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2011年2月

2011年2月28日 (月)

京都大学試験問題ネット漏洩事件から、僕の親子問題まで。 パパみたいになりたい。

2月26日に報道された、京都大学の入学試験ネット漏洩問題。
それに関連して流れていくいろんな皆さんの大学入試に関する意見を見ながらふと心に留まった内容がありました。
それはある大学医学部の教授の方が、
「面接で医学部志望の動機について「成績が良かったから」と正直にいう子は一人としていない。「親が医者だったから」というのはたくさんいるが、動機としてはいかがなものか。「一生懸命勉強します」と皆が言うが、多くが合格と同時に忘れてしまうのは不思議なことである。」

という意見があった。これを見て考え込んでしまった。まず異論があることは間違いないのだけれども、それが何かしばらく考えていました。

僕の親父も祖父も、叔父もみんな医者です。医者一族の中で、医学部を受験したので自分の動機の中で「親が医者だったから」という考えがどれ位あったのかなあと思い出していました。思い出す僕はすでに39歳なので、あの頃の気持ちにどれくらい寄り添えるのかわかりませんが、思い出すうちに今と昔の僕の心にある、親父への思いが変わっている事に気づき、とっても良い気分になってきました。

僕の高校2年から3年生の頃、つまり大学受験の頃は18-21歳ぐらい、反抗期も終わるかどうかの頃。受験勉強にとりかかったころは、親父に反発して「絶対に医者に何てなるものか!」と親父への反発を自分勝手に体現していました。飛行機に関する勉強を目指そうと航空学科のことを考えていました。しかし、出会いはあるものです。自分の友人を通じて自分の高校を卒業した心療内科の医者にふとしたきっかけで出会いました。その医者のカウンセリングを体験したり拝見するうちに、親父とは全くちがう医者がいると気がつきました。そして、親父への反発とその先生との尊敬が見事に合体して、おかしな事に全く正反対の思いになり「親父とはちがう医者になろう!」と医者になる事を決意し、高校生の僕は猛勉強を始めました。親父への思いは変わらないのに、全く正反対の動機になったというわけです。

学校を時には休んででも受験勉強をしていました。毎日図書館にこもって。そんな受験勉強をくぐりぬけ、地元の医学部に進学し医者になりました。反抗期の僕は大学生活の中で成長し、また一人暮らしを家訓とする我が家の教育方針のお陰で親父への反抗も消え失せました。そして医者になり親父と同じ職業でありながら、全くちがった専門分野を持ちました。専門分野がちがえば、親父とは全くちがう医者なのかと言われるとやっぱりちがうことに気がつきました。結局僕が高校の時に考えた「親父とはちがう医者になろう!」という動機は自分自身が医者になってからしばらくして、果たせなかった事に気がつきました。

自分は親父に反発していましたが、それは親父にもっと愛されたいから、認められたいから。結局高校生の未熟な僕の本音はそこです。そしてやっぱり親父に反発しながらも、本音では親父のように生きていきたいと考えていたんです。僕とは違い素直な多くの受験生は医学部受験の動機に「親父のように生きたい」と考えるからこそ、「親が医者だったから」と話すのではないかと確信しました。

これぐらいの年齢の学生が、親の「オマエは医者になれ」というマインド・コントロールの支配から逃れられず、未熟な自我のままいられるだろうか。「親が医者だから」と面接で話せる学生は、親への尊敬、親が創作した家庭、親の愛情の実感、親のライフスタイルが好きという思いがなければ、とてもあの勉強量に耐えて医学部受験なんてできないと思います。また医学部入学後も随分と多くの勉強が待っていて、さらに卒業してから医師国家試験に合格する必要もあります。親の束縛、呪縛とマインド・コントロールだけではとても耐えられない道です。

だから「親の様に生きたい」と思う子供。その裏には親の愛情を感じて僕は素直に素晴らしいと思う。反対に「親の様にはなりたくない」と言いながら、「親が医者だったから」と話す学生。(僕も)相当な自我の芽生えでその独立性と、親からもがきながら脱皮して親を超えようと挑戦する姿にただ感動します。

今はとても気分が清々しい。なぜなら、医者である前に親父の息子である僕は、医者になって初めて親父の愛情に気づいたから。いや、思い出したからです。今は僕も親が医者だったからこそ、自分の心の中にいる親父と向き合い、そして今子供もできて親の深い愛情に年々気づかされる。 僕は「親が医者だったから」、医者になり、親となり、親と同じように深く子供たちを愛し、他人をうらやむことなく、悪口をいうことなく、比較することなく生活できています。「親が医者だったから」分かる親父の医者としての苦悩。親父を深く尊敬しそして愛おしいと感じるようになりました。

そして、大学の教員の皆さん。「親が医者(もしくは他の職業)だから」という学生に出会ったら、どうか「キミは親のどこを尊敬して医者(もしくは他の職業)になろうと思った?」と尋ねて下さい。「親が医者ならお前もそうか。何にも考えずに親の言う事を聞いて育ってきた」とか「そりゃ、親が医者なら世襲で生きる方が得だよな」などと偏見を持たず、彼らの未熟ではあっても真摯な人間性を洞察して下さい。大学の教員の皆さんが、彼らを値踏みしようとせず、彼らの心の窓を開ける良い質問をすれば、きっと学生らの無垢で深い思慮が引き出されます。そういうわけで、面接で医学部志望動機で「親が医者だったから」と素直に答える学生の、親の愛情や、親の尊敬への感受性の高さにただ感心します。

また大学や企業、病院は良い学生をとりたいという意見の裏に「親が医者だから」という意見に嫌悪してしまう時点で、良い資質をもった学生を入学、入社させたいという怪しい常識を見直したほうがよいと思います。なぜなら、僕が18-19歳に気がつかなかった親への尊敬と愛情は随分と時間が経ってから理解できることですから。僕のように、将来親への尊敬と愛情をもった学生を若い頃に見抜く事はできないからです。大学や企業、病院は人を育てるところであって、完成品を購入するところではありません。

そして、昨日の夕食の時に、長男と次男に尋ねました。「パパみたいになりたい?」と聞くと、まだ小学生とあどけないのですが、「パパみたいな大人になりたい」と言ってくれました。僕は自分の子供への愛情に安堵し、それを受け止める子供達を誇りに思います。この先息子たちが反抗期を迎えてもきっと、今の「パパみたいになりたい」という気持ちは、かつての僕と同じように将来彼らの心の中で再び点火すると予感します。そのことが僕には将来の大きな楽しみなのです。

