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2011年3月

2011年3月29日 (火)

原発問題にいま何を考えているか

私は医師の立場から、現場の病者の立場に心を痛めている。テレビでは避難のため迎えに来た重装備の自衛隊員におばあさんは、ほぼ寝たきりのおじいさんのために家に残ると言って追い返します。現時点で身体で分からない放射線よりも、今日と同じ明日を選ぶ。そんな病者の思いを支えることはできないのだろうか。
この先何ヶ月、何年も福島第1原発の周辺では放射線の被曝が続くであろう。原発には自然治癒力がないから。そして、テレビの老夫婦にも放射性物質が降り注ぎ続くことだろう。老夫婦を冷静に支え続ける医療者がまず被曝の安全性と危険性を理解しなくてはならない。短期的な善意と勇気だけでは老夫婦を支え続けることはできない。そして医療者は率先して被曝の恐怖から脱して欲しい。避難地域の病者を放射線への偏見からの診療拒否をしてはならない。
今まで、レントゲン、CTスキャン、放射線治療、シンチグラフィと放射線と放射性物質を安全に扱い多くの病者を支えてきた医療者は、自ら扱ってきた道具と原発から降り注ぐ物質との相似性をどうか思い出して欲しい。

この内容はいつもお世話になっている田口ランディさんが編集した内容です。 多くの人達の今何を考えているかは、 http://bit.ly/fReEWe です。

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2011年3月24日 (木)

原発問題と認知的不協和 あなたの洗脳

昨夜は、仲の良い仲間で会食しました。話題は原発問題からプロレスまでと多岐にわたりました。
原発問題を考えたときに、とある方から「認知的不協和」の話しから色々と語り合いました。

社会心理学用語の、認知的不協和については僕も明るくないので、まとめてかみ砕いて語り合いました。
レオンフェスティンガーの認知的不協和(cognitive dissonance)は、簡単には「自分の考えを変えるか」「相手の考えを変えるか」「全く別のことを考えるか」の3つに不協和な状態を緩和する方法が分類されるという話しです。

放射線と人体への影響の不協和なら、
放射線は怖いけど、正しい知識を勉強して偏見をなくそう!(自分の考えを変える)、放射線は怖い。そもそも原発と政府と東電が全て悪い(相手の考えを変える)、放射線は怖いけど、タバコの方がずっと体に悪い(全く別のことを考える)

震災と自粛の不協和なら、
震災後も自粛しないのは経済活動を活発にする(自分の考えを変える)、震災後に自粛しないは不謹慎だ(相手を変える)、震災後に自粛しないのは芸術とは人の気持ちを励ますものだから(別のことに変える)

根本的な原発問題なら
原発は怖い。でも今の暮らしを続けるには必要だ。(自分)原発は怖い。だから全てなくなるべきだ。(相手)原発は怖い。なら暮らし方を変えよう。(新しい)

自分と問題と向き合う上で多くの人達の考えの不協和を整理する方法の一つですね。理論、主義とは問題に対する構えのようなもの。認知的不協和(cognitive dissonance) とかいろんな考え方に触れたとき一種の爽快感を得ますが注意しなくてはなりません。なぜなら言葉の檻の中に世界を閉じ込めることはできないから。科学もそうです。物事を語るとき言葉を使う以上、すでにあなたの考えが檻の中です。

言葉の檻とは、「この世は白と黒だけである」という白黒理論を提唱したとしましょう。自分から観察される身の回り、世の中の事象全てを白と黒とに自らの脳の中で分類し、納得が得られます。「ああ、確かに世の中は白と黒しかない」

この時に2つの落とし穴があります。

当然人間の視覚からは白と黒の色が観察されています。二つの波長の間には無限の色彩が含まれているのです。赤、青、黄色。うすいピンク。また色彩に意味を持つものもあります。心を洗われる青色。目を見張る赤色。

白と黒という檻の中に入れば色彩が見えなくなり物事のほとんどはわからなくなります。檻の外側から眺めるあなたには多くの色彩が見え、檻の中の人がこっけいに思えてきます。

