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2011年5月 5日 (木)

南相馬便り (詳細) その1

先日南相馬市での出来事を書きましたが、記憶のあるうちに詳しく書きとどめておきます。

●震災発生から出発まで

3月11日東日本を襲った大震災。そしてその後の津波の被害。毎日の報道で一体これは何だろうと心の時間が完全に止まってしまいました。信じられない光景に言葉を失い直接の被害のない自分の身の回りまで色あせてしまうようなそんな感覚。報道とネットのパニックは自分の心もすっかり巻き込まれてしまい必要もないのにニュースを見続けるようになってしまいました。消せば毎日の暮らしに戻れると思いながらもやっぱり情報の遮断はできず。そして福島第一原発の事故がおき、付近の住民だけでなく首都圏の人たちもそして自分までパニックに陥りました。
ある日の報道でした。原発事故のため避難指示が出た地域の老夫婦が、自衛隊の隊員の説得に応じることなく住み慣れた家に留まる姿でした。防護服の自衛隊員と普段着の老夫婦。そして夫が病人で看病があるからここから動けないと言っていました。この報道をみて今までの津波の衝撃的な映像、原発の科学的な言説とは全く別次元の印象を持ちました。その印象は旅を終えるまでわかりませんでした。

●出発の決意

僕の勤務している病院とは別の職場ですが、地元で信頼できる看護師の原田さんと、作業療法士の吉田さんに自分の考えを打ち明けました。原田さんは、阪神淡路大震災の時すでに看護師として神戸の町で働いていた経験もあります。しかしそれ故に心には暗い影があることも知っていたので、一緒に震災の支援をすることを言い出すのはとても迷いました。4月上旬のことでした。まだその頃は震災後、町の機能は回復していない状況でしたが、報道される福島、特に原発周囲の状況には心を痛めました。自分の職場からも宮城県への派遣はありました。僕らは個人のチームなので組織的な援助が受けられない場所へ行こう、そして福島県の南相馬市に行こうと僕が話しましたが、放射線の事もあり不安な思いでした。

悩んで悩んで、僕も妻に打ち明けたところ
「呼ばれてもないのに何で行くの」
「ただ見物したいだけじゃないの」
「子供も小さいのにちゃんと考えてよ」
「勝手に行っても何もできないでしょ」とごもっともな意見。僕も自分の中で
(ただヒーローになりたいだけなのか)
(縁もゆかりもない地に一体何をしにいくのか)
(自己満足な活動をしてなんになるのか)とも迷いました。
また職場の病院からの派遣ではないので、休暇として行くしかありません。上司に相談したところすぐに快諾してくれました。「福島へ行くなら仕事を辞めろ」などとつまらない事は一切言いません。

そして、準備を始めました。それまでの報道やネットでの情報から、現地での医療活動はある程度充足しているだろうと考えていました。外傷の患者よりも、慢性の内科系患者が多い事、原発の20-30km圏内なので、入院での治療が制限されている事がわかりました。それでも南相馬市は市長が震災の直後youtubeで映像を流し世界の100人にも選ばれていました。津波の影響が少ない市街地は行政機能も残っている事から、ホームページから宿泊、食事も可能である事も分かりました。

僕はテントで野営とか野宿ができないので、(軟弱・・・)きっと地元の旅館は客がいなくて困っているのではと思い、「もりのゆ」という旅館に電話したところ案の定客足が途絶えている事が分かり予約しました。3人で各1部屋ずつという一番喜んでもらえる予約をしました。また避難所の人数管理も連日アップデートされている事、市内の店や病院の状況を把握している事から、個人で急に避難所へ行っても相手にされないと直感的に予想し、南相馬市立総合病院へ電話してみました。すると院長の金澤先生と直接電話で話す事ができました。診療の手伝いとそして、慰問演奏を一緒にしたいと話しました。
物資は十分充足している事、個人で運べる量は知れているのでお土産のようなものだけ持って行く事にしました。また音楽はギターを担当する看護師の原田さんと僕で一度神戸で練習しました。曲は僕が弾きたい曲と、みんなが歌える曲を選びました。
葉加瀬太郎 エトピリカ、情熱大陸、ひまわり
いきものがかり ありがとう
坂本九 見上げてごらん空の星を、上を向いて歩こう
千昌夫 北国の春
唱歌 春の小川、ふるさと
子供の歌 となりのトトロ、ドラえもん などなどです。
避難所にいらっしゃる方々の年齢層が分からないため色んな曲を準備しました。

出発の前日に副院長の及川先生から電話がありました。避難所での診療の手伝いだけでなく慰問演奏を期待してくださっている事、町の避難所連絡会議で僕らが避難所に伺う事を事前に話してくださっていました。

すでに地元の連絡会議が定期的に機能していることから、行政のガバナンスが機能していると予想しました。そうなると、いくら善意の個人でも勝手に行動しても地域の人達に受け入れられる保障はないどころか、敬遠されると言うことを想像しました。

