「あなたの残った時間は、・・・」予後を知らせる?知らせない?
ASCOの進行がん患者のケアに関する、最新のポジションペーパーを読んだ。[1](http://bit.ly/dP1xUj)そこには、「患者は、予後と治療の選択肢について知らされるべきである。そして、治療やケアに関する患者の好みと心配事が反映されることが保障されなければならない」とある。
また丁度外来には「妻に残された時間をちゃんと話した方がよいと今の病院の先生も看護師さんも言うんです。でも自分にはどうしても伝えられない。聞かせたくないと思ってしまうんです。私は間違っているんでしょうか。」とお話しになる方に出会った。
「知る」と「知らない」
「知りたい」と「知りたくない』
「知らせるべき」と「知らせないべき」
この二極化した概念そのものがどうもしっくりとこない。
目の前にある葛藤を二極化した概念に操作して、物事の判断をしようとする訓練を日本人も含めて長いこと教育される。リベートもその最たる例。ある物事に対して「賛成」と「反対」に分けて議論する。議論は平行線などよく指摘されるが、そもそも平行線になりつづける宿命なので当然の帰着である。問いが悪いとしか言いようがない。もし「患者さんに残った時間を知らせるべきでしょうか、それとも知らせるべきではないでしょうか」と議論を始めたとき、物事の解決はできそうだが、ますます本質から離れていく。意見の応酬をして、きっとその意見は自分の経験から得た言葉だけでなく、誰かが言いそうな、誰かが言っていたような言葉が延々と並ぶ。
そして最後にまとめ役の人が「よい議論でした。これは個人個人によってちがうと言うことですね」としめて終わる。議論だけならそれでよいが現実の患者さんや家族はどうしたらよいのか。
医学が「こころ」と「からだ」を二極化させることで、失う本質とは人間そのものの本質だろう。そして医学が「治る」と「治らない」を二極化させることで、失う本質とは人間の幸せの本質だろう。
ホリスティックな立場をとる、緩和ケアを含むアプローチは、「治る」と「治らない」の二極化した概念とどうか手を結ばないで欲しい。その概念と手をつなぐと、みんなの理解は得やすく、執筆した本は売れるでしょうが、アプローチの本質が損なってしまう。
「治らない」人達をみて、緩和ケアを目指した。「治らない」人達をみて、代替療法を目指した。「治らない」人達をみて、開業した。こういう風に「治る」と「治らない」の二極化した概念で自分の活動を操舵すると、きっと自分自身の本質が損なう。何故ならそこには対決が生じるから。
結局、予後を知らせる?知らせない?の二極化した概念の枠の中に自分が入ってしまえばそこから出てこられない、終身概念と言葉の檻の中に入れられる。
僕は、ASCOの論文を読み、そしてその直後に悩むご主人にお会いしてこう話しました。
「予後を知らせた方がよいというお医者さんも、予後を知らせない方がよいというあなた(ご主人)も、本当にご本人を思って悩んで悩んで話した事は、きっとご本人にとってよい結果となるはずですよ。」
「知らせる、知らせないことよりも、どうしようか迷い悩んでいる姿は、患者さんはきっと黙って気がついているんです。そして患者さん、あなた(ご主人)、医者、看護師の間の心が触れあいある間合いが生まれたときにきっと物事は動いていくんです。」
「だから知らせるがどうか、まだ一緒に考えていましょうね」
どのように話すか逡巡することだけが、意味のあることではないかと思う。
医師が「知らせるべき」「知らせないべき」の二極化した概念のどちらに足場を置くかと自分に問いかけ続けている以上、いつまでも大事な事はわからない。なぜなら、逡巡すること、患者さんを思い、悩むことを放棄した医師から順番に自分の立場が表明されることを何度も見てきたから。
1)Peppercorn JM, Smith TJ, Helft PR, Debono DJ, Berry SR, Wollins DS, Hayes DM,
Von Roenn JH, Schnipper LE. American Society of Clinical Oncology Statement:
Toward Individualized Care for Patients With Advanced Cancer. J Clin Oncol. 2011