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2011年2月25日 (金)

「なあ、隣の部屋のおっちゃん、死んだんやろ?」 あるホスピスでの一日

(内容は全てフィクションです。名前は仮名です)

毎日ホスピスで起こっていること。美談は多く人々の目に触れますが日常の人達の様子はなかなか語られません。最近心に残ったことを書き綴ってみます。内容は空想ですから。

「なあ、隣の部屋のおっちゃん、死んだんやろ?」いつもにこにこと笑っている、とみさんがある朝僕に言いました。僕は何て答えて良いかわからずしばらくその手を握って黙っていました。

とみさんは胃がん。前の病院では何度か血を吐いてそのたびに怖い思いをしたことを何度も僕に話してくれた。血を吐いた後、すぐにされた胃カメラの画面を見せられ、その時自分の体に気持ちの悪い塊があることを思い知らされたと。わざわざ見せなくてもいいのに、あの日から何だか怖くなっちゃった。お願いだから先生は私に怖いことを教えないでねとホスピスに来て2日目に言われました。
怖がりのとみさんは、僕が病院を休むと「昨日は先生に会えなくて淋しかったわ」と言っては、僕と話す時間を楽しみにしてくれていました。ホスピスに来て痛みと吐き気が薬でうまく感じなくなると、笑顔を取り戻し姉妹に囲まれて穏やかに毎日を過ごしていました。ホスピスでの生活にも慣れて、体の力も回復し病棟の食堂の脇にあるマッサージチェアに座り、他の患者さんとコーヒーを飲む姿も見かけました。
コーヒーを一緒に飲むのは、肺がんのつねさん。つねさんは、人なつっこい笑顔で話し好き。つねさんは毎日診察が終わると必ず手を差し出します。「なあ、先生。オレまだ大丈夫だよな」その手を握りかえし「大丈夫!今日も大丈夫!」と僕が言いお互い手にぎゅうっと力を入れて毎日生きている力を伝え合うのが日課です。

ホスピスでは、自分の力で生活が送れなくなった患者さん達がたくさん入院します。とみさんも、つねさんも他の人が見れば家で過ごすことができるじゃないかと思うかもしれません。でも二人とも病気が怖くて怖くて仕方がないんです。誰かに「大丈夫ですよ」と毎日言ってもらえることが生きる力になる。それがない毎日は不安に怯えて、膝を抱えたまま息を殺して、この先に起こる恐ろしいことを妄想してしまい、妄想を自分の力で止めることができずに過ごすつらい日々です。たった一言「大丈夫です」と言うだけでその日を笑って過ごせます。やっぱり自分だけの力では生活できないんです。とみさんに、血液検査の結果を見せてまだ大丈夫だからと言っても、つねさんにレントゲン写真を見せて変わってないと説明してもやっぱり二人とも生きづらいんです。特に一人暮らしのとみさんは、自分の食事を作るのも吐き気のためにイヤになっていました。

ある日から、とみさんは病気の勢いが増してきました。そしてベッドで寝ている日が増えてきました。「先生、今度の土曜日妹の家に行きたいの。行けるかな。」「妹さんの家では何か楽しみなことがあるの?」と聞くと、「みんなが集まってくれるんだって。」でも、その顔の表情、目の力、そして体を見ていると6日先の土曜日に病院から外へ出るのはきっと難しいと心の中では思った。それでも、「きっと行けますよ。いや行けるように今から力を蓄えておきましょうよ。」と話しました。でもとみさんも言葉にはしないけど分かっているんです。きっと無理だって。それでも僕は、「大丈夫、きっと行けるよ」と手を握って毎日言い続けました。
とみさんのお姉さんと妹さんには言いました。多分、妹さんの家には行けないと思う。だから、土曜日はみんな病室に来てくれませんかと。お姉さんも妹さんも分かっていました。もう残された時間は短いと。僕は聞きました。「あととみさんは、どのくらいみんなと一緒にいられると思いますか。」お姉さんは泣き出しました。お姉さんも実は乳がんで今も抗がん剤の治療を別の病院で受けている最中です。この話はお姉さんにはつらいだろうなと思い話しかけました。「この話、つらかったら妹さんだけに話しましょうか」お姉さんは、「そうします」と涙を浮かべながらとみさんの部屋に戻っていきました。妹さんはとても緊張した表情でしたが、考えていることを話してくれました。「もう私も長くないと思っているんです。家ではあと1週間ぐらいじゃないかって。母親の時もそうだったんです。ああいう風にベッドで寝たまま過ごすようになったらもう1週間ぐらいだったんです。」僕は黙ってうなづき、「僕も同じように考えています」とだけ答えました。

ある朝、「なあ、隣の部屋のおっちゃん、死んだんやろ?」いつもにこにこと笑っている、とみさんが僕に言いました。隣に座っているお姉さんと妹さんの表情がさっと曇り、そして戸惑っています。みんなの視線を感じながらも、僕は何て答えて良いかわからずしばらくその手を握って黙っていました。とみさんは続けます。「隣のおっちゃんは、家族で温泉に行きたいって言っていた。でも無理だった。私にももうすぐ同じ事が起こるんだ。」隣の部屋で亡くなったときのご家族の声が漏れ聞こえてしまったようでした。僕は変な言葉で隠しても仕方がないと腹をくくって、勇気を振りしぼり沈黙を破りました。「そう、隣の方は今朝亡くなったんです。でも隣の人は最後の最後まで家族と一緒に温泉へ行くって信じて願っていました。願いってかなうかどうかよりも、行けるって信じることが力になるんじゃないかなあ」とみさんは、「わたし怖い怖い。わたしにもすぐ順番が回ってくる。この部屋にも女の人が見えるのよ、ちょっと前から部屋にいて。わたしの所にいるの。迎えに来ているのよ」と怯えている。僕はどう話していいか分からなくなってしまいました。どんな言葉でとみさんの心を鎮めたらよいのか。黙ったまま心に浮かぶ言葉を待ちました。「隣の方は決して苦しみませんでしたよ。普通毎日こうしてちゃんと手当てしていれば苦しむ人達の方が少ないんです。それでも、もし苦しんだらすぐに見つけて手当てします」