もう一つは、あなたが白と黒に分類したとき、他の人はまたちがう分類をすると言うことです。別の観点から分類すればあなたの分類とは異なるでしょう。

このようにわかりやすい理論は、危険をはらみます。頭の良い人はこの危険に気づきながらも、あたなに分かりやすい理論を差し出しあなたの思考を停止させます。理論には人をひきつける力を持つと同時にあなたをたやすく洗脳することができるのです。

頭の良い、力のあるカリスマはいつもその分かりやすく共感可能な世界観と理論であなたを魅了し、あなたの迷いを白と黒に分類します。カリスマに洗脳されたあなたが、また公平を取り戻し、白と黒以外の色彩に気がつくには、さらに力の強いカリスマの登場が必要となります。洗脳の連鎖とは恐ろしい。いつも自分がどのような構えで世の中を眺めるのかがこの情報にあふれる現在には必要な素養なのです。

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2011年3月22日 (火)

信頼を連携するには? 病院連携の矛盾。

日曜日に地元の緩和ケアの勉強会に参加した。在宅医療を熱心に行っている先生方の集まりでした。そこで話を聴きながら暗い気持ちになってきた。そこで語られる医療者の体験した実際の患者さん達の様子と、語る医療者が考える患者さんに求めるものがあまりにもちがうから。そして自分の考えている緩和ケア、さらには医療とかけはなれていることから自分の考えをもう一度見直すよいきっかけとなった。

患者さんは病気を抱えながら家で生活をしている。その生活を医療者が手伝う。生きづらい人達を医療者が支える。

そんなシンプルな話しが、病院の連携、患者の自己決定といった言葉で何かちがう世界のちがう医療に見えてきてならないからです。提供する医療の内容よりも、医療者と患者、家族との信頼が患者の生活の基礎になるというのが僕の臨床経験から信念です。病院を連携するのであれば、次の病院に自分の仕事を引き継ぎ、自分として患者を見舞う。「●●さん、どう?こっちの病院ではよくしてもらってる?先生は優しくしてくれる?」自己決定を支えるのであれば、答えのない迷いや問いをいつまでも考え続ける約束をする。「△△さん、いやー、それは迷いますよね。困っちゃいましたね。どうしましょうかねえ。まあ、また考えましょうかねえ」

しかし今語られる病院連携や、患者の自己決定というのは経済活動の一つの記号に思えてならない。

ある日、患者や家族は病院から言われる。
「この病気は大きな病院で診ないととてもうちでは診られないですよ。紹介状書いておきますから」
そして大きな病院で治療を受ける。
「この病院でできることはここまでです。この病院は『急性期』病院なのでどうか早めに退院してほしい。つきましては担当の者から説明が・・・」
「在宅にしますか、病院がいいですか、ホスピスがいいですか。これはあなたが決めることです」
こういう現場で親身になって話す医療者もきっとたくさんいます。でも親身になる医療者に患者や家族は心を開けば開くほど、次の病院へ移すための準備が着々と進む。
「あなた達とこれからも一緒に進んでいきたいのです」
という答えは用意されていない。

反論はいつも「長い入院は、新しい患者が治療を受ける機会がなくなる。理解して欲しい」弱者である患者はいつも模範的市民としての振る舞いを病院から要求される。そして「患者、家族の希望で、そちらに紹介させて頂きました」という紹介状を受け取る。僕は多くの患者さん、家族と緩和ケア病棟(ホスピス)でお話しする度に複雑な気持ちになります。

「ずっとあなたと一緒にいます」

この約束ができない多くの医療者にとってどのような振る舞いが求められるか。それは患者、家族に対して交換可能な行為だけを返すこと。病気に合った薬、患者の希望する治療そして、通貨で交換可能な行為が終了したら宣言する。「ここでの治療は終わりました」信頼を軸にして、医療者が患者と手をつなげないのであればこのような退行を選択する他ない。この退行した関係の延長に「患者の自己決定」を医療者が語るとき、最早患者の自己決定とは通貨で交換可能な未来にしかならない。在宅療養なら、どの医者が診て、いくらぐらい。そしてどういう長所と短所がある。緩和ケア病棟(ホスピス)なら、どの病院、どの医者が診て、いくらぐらい。「あなたはどちらを希望しますか」

