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2011年1月22日 (土)

「からだでわかる」と「あたまでわかる」、医師と患者の超えられない言葉の壁

人間の「わかった」(理解)には、「からだでわかった」と「あたまでわかった」の2つがあると思う。「からだでわかった」言葉は異文化の人たちとも共有が可能である。でも「あたまでわかる」ことを、わかりやすく解説してもなかなか異文化、異業種、異専門分野の人たちには伝わらない。これはどうしてだろうか。

「からだでわかった」ことは理論よりも、個人的な体験から帰納されている。「おいしい」と言うことに個人の好みの差はあっても、「おいしい」という感覚はそれぞれの体験から共有される。お年寄りの知恵と英知が通用するのも個人的な体験、からだでわかった言葉、身体化した言葉だから。

人間の一生は短く、「からだでわかった」体験の量も一人の人間では少ない。それでも人間の知りたいという好奇心は「からだでわかる」以上の疑問、「からだでわからない」形而上的な疑問と果てがない。すると「あたまでわかる」言語と理路が登場する。しかしこれを他者と共有するのが難しい。

「からだでわからない」けど「あたまでわかった」こと。それは幻想なのか。人間が創り出した非自然のもので、概念に過ぎず正体は無なのか。阪大でのシンポジウムの帰り道にそんなことを考えていました。

例えば、医師がレントゲンをして「あなたには病気がある」と症状のない患者に話したとき。彼が自身の異変を「からだでわかる」ことができず「あたまでわかる」だけのとき。彼の恐怖と違和感を想像する。自分の身体が「からだでわかる」ことができないとき、自分自身すら自分の外部に移動する。だから、医師という経験から感じるのですが、自分=内部、世界=外部ということではなく、自分も世界も外部なんだとつくづく感じます。自分のことは自分が一番分からない。そうすると、この考えている自分という意識は内部なのか。少なくとも他者と同じくらい自己を外部と脳は認識しているのではないか。

医師と患者のコミュニケーションが取りざたして、「専門用語を使わず平易な言葉で」、「患者の気持ちに共感して」、「患者の理解度を確認して」、「患者の嗜好、意向をふまえて」とビジネス界から輸入した解説がよくされる。しかし、この患者が体験する「からだでわからない」ことを、どう「からだでわかる」かまでの道筋に思いを巡らすことがなければ本質的な問題は全て無視される。これは単なる言語の問題や、マナーの問題ではない。「からだでわからない」ことを理解するための言葉をまだ誰も知らないのかもしれない。

そして、患者が「からだでわかる」事とは何か。それは医師の感情だけではないか。「ああ、先生がそんなに一生懸命話しているのならその通りなのかもしれませんな」そんな風に説明の内容ではなく、人の情を「からだでわかる」のかもしれない。ここに、初めて「からだでわからない」ことを「からだでわかる」言語の壁を越える夢を見ることができる。

 



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