そんな言葉でもとみさんの表情は暗いままでした。それでも、僕やお姉さん妹さんを安心させようと、涙を浮かべながら必死に笑っていました。その顔を見て僕はただ握っている手に力を入れて、「さあ、今日も一日よろしくお願いしますね」といつものように言葉をかけました。
病状はいつも患者さんが先に知っています。自分の体から伝わるシグナルを患者さんが分からないはずがありません。自分がどうなっているのか一番最初に知るのは患者さんです。僕も含めて周りの人達は後から知るのです。「何かワルイコトが起きている」体は正直に伝えてきます。そのワルイコトに検査で理由付けしているのは周りの人達です。お姉さんや妹さんはとても怒っていました。隣の部屋の声で大事な家族が心を痛めていること。やり場のない怒りは僕も受け止める必要があると思い、「気の毒な思いをさせてしまったこと、申し訳ありませんでした」と頭を下げました。

その日が終わり帰宅してからも病院を出るときのイヤな予感は消えません。そして深夜に予感していたとおり電話が鳴る。「とみさんが、吐血してショック状態です」深夜に電話がかかってくることは滅多にない。電話を受けたときすぐにどういう処置を指示すれば良いのか思いつかず「すぐにかけ直すから」とだけ看護師に伝えて電話を切りました。どんな処置ができるんだろう考えました。自分の体は疲れていて早く眠ってくれって言っています。でも、朝怯えていたとみさんの顔が心に浮かぶ。自分の迷いを振り切って電話をかけ、「とにかく一度病院へ行くので、それまでは点滴して」そう伝え車で30分病院に着きました。
とみさんはもう亡くなるとはっきり顔を見て分かりました。次々にお姉さん、妹さんそしてその家族と親戚が大勢で集まり大きな声でとみさんの名前を呼び続ける。前の日に亡くなった隣のおっちゃんの家族と同じように。とみさんはがんのある胃の辺りが痛いとはっきり話している。鎮痛剤と少しの鎮静剤を注射ししばらくすると顔の緊張がなくなり眠り始めた。僕は家族をみんな集めて話した。「今日が最後の夜になると思います」そしてとみさんと今日まで過ごした日々の事を話し家族みんなで一緒にふり返りました。つらい日ばかりではなくて、ほっとできる日、喜んだ日だってありました。話が終わると家族は病室へ戻る。病室は家族でいっぱいになり、そして声があふれる。「とみちゃん!とみちゃん!」「ダメまだ逝っちゃダメ」家族がとても動揺しているので僕は声をかける。「大きな声を出さなくても、目を開けていなくてもちゃんと本人は分かっていますよ」と。もう返事をしてくれないかもしれないと思いながら話しかけてみる。「ねえ、とみさん、僕の声ちゃんと聞こえてますよね?もう痛くないですよね?」力はないけど確かにうなづいてくれる。家族から喜ぶような声。「ああ」「前に最後はちゃんと苦しくないようにするって約束したから、手当てしまうからね」と話すとまたうなづいてくれる。

とみさんは、次の日の夕方息を引き取った。穏やかな最期でした。お姉さんと妹さんの顔も穏やかでした。きっととみさんは、みんなの気持ちが鎮まるのを待っていてくれたに違いない、そう確信しました。僕が最後の診察をしたときに、「ちゃんと、みんなの気持ちが落ち着くまで待っていてくれましたね。ちゃんと、みんなの気持ちが分かっていたんですよ」と話す。その事を伝えるのが、とみさんから僕へのメッセージのような気がしました。
しばらくしてから、看護師さん達がとみさんの顔を綺麗に化粧をして、服を着せる。亡くなる前よりもずっと穏やかな顔になりました。そうなんです。亡くなった直後、診察するときはいつもどなたも生きていたときの疲れが浮かぶ。それでも必ず時間が経つと穏やかな、まるで微笑んでいるかのような顔になるんです。そんなとき、僕が決めた死の時間より後も必ず人は死んでない。周りの人達のためにちゃんと表情を変えるんだって確信しています。

とみさんは、次の日の朝まで病院にとどまりました。そして、帰る日の朝、つねさんの部屋に診察へ行くとすでに知っていました。「なあ、先生とみさん死んだんだろ。なあそうだろ先生」いつものように手を握りながら。またとみさんの時と同じように言葉を失いました。どう話したらいいか。それでも昨日と同じように勇気を振り絞り話した。「そうだよ。昨日の夜亡くなった。全く苦しまなかったよ。」「なあ、先生。オレ挨拶したい」また頭の中で迷って迷って。つねさんにとみさんの死んだ姿を見せてかえって苦しまないか。人としての義理を果たしたいというつねさんの気持ちも受け止めたい。怖がりのつねさんは大丈夫か。しばらく考えてから手をつないだまま立ち上がり、つねさんと手をつないだまま、とみさんの部屋に行きました。突然の訪問者に驚いた様子のお姉さんと妹さん。「病院でいつも仲良くしていた方です。最後の挨拶に一緒に来ました」とまず僕からとみさんのお姉さんと妹さんに話す。つねさんは「いつもさ、コーヒーを一緒に飲んでさ。あんなに元気だったのになあ・・・」と言葉を失い涙ぐむ。とみさんのお姉さんと妹さんは「今までよくして下さって、ありがとうございました」と頭を下げるとつねさんも深々と頭を下げる。僕はずっとつねさんと手をつないだままその場に一緒にいました。「さあ、部屋に戻ろうか」とつねさんに声をかけ部屋に戻る。「使いにくい体で一生懸命がんばってきたんだ。きっと今の方が楽になってるよ」と廊下を歩きながらつねさんがつぶやく。しばらくして、とみさんはストレッチャーに移してそして病院を出た。病棟のエレベーターにはつねさんが立っていて看護師さん達と一緒に並んでパジャマ姿で頭を深々と下げていました。