自己決定を求められる患者は、病気のために衰弱した身体と判断力の低下した頭で医療者から答えを求められる。答えが出せない患者を支えること、自己決定を支えることが医療者の役割と語る方もいらっしゃるが残念ながらその自己決定が既に通貨で交換可能な未来を選択するという次元を出ない以上、患者、家族にとっては損得を吟味する賢い消費者を教育することでしかない。

この状況において、どういう医療連携が達成できるのかと悩んだときに僕が発した質問は一つだけでした。

「業務の連携はできても、信頼の連携をするにはどうしたらよいのでしょうか?」

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2011年3月15日 (火)

東日本大震災と僕の幼なじみの思い出

僕には、幼なじみがほとんどいません。

そんな僕にも幼稚園の時に一緒のクラスで以降も親どうしの付き合いも続き家族ぐるみのお付き合いがありました。彼は、10代で骨肉腫となり懸命に治療を続けていましたが、肺に転移し僕らが高校の時に亡くなってしまいました。偶然にも僕は彼の亡くなった大学病院に、医学生として進学しました。

幼稚園以降、小学校や中学校の頃は数えるほどしか会う機会もなく、中学の時に家へ家族で遊びに行ったときには切断した足をうまくかばいながら部屋の中を以前と同じ明るさで過ごしていました。そのまま疎遠でどうしても高校の時、最後の入院の時にも部屋へ行くことが出来ませんでした。どう言葉をかけてよいのかもわからず。彼も僕を呼ぶことはありませんでした。

最後の入院の間、彼がどういう過ごし方をしていたかを親から聞きました。
毎日、数学の問題集を開き勉強していると聞きました。自分が退院できないと感じながらも、それまでにない猛烈な勢いで勉強を始めたと。

長い間どうして彼がそんな風に勉強をしていたのか分かりませんでした。自分の死を前にしてどうして?って。

今僕の現実の世界では、遠く東日本で震災が起こり、原子力発電所は報道、人々の願いも虚しく信じられない状況へと進行していることを予感します。この大惨事と異常事態を前にしても、やはり毎日の日常を送るしかない、むしろ自分の足元が崩れないように毎日の日常を無理矢理にでも送る。

病院で仕事をして、いつものように勉強し、本を読み、家に帰れば食事をして皿を洗い、そして子供達は勉強し、一緒に宿題をする。今幼なじみの彼がどんな思いで数学の問題集をながめていたのかほんの少しだけ分かる気がします。

人は、信じられないほど恐ろしい未来が待っていても、今という目の前に広がる現実を足元をふみしめるように過ごすしかない。いつもと同じ今日を作り出すしかないんですね。

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2011年3月 6日 (日)

千の風になって

今日急に状態が悪くなった女性の患者さん。入院して2日目に僕が別の患者さんのために葉加瀬太郎さんの曲を弾いていたときに偶然通りがかり、ソファのある部屋で一緒に楽しみました。何曲か弾いているうちに、音に誘われまた何人か加わりにぎやかになりました。

予定の曲を弾き終わった後に、持っている楽譜を皆さんに見せてリクエストに応えました。その女性の患者さんは、「千の風になって」をリクエストされました。でもこの曲だけは絶対にホスピスで弾かないようにしていた曲でした。

生と死を毎日見つめる患者さんやその家族に、「私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 眠ってなんかいません」の歌詞は酷です。そう思い弾かないようにしていました。でもその方のリクエストを聴いて一瞬ためらいましたが、すぐにOKし弾き始めました。

バイオリンの音に合わせて、小さな声で口ずさんでいました。その方はそれからも調子よく過ごしていました。あの日からまだ2ヶ月足らず。もう話すことが今日からできなくなりました。病状が悪くなったこの女性のご家族に検査の結果と一緒に、あの日のリクエストのことをお伝えしました。

ご家族は泣きながらも笑い、つい5日前の病棟でのコンサートの話になりました。あの日は調子よくご自身の携帯電話で僕やら看護師さんたちの一生懸命演奏する姿をたくさん写真を撮っていらっしゃったと聴きました。

音楽を通じての心の交流。あの日あの場にいなかった、この女性のご家族にもメロディが聞こえるかもしれませんね。明るくいつも笑っていたあなた、家よりも病院の方が落ち着くと言っていたあなた。今日もお疲れ様でした。急に意識がなくなり本当にびっくりしましたよね。おやすみなさい。

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