_0723 ステージの上よりも下で演奏する方がよいと思いました。音楽が好きな年輩の方々が集まっています。自分の職場のホスピスでもそうですが、音楽の演奏を間近に聴く方、そして自分の部屋で聴く方両方がいらっしゃるのです。みな物珍しそうにしています。あまりしゃべりすぎずいろいろと演奏を始める中、少しずつ人が集まりみんなに歌詞カードを配り歌える曲を演奏しました。Th_cimg6850 他のボランティアの方もふるさとを一緒に歌ったりしました。Th_cimg6852 演奏の途中にヘルメットをかぶり「●●県から来ました。皆さんにマクラを持ってきました。どうかがんばって下さい」とマイクでアナウンスしていました。毎日のようにこういうアナウンスがあるようです。正直盛大な拍手を毎回期待することはできないなと思います。名乗らずそっと置いていく方がいいのになと思いましたし、僕はそうしようと思いました。ただ白衣だけはきちんと着て自分の素性を明らかにすることで安心してもらえたらいいな、音楽を押し売りするような風に思われないといいなと思いました。

遠くから気になる視線もあり、演奏が全て終わって、勝手にアンコールを弾いた後しばらくしてからその人の所へ行きました。
演奏が終わっても食い入るように歌詞カードを見ている方でした。「何か弾いて欲しい曲がありますか」と聴くと最初の女性の方は心が閉じている様子ですが、「ありがとう」を聴きたいとお話しになりリクエストに応えました。吉田さんが、「あっちで中学生の女の子がリクエストがあるんだけど、絶対に自分の場所を離れてはダメだと親から言われているから音楽が聴けなかったという子なんです」と聞きました。
僕らが言った少し前にも若い方どおしのいざこざがあったり、段ボールで囲われた各皆さんのスペースからモノがなくなったりと(盗まれたり)見えないところで色んな事があるのだと知りました。その中学生の子も留守番をしているのでした。3人でその子の所へ行き、リクエストを聴いてみると「千の風になって」を弾いて欲しいと頼まれました。でもこの曲は亡くなった人の話が歌詞になっています。ホスピスでもこの曲は弾かないようにしています。避難所で皆さんに聴いて頂く曲ではない、まして一緒に歌う曲ではないと思いました。かえってつらい気持ちを呼び起こしたり、不快な思いをする方がいるのではないかと。吉田さんにその場所の留守番を頼み、その女の子を入り口の外に案内し、「ここならあなただけのために演奏できますから、ここで弾くね」といって演奏しました。その女の子は演奏が終わるととても喜んでくれていました。「私の恩師がこの曲が好きで、私も好きになったんです」と。

僕らの演奏が終わると、南相馬市立総合病院のリハビリテーションのスタッフの方々が避難所の皆さんと体操をします。

●原町第二中学校

次に原町第二中学校へ向かいました。ここでは、各教室に10-20人前後が寝泊まりしていました。各教室は新聞紙でドアが目張りされ中が見えないようにしてありました。各教室には勝手に入りこめない印象でした。一つの教室が診察室になっており、金澤先生らが診察を始めました。Th_cimg6856 多目的室にはお菓子が並びそこで演奏しました。Th_img_0727 音楽が好きな方が集まって下さりしばし演奏の時間でした。駐車場にはお風呂が設営されていて、お風呂上がりの皆さんが丁度部屋に集まってくれました。Th_img_0731 「ひまわり」「ありがとう」は連ドラでこの1年くらい毎日のように流れていたのできっとご存じかと思いましたがやはり知らない方が多く、「北国の春」「ふるさと」「春の小川」が一番みなさんに喜んで頂けました。松田聖子の「赤いスイートピー」もかれこれ僕が小学校の頃30年前の曲ですが、これ曲でも「先生、これは新しいよ」とおばちゃんたちは口々に話していました。Th_img_0730
中学校の校舎裏の駐車場では避難している人たちの車内に犬やネコの姿をよく見ました。避難所には入れないペットを車内で飼っているのです。動物たちも大変な避難生活です。Th_img_0736Th_img_0737

演奏を終えて町を走ると既に仮設住宅の建設が始まっていました。地元の方に聞くと競争率4倍とのこと、まだまだ数は足りないようです。Th_img_0714 こうして1日を終え病院に戻ると、院長の金澤先生が「少し海の方へ行ってみませんか」と声をかけてくださって、車で海に向けて走りました。その光景はまさに言葉を失う状況で、黒い水が全てを押し流した事が良く分かりました。Th_img_0754 自衛隊の方々も既に日中の作業を終えた時間でした。車、船といった所有者があるものは残されていましたが、もう既に多くの瓦礫は撤去されていました。Th_cimg6858 院長はこの辺りにはたくさん家があった事、自分もよく釣りをしたところもあとかたもなくなってしまったと話し、また震災当日の事を教えてくださいました。その日は外傷の患者がわずかに病院の診察を終えた後、津波にさらわれた人たちが搬送されたそうです。しかしどなたも泥を飲み込んで救う事ができなかったと話していました。Th_img_0757 病院から5分車を西に走るだけで全く違う光景でした。

病院に再び戻ります。毎日1日の終わりにはガイガーカウンターで被曝量を確認していました。全く問題のないレベルでした。(100-150CPM)靴の裏はやはり線量が高く300CPM程度が検出されていました。放射線に過敏になっている吉田さんは毎日きちっと測定していました。南相馬市立総合病院の救急外来受付には希望する方全員の測定に対応して頂けます。でも気にしているのは僕たちだけでした。Th_img_0741

そこからの帰り道、国道6号線の原発から20km地点に行ってみました。何にも景色は変わらないので、警察の検問があります。放射線は何も見えずにおわず。一体どういう存在なのか頭が混乱してきます。
Th_cimg6862

その後地元でも評判の良い鹿島の焼肉屋丸長で食事をしました。この日は僕の40歳の誕生日でした。

その3につづく

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