長い長い一日が終わりました。あの日から随分たった僕の手には二人の手の感触が今でも確かに残っている。また僕のこの手は誰かに気持ちを伝えるために明日を待っています。

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「国の方針、厚生労働省の方針なんでしょ?」

僕は週に1回これから緩和ケア病棟に入院したいと考える数組の患者さんやご家族と外来でお会いします。当然患者さんはがんの方ばかりです。丁度今週もあるご家族がいらっしゃいました。患者さんは残念ながら紹介元の病院で入院中とのこと、その日はお会いすることができませんでした。緩和ケアやホスピスは、患者さん、ご家族にとってはイヤなところです。紹介されただけでも自分の命の短さを痛感させられるつらい機会になることがほとんどです。それでも、紹介され多くの方々がいらっしゃいます。
お会いする前に紹介状を見ると、定型句かもしれませんが大抵は「患者さん、ご家族の希望で貴院に入院したいとのこと、何卒よろしくお願いいたします。」と書かれています。そこで、まずお会いした方々には聞きます。「ここに『皆さんの希望で』と書かれていますが、皆さんはご自身でこちらにいらっしゃることをお決めになったのですか」と。すると、多くの方はこう答えます。「いえ、最初は病院の人達から言われました。ホスピスを考えて下さいって。それからホスピスのリストを見せられ、その中からこの病院を選びました。」他にはどんな説明を受けましたか?と聞くとまた多くの人達はこう答えます。

「今いる病院は、急性期病院なので治療の終わった方は退院して下さいと言われました。」
「国や厚生労働省の方針で長い入院はできないと言われました。」

この言葉をご家族から聞く度に考えさせられます。今、病院で何が起きているのか。
「急性期病院」とか「国や厚生労働省の方針」という言葉を遣う医療者心には何が隠れているのでしょうか。その言葉を発してでも患者さん、ご家族を転院させたい言葉の裏には何があるのでしょうか。

国や厚生労働省は決して患者さんの入院を短くすべし、在宅医療を推進すべしと断言しているわけではないと僕は考えています。まず、診療保険点数の本にはそのようなことは書かれていません。書かれているのは、入院日数に応じて1日あたりの入院費用の加算が変わることです。入院が長くなれば、1日あたりの入院費用が安くなるようになっています。そして、在宅医療を行う診療所、それを支援する病院に費用が加算されるようになっています。医療費の配分を定めているのです。
さらにいうなら、ホスピス、緩和ケア病棟で化学療法、放射線療法をしてはならぬと言及してあるものはないですし、がん、AIDSの患者さん以外を入院させてはならぬとも書いてありません。(注)

国や厚生労働省の方針というのは、こういう医療費の配分からどういうメッセージを医療者が受け取るかです。そのメッセージが、全国的に足並みをそろえて、「急性期病院には長く入院できません」「治療の終わった方は退院して下さい」になるのです。つまり、「急性期病院」とか「国や厚生労働省の方針」という言葉に最も反映している考えは、国の方針でも役所の方針でもなく、各病院の経営ということだと僕は思います。もちろん、限りあるベッドをどうやりくりするのか、連日多くの患者さんが押し寄せる病院として、公共財である病院と医療をどう配分するのかという大所からの考えはよくよく理解しています。それでも、患者さん、ご家族と現場で向き合う医療者が、何の迷いもなく、盲目的に「急性期病院」とか「国や厚生労働省の方針」という言葉を発することにとても大きな危険を感じています。

医師である自分は経営に明るいとは言えません。また多くの院長も医師出身ですので、経営を専門的に学ぶ機会は少ないと思います。病院の事務長、事務方も深い考察のある経営ができるのかというとどうでしょうか。きめ細かな収益、コスト分析から、どのような患者をどうマネジメントするのかという経営の指南を病院ではなかなか聞けません。いつも聞かれるのは「もっと入院日数を短く」とか「もっと外来患者を増やして」とか「ベッドの稼働率を上げて」という結果が先に立つ経営マネジメントでその中味は空虚です。どのような診療をすると損益が大きいとか、一日薬価をいくら未満にすると収益がどれくらいという話しには決してなりません。

そのようなやや未熟な経営マネジメントの影響で、本来マネジメントが目的とする目標の達成の洗練ではなく、結果目標のみを論ずる。この点で、病院経営は随分と一般通念から随分と後逸していないでしょうか。このような前時代的な未熟な経営マネジメントが「急性期病院」とか「国や厚生労働省の方針」という言葉へと連結していくのであればそれは、患者さん、ご家族にとって医療を提供する側が自分自身が使う言葉を見直す必要があると思います。

私も緩和ケアの専門の医師です。毎日の病院での実践から、ほとんどのがんの患者さん、ご家族には緩和ケアが必要だと常々考えています。それはがんだけに留まらずあらゆる病気で必要です。じゃあ、緩和ケアって何をするところかと言うことを、患者さん、ご家族はすぐには分からない。当然多くの医療者も簡単に説明できないので、「もう治療がないので緩和ケアへ」とか「残り少ない時間を有意義に過ごすには緩和ケアが必要です」とか説明することになります。この説明は決して全て間違っていませんが、こんな風に言われた患者さん、ご家族はどう思うのでしょうか。「死ぬ準備をするために、ホスピスの外来を紹介された」と考えるでしょう。そんな患者さん、ご家族にまずホスピスに患者さんは生活を手伝いに来てもらっているんだという話から始めます。

そして、ホスピスや緩和ケアを紹介したいと考える医療者の皆さんには考えて欲しいのです。その患者さんやご家族がホスピスへ入院し緩和ケアを受けた方がよいと親身になって相手の人生を考えて助言しているのか、空虚な「急性期病院」とか「国や厚生労働省の方針」という言葉を並べて彼らが自ずから、自分たちの元を離れるのを願うのかを。

注 緩和ケア病棟入院料は、平成22年改定では、1日に月3,780点(¥37,800)です。その1-3割を負担することとなります。ベッド差額料は各病院が設定します。しかし全てのベッドのうち半分はベッド差額料を設定することはできません。つまり無料です。がん、後天性免疫不全症候群以外の患者さんが緩和ケア病棟へ入院した場合、一般病棟入院基本料のうち特別入院基本料として575点(¥5,750)となります。つまり病院の収益は1/7となります。

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2011年2月23日 (水)

