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2011年1月24日 (月)

アマチュアオーケストラの演奏会

昨日は参加していたアマチュアオーケストラのコンサートでした。

アマチュアオーケストラのコンサートに出演すると言うことは、僕にとっては「ハレ」の行事です。「ハレ」というのは日本人の民俗学的な見地からずっと議論されていることで、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表しています。また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)といいいます。(http://bit.ly/gqnnJM)

そしてアマチュアオーケストラの活動にとっては、「ハレ」をどう実感するかにつきます。それまでの練習に参加することも「ハレ」、演奏会で普段着ない黒服を着るのも「ハレ」、そして一回性の演奏に一喜一憂し本番を終えるのも「ハレ」です。そして「ハレ」を表現するのは「楽しむこと」ではなく「祝すこと」です。元々日本人の祝祭には、天、神に捧げ物をすることですから、その作法があり、作法が生じた時そこには美が生まれます。

「ハレ」の活動である演奏活動には、自分を祝うことしかしません。それは一見カラオケで好きな歌を歌い続けているおっちゃんと変わりません。彼らは自分の歌に陶酔しているのではなく、自分を祝しているのです。そこには批評的音楽観は存在しません。もしも音程、リズムと言った批評的観念を適応したとしてもそれは「ケ(日常)」つまり日常性に彼を引っ張りこむ必要があります。そしてその行為は失敗するでしょう。 なぜなら歌う彼は日常ではありませんから。

アマチュアオーケストラの演奏会で聴衆が期待することとは、音楽的批評ではなく「ハレ」の目撃者となることです。簡単には、「いつも仏頂面で働いているあの人が、ステージでは活き活きしている」ことを目撃することです。決してよい音楽を要求しているのではありません。ましてや、「ケ(日常)」の人たちが射程している音楽的批評に、我が音を差し出すのではありません。

「ハレ」の活動を、「ケ」の気分でのぞんだとき、人はもうその活動を続けていくことはできなくなります。「きちんと弾けるだろうか」「うまく弾けない」「合うだろうか」「外したらどうしようか」といった「ケ」の発想は不向きです。もしも自分自身が練習するのであれば、「ハレ」にふさわしい「美」を持ち合わせるかどうかと言う自分の中だけのこだわりになります。それは他の誰にも関係のないことです。祭りのはっぴをどう着こなすか、はちまきのひねり方をどうするか程度の話しです。

長くなりました。壮大な自己満足をアマチュアオーケストラはさらしているのではないのです。「ハレ」の祝祭に専念する必要があります。なので本番で速くなろうが、打楽器の人たちが祝祭的ムードを盛り上げようが、もう何でもいいんです。

だんじり祭りの前になるとそわそわする人、だんじり祭りになると急に輝き放つ普通のおっちゃん、だんじり祭りが終わると急に魂が抜けてしまう人。そんな「晴れ(ハレ)の舞台」にこそ、アマチュア音楽の神髄があるのだと思いました。

「自分を祝す人はハレの舞台に」「自分を呪う人はケガレの奈落に」
「ハレ」の人も「ケガレ」の人もまた凡庸で堅実な「ケ(日常)」がすぐそこで待っています。

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