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2011年3月22日 (火)

信頼を連携するには? 病院連携の矛盾。

日曜日に地元の緩和ケアの勉強会に参加した。在宅医療を熱心に行っている先生方の集まりでした。そこで話を聴きながら暗い気持ちになってきた。そこで語られる医療者の体験した実際の患者さん達の様子と、語る医療者が考える患者さんに求めるものがあまりにもちがうから。そして自分の考えている緩和ケア、さらには医療とかけはなれていることから自分の考えをもう一度見直すよいきっかけとなった。

患者さんは病気を抱えながら家で生活をしている。その生活を医療者が手伝う。生きづらい人達を医療者が支える。

そんなシンプルな話しが、病院の連携、患者の自己決定といった言葉で何かちがう世界のちがう医療に見えてきてならないからです。提供する医療の内容よりも、医療者と患者、家族との信頼が患者の生活の基礎になるというのが僕の臨床経験から信念です。病院を連携するのであれば、次の病院に自分の仕事を引き継ぎ、自分として患者を見舞う。「●●さん、どう?こっちの病院ではよくしてもらってる?先生は優しくしてくれる?」自己決定を支えるのであれば、答えのない迷いや問いをいつまでも考え続ける約束をする。「△△さん、いやー、それは迷いますよね。困っちゃいましたね。どうしましょうかねえ。まあ、また考えましょうかねえ」

しかし今語られる病院連携や、患者の自己決定というのは経済活動の一つの記号に思えてならない。

ある日、患者や家族は病院から言われる。
「この病気は大きな病院で診ないととてもうちでは診られないですよ。紹介状書いておきますから」
そして大きな病院で治療を受ける。
「この病院でできることはここまでです。この病院は『急性期』病院なのでどうか早めに退院してほしい。つきましては担当の者から説明が・・・」
「在宅にしますか、病院がいいですか、ホスピスがいいですか。これはあなたが決めることです」
こういう現場で親身になって話す医療者もきっとたくさんいます。でも親身になる医療者に患者や家族は心を開けば開くほど、次の病院へ移すための準備が着々と進む。
「あなた達とこれからも一緒に進んでいきたいのです」
という答えは用意されていない。

反論はいつも「長い入院は、新しい患者が治療を受ける機会がなくなる。理解して欲しい」弱者である患者はいつも模範的市民としての振る舞いを病院から要求される。そして「患者、家族の希望で、そちらに紹介させて頂きました」という紹介状を受け取る。僕は多くの患者さん、家族と緩和ケア病棟(ホスピス)でお話しする度に複雑な気持ちになります。

「ずっとあなたと一緒にいます」

この約束ができない多くの医療者にとってどのような振る舞いが求められるか。それは患者、家族に対して交換可能な行為だけを返すこと。病気に合った薬、患者の希望する治療そして、通貨で交換可能な行為が終了したら宣言する。「ここでの治療は終わりました」信頼を軸にして、医療者が患者と手をつなげないのであればこのような退行を選択する他ない。この退行した関係の延長に「患者の自己決定」を医療者が語るとき、最早患者の自己決定とは通貨で交換可能な未来にしかならない。在宅療養なら、どの医者が診て、いくらぐらい。そしてどういう長所と短所がある。緩和ケア病棟(ホスピス)なら、どの病院、どの医者が診て、いくらぐらい。「あなたはどちらを希望しますか」

自己決定を求められる患者は、病気のために衰弱した身体と判断力の低下した頭で医療者から答えを求められる。答えが出せない患者を支えること、自己決定を支えることが医療者の役割と語る方もいらっしゃるが残念ながらその自己決定が既に通貨で交換可能な未来を選択するという次元を出ない以上、患者、家族にとっては損得を吟味する賢い消費者を教育することでしかない。

この状況において、どういう医療連携が達成できるのかと悩んだときに僕が発した質問は一つだけでした。

「業務の連携はできても、信頼の連携をするにはどうしたらよいのでしょうか?」

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