「愛されたい」「認められたい」愛について考える

自分が愛されたい、認められたい、承認されたいという欲望にいつも振り回されます。これは自分だけなのか。自分が未熟だからなのか。
毎日子供達に触れあっているといつも考えることがあります。自分の子供達は、僕にいつも人の欲望と愛情について大事な事を伝えてくれます。子供達にあふれている愛されたいという欲望はとても純粋です。親に認められたい、愛されたいと何の迷いもなく僕を見つめてくる子供達のまなざしには、見返りとか報酬とか全く感じない。「パパ、パパ、これ見て見て!」って純粋な欲望。 子供達が僕に気がつかせてくれることは、「愛されたい」という欲望を絶対押し殺さないこと。
子供達の果てない欲望を否定することなく、「愛されたい」という気持ちに喜んで応える。この気持ちは子供達の求める愛情に応える親としての「無償の愛」という簡単な言葉では、自分自身が感じている子供達への愛情は表現できそうにありません。またどこか違和感を感じます。
無償の愛という絶対正義のような言葉にどうして心がひっかかってしまうんだろう。もっと考えて子供達の求める愛情の欲望に、応えているうちに自分も気がつきました。自分自身の「愛されたい」という気持ちをもっと深く自分が理解しないと、自分の「愛されたい」欲望をもっと理解しないと自分は愛情を受け止めることができないって。そして自分自身の「愛されたい」という欲望なくして愛に満ちた仕事や生活、活動の全ては成り立たないなあとつくづく気がつきます。そして僕自身の愛されたい欲望は子供達と同じように無限。「パパ、パパ、これ見て見て!」っていう子供に、「なあ・・・昨日も見たよそれ」なんて言えない。毎回同じように「おお、すごいなあ」って言える自分でいたい。大人になったからって、分別ができたからって、愛されたい欲望に満足することはないですね。いつも目にする大人達のツイッターやブログ、会議室、仕事で出会う人たち。みんな「愛されたい!」「認められたい!」っていう声が大きかったり小さかったり。

どこからか聞こえる崇高な天の声を、自分自身の声として文字、言葉に転写する営みも大切ですが、そんな無垢な言葉はなかなか存在しない。無垢な言葉は時に空虚で、目にした人の心をさっと通り過ぎる。でもそんな言葉をいつも探していたい。それでも、「愛されたい」「認められたい」という自分の手垢のべったりついた言葉も並べて、ちっぽけな人間である自分の欲望にも素直でありたい。
本当に愛されるにはどうしたら良いんだろう。愛され方を考えるとどこかからか自分に反省を促す声が聞こえてくる。見返りを求める愛は結局ニセモノだって。それでも、「純粋な愛、見返りを求めない愛」の主張の裏には、自分の愛されたい欲望をどうにかして放棄し、その欲望を消滅させたい、その欲望から解放され自由になりたいというまた別の欲望を生み出しているのではないのかと思います。「僕はあなたのことを心から愛します。でも僕のことはどう思ってくれても結構です」「見返りなんて要らないんです。僕はあなたを愛し続けます。何も求めていません」こういう言葉の心には、こんな聞こえない声が聞こえてくるようです。あなたを愛していてもあなたから愛されることを期待しない自分でいられるように欲望を押し殺します。だって、愛を求めてかえってこないとき私は傷ついてしまうから。だから、他人の愛情なんて求めなくても生きていけるようなそんな私に「なりたい」。

だから僕は、見返りを求める愛情の営みに嫌悪感を感じるよりも、「愛されたい」「認められたい」という欲望をもっと無邪気に発揮して、そして無垢な言葉と無垢な心に憧れながら、笑って過ごした方がいいって思います。「なあ、愛してくれよ、こんなオレを」と相手に愛情を強要するんじゃなくて、無邪気に自分の子供達のように「見て!見て!」って。子供達の無垢な欲望に憧れている自分に気がつきます。そして毎日のように出会い、目にする「愛されたい」「認められたい」人に出会ったら、その人達を愛し、認めることができるかだけを考える。「あいつ言っていることおかしいよ」その言説を吟味し過ぎない。

そんな愛し方、認め方を僕は子供達に教えられ探し続けています。だって、自分が愛されて認められたいから。他人に愛を強要したり、認めさせようと力ずくで主張したり、相手の関心をひくための言葉を並べるのではなくて。僕の子供達のように純粋な愛と承認の求め方を。そして、子供達が強要や力ずくで愛情を求めないよう、僕は彼らを愛して認めるようにしよう。

今まで愛した人、今愛している人、これから愛する人

今まで愛してくれた人、今も愛してくれる人、これから愛してくれる人。

どうか僕の愛が傲慢なものにならないよう見守って下さいね。

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2011年2月21日 (月)

患者さんの通る道。いつも何かが足らない。

先ほど一年前離れた地元の町へ退院をした患者さんの家族にお会いしました。昨秋に亡くなったとのこと。ご家族も体調を壊し十分な看病ができなかったと泣いていらっしゃいました。地元では訪問診療、看護、そして最期は地元のホスピスで看取りになったとのこと。慰める言葉が見つからず、一声いつも感じている実感をお話ししました。

それは、「看病は誰にとっても何かがいつも足りないと思います。」とお話し致しました。僕自身の看病でもそうでした。いつも迷い、いつも不十分で、いつも他に何か道がある気がしてならない。自分が迷っているときに「それでいいんですよ」と一声誰かにかけて欲しかった。誰も言ってくれないのなら、自分は言うようにしようと思った10年前のある日。

治療法の長所短所、リスクの説明、予後告知、病状の見通し。悪いニュース。全てのコミュニケーションスキルは患者の自律を促す。個人の考えを大事にするのは大原則。もちろんその話しの先のことを僕は話しています。

だから僕はいつでも、今まで通られた道、闘病のできごと、あちこちの病院でのできごとを聞いても「それでよかった」と心から力一杯話します。通る道がちがっていても他の苦労が新しく生まれ、「いつも何かが足らない」のですから。患者さんや家族が通ってきた道を吟味しません。

迷いながら、それでも道を決め、そして後悔。
苦労しながらも笑い、日常を過ごしながら。
また苦労の日々は誰かの力を借りながら。
自分の職場の患者さんを見渡してみる。
みんな苦労して、毎日を懸命に生きている。誰一人心からの幸せに笑っていない。

「いつも何かが足らない」けど、それでも微かな笑顔が毎日皆さんの顔に浮かぶ。
僕はこれからも、「それでいいんです!」と言い続けると思います。


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2011年2月18日 (金)