●出発の日


  こうして準備が整い、僕もとうとう家族からの応援を得て出発しました。20110506_90839 荷物が多いため水戸の友人に予め送っていたので、神戸空港から茨城空港へ行きレンタカーで福島へと向かいました。茨城県を車で走ると屋根をブルーシートで覆っている家、墓石が倒れているところを何カ所も見て地震の被害を初めて見ました。Th_img_0686_2 道中の高速道路は問題なく通行できて、そして福島市内へと入りました。ほとんど家の壊れたところもなくガソリンスタンドも開いていて、レギュラーガソリンの価格は神戸よりも安いほどです。そこから国道115号線を東に向かいました。途中放射線量の高い飯舘村を通りましたがその風景はとてものどかで放射線は全く見えず、におわずどういうものなのか分からなくなりました。報道される放射線の恐怖と、この車窓に広がるのどかな風景とが全く一致しないのです。吉田さんは放射線を嫌い空調を止めていましたがほとんど意味ないだろうなあとつくづく。それよりも花粉症の方がつらそうでした。通りすぎる車のほとんどは特殊車両でした。Th_img_0690

こうして8時半に神戸を発ち、水戸で寄り道したため17時に南相馬市立総合病院に着きました。通りすぎる車が警察や自衛隊の特殊車両で物々しい雰囲気に包まれていました。Th_cimg6834 病院に着くと、院長の金澤先生、副院長の及川先生とお会いしました。初めて会う僕らをとても丁重に迎えてくださって恐縮するほどでした。
「よく来てくれましたね」「避難所の皆さんも楽しみにしていますよ」「南相馬の現実をよく見ていってくださいね」Th_cimg6838
病院は一次救急の軽症の患者を救急外来で診るだけと診療を制限されていました。病院には2名の医師しかいませんでした。それでも看護師、事務、放射線技師の方々のチームワークがよい事は一目で分かります。20110506_90948 みなさん悲愴な顔で過ごしていると勝手に思い込んでいましたがちがいます。

病院を後にし、宿泊先である原町の「もりのゆ」に向かいました。津波の影響で流された地区とそうでない地区との差が歴然としていました。原町町中では建物の被害もほとんど目立たずむしろ茨城県内の方がずっと壊れている家を見るほどでした。Th_cimg6839 それでも店の半分以上は閉まっていました。コンビニを除くマクドナルドやCOCOsといったチェーンは軒並み閉まっていました。個人の商店は開いているところが多かったです。町中を見渡してみても半壊、全壊している家はほとんどわかりません。Th_cimg6845 「もりのゆ」の近くには桜が見事に咲いている公園がありそこでしばし桜を眺めてから「もりのゆ」の方にお話を聞きました。Th_cimg6842 原発の事故以来一次は避難していた人たちも続々と戻っているとの事、大浴場を200円で提供していると話していました。ある日、フロントに大金を差し出して、これでこれからやってくる避難所の人たちの入浴料にしてくださいと言う方がいらっしゃったとか、何百人もの方々の入浴にあてられたと聞きました。現地では報道と違い影の部分も良く分かります。連日備え付けのボディーシャンプーがなくなっているだそうです。入浴している人たちが持って行ってしまうんだそうです。Th_img_0705

そして、地元で食事をしました。カレーとラーメンだけのメニューですが十分。店はいつもの常連客で賑わっていました。よくある客が店員のように働く居心地の良い店でした。Th_img_0707 その後は、一度もりのゆに戻りました。原田さんとはほとんど一緒に練習ができていなかったので、フロントのおばちゃんに、「どこかで音出しできますか?」と聞くと「普段宴会場のところでどうぞ」と練習スタジオまで調達できました。ありがたい限りです。いきものがかりのありがとうをそこで初めて合わせました。楽譜のチェック、曲順のチェックが進む中来ました。余震。わずかな時間でしたが揺れました。滞在中はこの1回限りでした。身体に感じた余震は。練習を終えると、もりのゆの隣にあるフルールという和風スナックへ行きました。Th_img_0708 そこでも地元の方々の話が聞けました。毎晩のように来ているお客さんのようです。
「原発の事故直後に多くの人たちが避難させられた」
「どんどん最近は戻ってきている」「信じられないほどの揺れだった」
「わたしは避難せずずっとここにいた」「ビールだけは集配してくれない」
とにかく隣の相馬市までいろんなものを買い出しに行かなくてはならないと話していました。それでも5月になれば物流も整うと思いました。このスナックではすっかり長居してしまいました。原発への怒りは大きく、客もママさんも(と言ってもかなりの年配)口々にそのことを話していました。また丁度20km圏内立ち入り禁止になった時でしたが、地元に人たちによると空き巣が多く、立ち入り禁止にしないと治安が悪すぎると困っていました。このスナックは「初診(初めての客)2000円、再診(なじみの客)1000円」という安い明朗会計な店でした。和風スナックがなんで和風かはさっぱり分かりませんでしたが、確かに突き出しの和食はおいしかった。焼酎のお湯割りは毎回濃さの変わるいい加減ぶり。それでもとっても居心地がよい。
夜も更けてきました。もりのゆの部屋に戻ると次の日に備えて眠りにつきました。

その2につづく

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