ヤドリギの話し
とある先生から、お聞きしました。「ヤドリギはがんにとても良いんです」それを聞いて、不思議な気持ちになりました。
かねてより、自然と人間の内面は相似で、だからこそ自然への畏怖が生まれると考えていました。青い空を見れば、自分の心が晴れやかな状態と相似、白い雲は自分の思索であり、曇った空はモノトーンで、自分の心がモノトーンなことと相似。そして移りゆく天候は自分の心の移ろい。同じ天候にとどまることはない。晴れた日も、曇った日も、そして雨の日も長くは続かない。いつかは必ず変わる。人の心も一カ所に留まることなく変わっていく。病気をもち生活する人たちも、同じ体調は続かず、調子の良い日も悪い日も天候のように巡っていきます。
そして、ヤドリギを眺めたとき人は、がんと宿主である人間との縮図を見いだし、その相似性に新たな発見を感じる。
(Wikipediaの写真を転載しました)
ヤドリギは宿主を死滅させることなく共存する。それがまたがん細胞とはちがった挙動を連想させ、共存することに新たな奇跡を感じとる人たちもたくさんいるでしょう。
自然と人間の内面が相似であるなら、その自然を取りこむことで自分の内面を自然に相似させていこうと発想することは、想像しやすい。つまりヤドリギを体内に取りこめばよいと考える人たちもいるでしょう。そしてヤドリギの神話が生まれます。
人間と自然、そして人間の創造物、人間の発想が自然と相似したとき、他者と共有できることが可能となるのでしょう。自分の創り出すものは、自分が目にしているもの、耳にしているものを記憶し似せるのではなく、既に自然にあるものがメタモルフォーゼされる。そして人間の感動を得る。自分が目にしているものは、他の人も目にしているもの。自分が耳にしているものは、他の人も耳にしているもの。そして自分が感動したものは、他の人も感動したもの。
ヤドリギを自分の体内に取りこむ所業は、自分には奇異に感じた。それは、自然に存在する何かを自分の体内に取り入れるという行為でしょう。これは科学的な効果、つまりヤドリギが、がん細胞に対する効果の真偽を問うているのではありません。例えば、生きる力に満ちあふれた、無垢な存在である赤子と食する部族がいたとして、彼らは新たな生命力を得ることができるでしょうか。月の神秘に感動する人たちが、実際に月の石を細かく砕いて食したとき、彼らは月の神秘を手にすることができるでしょうか。
自分の外部にある、自然の畏怖そして自然の相似を発見し感動したとき、すでにその感動は自分に備わっているもの。新たに自分の体内に取り入れる必要はないはずです。そして自分と世界を隔てる境界の内も外も実は自分の外部であるというおかしな感覚に戸惑うのです。自分が所有していると確信している自分自身の内面、自我すらも自然から帰納して認識しないと発見できないことがあります、そして僕もこうして「ヤドリギの話し」を書くことで初めて気がつく自我の存在を見つけるわけです。つまり自我すらも自分の外部だという現実におののく。
補完、代替療法の多くは特定の物質を介在して、その真価を発揮することが多い。しかしその自然界由来の物質を人間が取り入れることは、自分自身の内面を再発見するという効果以外に僕には思えません。この再発見は、物質の直接的な効果ではないと思えるからです。
緩和ケアはホリスティックな面が強く、あらゆる発想、あらゆる療法、あらゆる行為に好奇心を持つ。そして排他的ではない。(と思っています)なのに緩和ケア病棟で働いている自分が「なぜ特定の補完、代替療法をすすめないのか」の理由がヤドリギの話しから教えられました。それは単に科学的に検証できないと言った単純な理由ではないようです。外部から取り入れなくても、もともと自分の内面にある力を呼び起こすこと。そんな方法が自分が信用できる治療だということです。
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