緩和ケアに携わる全国の皆様へ 「論文査読中に思う事」

論文の査読が連日続きます。皆さんの論文がよい形になるように査読し、編集者としてコメントするという日々です。昨日ある先生にそれは親切というか、手をかけすぎという意見もありましたが、大学医局の先輩のようによい指導者に恵まれていない緩和系の医療者にとっては自分がその役を引き受けます。自分もそのように多くの手助けを頂いて、今の自分があります。
世界の数多くの研究者による論文は、自分自身の研究発表ではなく将来への贈り物です。その贈り物を数多く読み、そして今贈り物をしようとしている誰かにお伝えするのが僕の役割です。

緩和ケアやホスピスで働く医師は僕もそうですが点在して、外科や内科といった他の科とかけもちしている医師も大勢いらっしゃいます。自分のように専門的に緩和ケアだけできる医師は恐らく日本では200-300人ぐらいではないかと思います。絶滅危惧種です。だからこそ、顔の知らない、見えない同僚であっても絶えず応援していたいと思っています。きっとこのブログもツイッターも見ないかもしれませんが、「今日もがんばっているあなた」を僕はいつまでも応援し続けます。

人が苦しむ姿を連日見守り、安寧を模索し、そして人々の看取りに立ち会い、この世で最後のケアと治療を続けている全国の同僚医師、そして看護師、薬剤師、PT,OT,ST,栄養士、社会福祉士(以下略)の皆さん。この崇高な仕事を決して手放すことのないようお願いいたします。今の私たちの仕事は、結局未来の我々の看取りに還ってくるのです。目の前の人を手助けし、同僚を応援し、見えない誰かに贈与を続けるのは、他ならぬ我々の未来のためです。

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2011年2月16日 (水)

過ぎ去った時間への郷愁

先日お会いしたある病院の先生。年齢は70歳近くで僕の父親よりも年上でした。それでもとても僕を気に入って下さっていて光栄です。おみやげにヤッシャハイフェッツの全集のCDを頂きました。
その中のメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトを久しぶりに聴きました。この曲は長く聴くのを封印していました。理由は、この曲を聴くと自分の心が、小さいときに親の愛情に包まれて安心して過ごしていた少年時代に戻ってしまうからです。郷愁で心がグッとつまる。
でも今、自分の体を実家に連れて行っても郷愁は満たされません。当時のアルバムを見ても満たされません。失い過ぎ去った時間への郷愁は自分の心の中だけにずっと膝を抱えているんです。

この曲を聴きながら目をつぶると、当時母親に連れられてあちこちへいった時のこと、普段の買い物や、習い事の送り迎え、バイオリンの先生の所へ行く間の道中。その時に感じていた自分の心や体の感触。そして、空気が心に宿ります。
音楽は私的な自分の思い出を呼び戻してくれます。そしてその思い出は自分以外の誰とも共有できません。思い出と音楽の結びつき誰でも、思い出の一曲があると思います。

決して今が不幸なわけではありません。また両親も健在です。過ぎ去った時間への郷愁。今を過ごす自分は興味関心を必ず音楽と共に過ごしています。その音楽を聴けば、いつでもその時の自分に戻れるのではないかという憧れを感じながら、今日も何かを聴きながら過ごしています。

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2011年2月 7日 (月)

書評 コンサルテーション・スキル 岩田健太郎著

コンサルテーション・スキル
他科医師支援とチーム医療
岩田 健太郎著


著者は、私と同じ街で診療にあたる高名な臨床医の方で、神戸大学病院で感染症を専門にお仕事をされています。感染症の専門医として大学病院でコンサルテーション活動を通じて感じていらっしゃること、また後進の指導について考えていらっしゃることをまとめた著書です。

ところで、私が岩田先生の言説にふれたのは、2009年です。その年新型インフルエンザで神戸は騒然としました。私の勤務する病院でも非常な事態に対応するために混乱を生じておりました。事の発端は、2009年5月、神戸市内の高校生に感染していることが発表されたことです。その後は、神戸も人通りがぱたっとなくなり小学校に通うわが子も休校となりました。マスクをして出歩く人々の群れが、人々の恐怖をさらに増強しました。そうです、映画「アウトブレイク」でも描かれたとおり、感染症は民衆の恐怖を増幅するのです。それは無知の恐怖とはいえないほど、根源的な恐怖を医師である私にも抱かせました。感染予防服を着た医療者の報道を通じて、多くの国民は恐怖を感じたことと思います。マスクがなくなるといった民衆的パニックも発声しました。
そのような時にも様々な見解を岩田先生は冷静な発表されており、その言説には絶えず、「現場で自分の頭で考えろ!」という強いメッセージが含まれており、同世代の私には心強く感じました。

さて、この本は、コンサルテーションを受ける側、コンサルタントとしてのご自身の思索がまとまっています。この本は、まず強い言葉で刺激します。その次に、自分の理路を開示して、行動目標を強い意志で提示します。その展開には恐らく不快感を感じる人もいるでしょう。また一緒に働いている人達は「これはオレ(自分)に向けて書いてあるんだろうか」という錯覚すら感じさせます。
しかし、通読し先生の風刺とテンポを感じるにつれて分かってきます。この本は「虚ろな人々に、自分の頭で考えて、自分の足で歩け!」、「自分はいつもこういう風に考えるんだ。なぜ君にはそれができない」といった、上から目線の表層的なメッセージしか受け取れない感受性を排除します。かつてのご自身もそうであったかもしれないという、ご自身の経験から身体的な言葉で語るからこそ、この本を通してのテーマが生まれているのです。この本の文体は、絶えず誰かに向けて話しかけるような姿勢です。しかし、それはかつての研修医、今の同僚、虚ろな人々に向けてではなく、心が鎮まる前のご自身に向けて書かれているようにも思えます。まず自分の心に一番共鳴し、「そうだよなそうだような」と共感できるこの文体が、この本の一番の通奏低音です。刺激のある言葉のうらに大きなテーマを感じることができたとき、新たなコンサルタントの可能性が開かれてきます。
つまり、時に刺激的な言説も、その言説を刺激と受け取ってしまう「あなた」自身の内省と、心を鎮めることをこの本は求めます。そして、全ての医療者の心を下支えしようとする岩田先生の愛情を深く感じます。「きっとみんな話せばわかるはずだ」というメッセージこそが、この本のテーマだと思いました。このテーマは私も何度も主張してきたテーマの一つです。

私も緩和ケアの専門なので、日常は絶えずコンサルトを受ける立場です。私にとって緩和ケアのプロフェッショナルとしての確信は、「緩和ケアは、病者とその周りの人々の恐怖と苦痛を扱う」ということです。がんに向き合った患者は恐怖を感じています。その家族もまた違う種類の恐怖を感じています。そしてその患者、家族と向き合う医療者も実は恐怖を感じています[1]。将来の不安、苦痛の恐怖。私が一番大切にしているのは、その恐怖を軽減する方策を考えることです。患者、家族、医療者の苦痛と恐怖どれが一番問題と考えず、まず同一平面上に並べます。それぞれの苦痛と恐怖に対して最も適した方法でそれぞれに対処します。患者には薬物がよいでしょう、家族にはより詳細な治療への説明が必要かもしれません、そして医療者には患者の苦痛に絶えずさらされる恐怖から守り、一緒にいるという姿勢を表明することが大事でしょう。恐怖に対処する上で重要な構えがあります。それは、患者、家族、医療者それぞれの信念や問題に優劣を付けることなく、全てを並べそれぞれに適切な方法論を選択する。こういう構造構成主義的な構えも同じくこの本に書かれているテーマの一つです。

緩和ケアにとって苦痛の緩和(≒薬物療法)とコミュニケーションが重要なのは、自分自身の調査でも明らかで全世界共通です[2,3]。 (universal issue) そしてコミュニケーションの医療における重要性は、同じく岩田先生の著書にくり返し抱えれているとおりです。型どおりのコミュニケーションではなく、メソッドにこだわるのではなく、どの言葉が一番彼の心に届くか、どの話し方が彼の行動を変容できるかプロフェッショナルとして戦略的に考えよ、その根本的なメッセージ (ultimate aim) に非常に共感します。して私の実践と非常に相似しており、読み進めると共にまだ未熟な自分の思索の輪郭がぼやけた思考をくっきりとさせる快感を感じました。

そして、岩田先生は最後にちゃんと突き放します。「自分の模倣は無意味」「自分で考える、自分で判断する、自分で吟味する」(p.213) 甘い誘惑と堕落に負けず、自分自身が虚ろな人々に加わることなく絶えず厳しく自分を見つめるからこその最後のメッセージ。とても心地よく心に響きます。ちがう分野であっても、ちがう職業であっても、ちがう国であっても自分の極めようとするからこそ導かれる言葉の数々 (pearls of wisdom)。その長い道のりに自分自身も「この道で大丈夫か」という不安をこの本は消し去ってくれました。


Reference
1) Cherny NI, The problem of suffering and the principles of assessment in palliative medicine. Oxford Textbook of Palliative Medicine 4th eds. 2010
2) Shinjo T, Morita T, Hirai K, et al. Care for imminently dying cancer patients: family members' experiences and recommendations. J Clin Oncol 28(1), 142-148, 2010
3) Hallenbeck J: Palliative care in the final days of life: “They were expecting it at any time.” JAMA 293:2265-2271, 2005

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「オーケストラってなあに?」

今回は軽い話題で。

先月1月にバーンスタインの楽曲を取り上げた演奏会を終えました。とっても楽しい彼の曲。また演奏する機会があるといいなあと思います。

丁度先週の土曜日のできごとでした。

この動画は、息子のバイオリン教室で外の待合で待っていたとき、次の女の子が「調弦しにくそうにしていたので」「ああ、やってあげるよ」と声をかけると、「ありがとうおじちゃん!!」(おいおい、おじちゃんはないやろ)と返事。

「僕もな、ずっと小さい頃からバイオリンやっていて今もオーケストラで弾いているんやで」と答える。「え?オーケストラって何?」って聞かれてしまったので、手元の
iPhoneでyoutubeを立ち上げ "オーケストラ" と検索するとなぜかこのページがトップヒット。

その女の子に見せてあげると、ノリノリの羽目を外した演奏を見たその子が
「ねえねえ、おじちゃんもこんな風にやっているの、オーケストラって楽しそうね。」と一言。
(おいおいこんなんちゃうで)と思いながらも「そ、そう、そうだよ・・・!大きくなったら楽しいオーケストラにはいりや」と答えました。
はあ。これでよかったんだろうか。

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2011年2月 4日 (金)

神殿の磁場 兵庫県立芸術文化センター

今日は思い立って、昼からクラシックのコンサートへ行ってきました。兵庫県立芸術文化センターで、5年前の2005年にできました。このコンサートホールは、阪神・淡路大震災の復興のシンボルとして作られ、佐渡裕先生が総監督となって現在に至ります。このホールは運営がいろいろと特殊で、附属のオーケストラがあり、任期は3年。プロと言うよりセミプロ。若い演奏家の方々がオーディションを経て入団します。

定期演奏会にも何度も行きました。このオーケストラは若く、演奏のレベルもそれ程高くはないのですが、指揮の方々が素晴らしい。今日は巨匠、フェドセーエフでした。またチケットも4000円とありがたい値段です。ちなみにウイーンフィルが講演すると30000円を超えます。

今日は平日にも関わらず満員でした。客層はシニア。平日の昼間を優雅に過ごせる方が多いです。

このホールで僕も2回アマチュアオケのコンサートで出演しました。楽屋も素晴らしくとっても優雅な気持ちになります。楽屋の裏にはレストランもあって。また練習場もあって何度も練習しました。

前置きが長くなりました。

今まであちこちのホールへ行きましたが、ここは本当に不思議なところです。神殿のような場所です。これは、もう終わってしまったオーラの泉で、佐渡裕先生が出演されたとき、江原公啓さんも指摘していました。とにかく人が集まるのです。

演奏会に来るお客さんは「このホールのファン」という方がとても多く自分もその一人です。附属オーケストラはどんどんメンバーも変わります。また曲目も色々。それでも、このホールについ足が向かうのです。音響がよいとか、設計がよいとか、雰囲気がよいとか、交通の便がよいとか、指揮者がよいとか、曲目がよいとかそういうことではないのです。あそこには人を集める磁場があります。

コンサートホールの前にある広場では、高校生の子たちがガラス窓に映る自分たちの姿を見ながらダンスしています。今日は幼稚園の子たちが集まってハトを追いかけていました。家族ずれが、コンビニで買った色んなものを一緒に食べています。僕の子たちもYMCAのキャンプの待ち合わせで、この広場を使いました。いつぞやのクリスマスだったか、附属オーケストラのメンバーがこの広場で演奏したとの事。
とにかく人が集まるのです。

場の磁場。このコンサートホールは現代の神殿です。すごい吸引力で人を集めます。誰も音楽を評論しようという気持ちがありません。「楽しかったね」で帰って行きます。こういう場所があるから、神戸から離れる事ができません。僕にはこういう場所、こういう時間が必要なのです。

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2011年2月 3日 (木)

針の穴から天を覗く エジプトを思い

「針の穴から天を覗く」という格言は、自分の狭い見識で、大きな事柄を推測するなと、見識の狭さを揶揄する意味です。しかし、ネットで人間同士がシナプスのように無限に自発的につながっていくと、それぞれの個人的な営みが世界に通じていると信じることができるようになった。僕の小さな声でも、こうしてどこかにつながっているんだろうと確信できます。

自分は世界の形成する一部。自分はちっぽけな「針の穴から覗いている」存在ですが、それでも天を見ようと覗いています。自分の毎日の活動を通じて自分の言葉を持ち、そして天を覗けばそこには自分の世界と相似な世界が拡がっています。エジプトもこの僕の座っている病院の片隅もつながっています。

つながりとはインターネットの回線がつながっているという物理的な事ではありません。僕の住む世界も、僕の心にある世界も、遠く離れたエジプトの世界も必ず何か作用し合うのです。バタフライ効果、風が吹けば桶屋が儲かる。最近作用し合う確信も心にあります。

自分の体は1つ、目は2つ。すぐ目の前に「針の穴」から見える小さな視野から何かを感じ取ることができなければ、茂木さん(@kenichiromogi)の話す、トイレに入りたいともじもじしている、5歳の鍵穴から覗く男の子のまなざしの意味に気がつけなければ、もはや「天(=世界)」を語ることはできないと思います。

まず自分を待ってくれている人、自分がしなくてはならないことをちゃんとする。そして、足場ができた感触を得たとき、市民となり初めて社会のうねりを語ることができるのですね。
他人の借り物の言葉、ストックフレーズの放出は意見ではありません。評論家ぶって社会の事柄を語り出したとき、「ボクの話も聞いてよ!」という無邪気でどこか幼稚な念が伝わってくる。もしくは「ボクの話」を聞いてもらえない過去の経験からの、ルサンチマンの解消に過ぎないと思います。

「とんちがきいていない」からでもなく「人をうなずかせる言説」ではないからでもなく、自分の世界を粗末にして、大きな意見を言う人達の意見には中味がないからだと感じます。

だから僕も、ちゃんと、病室を回って皆さんに、「May I help you?」の態度でこれからも毎日笑顔を振りまいてきます。この「針の穴」のメタファーである聴診器と自分の五感を駆使して今日も仕事します。そして家に帰れば父親として、夫として自分だけの自分をちゃんと引き受けて生きていきます。


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2011年2月 1日 (火)

最期の苦しみ 「がんの最期は苦しむのでしょう?」

今日初めてお会いした方。「がんの最期は苦しむのでしょう?」初対面でこのように尋ねられるとどのように答えるか迷う。でもその方が私の意見を求めていらっしゃる。「多くの方が苦しみません。」と答えました。「毎日手当てしていれば苦しむ方は少ないです。」

「みんな苦しむって言ってます」とその方。「普通の人達の話が一番広まらないのかもしれません。」8割の方は苦しまず穏やかです。2割の方が苦しむことがあります。その時にはその手当をします。この根拠は終末期の鎮静率[1]。がんの最期の苦しみを緩和する方法として、鎮静剤の投与があります。これは「眠らせる」ことを目的にしているので、安楽死とは全く異なります。苦しみなく眠ることで穏やかな時間を作る究極の手段です。その手段を選択する手順は複数の医療者で判断しないと危険です。
終末期の鎮静の話しをすると安楽死と混同されて、ブラックジャックのドクターキリコと勘違いされてしまう。でも鎮静を始めるまでみんなで考えて考えて、あらゆる方法で対処して、言葉をかけて、家族と力を合わせてそれでも、患者さんが苦しいとき。医療者は努力してためらって、ためらって、考えて。それを経て初めて鎮静を決めます。それまでの患者さんとの語らい、家族との対話全てがあって初めて鎮静を決めます。そして鎮静は、眠る手伝いをするのみです。本来がんの方々は最期は苦しみません。眠っている方がほとんどです。ですから鎮静とは「自然に亡くなる道のりから外れて迷子になってしまった方を元の道のりに案内するため」の治療だと考えています。

3.1%-51%と鎮静率は大きく異なります。ヨーロッパでは10%前後です。鎮静率が高いと言うことは何か他に手段がある可能性があると考えられます。きちんと鎮静することで呼吸状態は安定するので決して早くに亡くなる手伝いをするわけではありません。

安楽死が合法なオランダでも安楽死を手伝う医師の苦悩が報告されています。また安楽死を望む患者さんの苦痛も甚大です。彼らの苦痛に「もう一度考えてみましょう」と話す余地がないこともあります。そのオランダでも鎮静が増加しています[2]。

この終末期の鎮静と安楽死の相違は今までも議論が続いています。鎮静が「ゆっくりの安楽死」との議論も続いています。しかし臨床家にとっては、倫理的な議論、定義よりも目の前の患者さんに「なにかする」ことが重要で求められています。

僕の出会った患者さんは、「最期は眠るように逝かしてね」と家族の前で唐突に僕に話されました。僕は、この患者さんの手を握って約束しました。「あなたが苦しんでいれば、ちゃんと助けます。今日話してくれたことは忘れませんから」

1) Claessens P, Menten J, Schotsmans P, Broeckaert B. Palliative sedation: a
review of the research literature. J Pain Symptom Manage. 2008 Sep;36(3):310-33.
2)Rietjens J, van Delden J, Onwuteaka-Philipsen B, Buiting H, van der Maas P,
van der Heide A. Continuous deep sedation for patients nearing death in the
Netherlands: descriptive study. BMJ. 2008 Apr 12;336(7648):810-3.

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