コミュニケーションは道具
緩和ケアの研修でも「コミュニケーションの重要性」と「コミュニケーションスキルの習得」が強調されている。僕は、「医師がコミュニケーションスキルを学ぶと医療は良くなる」という幻想には100%同意します。それでも、コミュニケーションスキルの重要性を説く医療者やその他の人たちになぜか嫌悪感を抱く。自分もそのスキルを伝授することをずっと教育しているにも関わらずである。
初めて僕が、コミュニケーションスキルトレーニングを受け、ロールプレイ(お医者さんごっご)を恥ずかしげもなくやってのけたのは、その魅力に気がついたからである。自分に医療でぼんやりとしていたところに光が当たり、くっきりとした輪郭のしっぽをつかんだ気がした。夢中になって以降も勉強し、臨床で何度も何度もくり返し実践した。くり返す度に、自分の体に入り自然になっていく。自然になるとさらに次の次元に移る準備が始まる。さらに高度なコミュニケーションを求めるようになる。
その一つは「他の医療者にもこのコミュニケーションスキルトレーニングのすばらしさに気がついてもらえないか」という思いである。
しかし、思ったよりもしっくり来ない。繰り返し他の医療者(研修医たち)にコミュニケーションを語ってもだんだんと自分の中で嫌悪感が生まれてくる。それはなぜだろうと最近になって少しずつ分かってきた。
まず、コミュニケーションスキルを追求する方法論の開発と、学習の機会を増やす策を練るだけでは、うまくいかないと痛感した。一般的にコミュニケーションスキルがないと思われる医療者の、一見傍若無人な医師の心理過程を観察しどういうインプットからおかしなアウトプットが生まれるか。私にはその医療者の心理の方が興味をもつようになってしまった。そのような傍若無人なな医療者にコミュニケーションの重要性を説いても、「正しい日本語をつかいましょう。他人を思いやりましょう」と聞こえるだけ全く耳を貸さない。
そこで、もっと現実的に医療のコミュニケーションを考えるようになった。
「あなたがコミュニケーションスキルを体得することで、あなたの仕事が今までよりも円滑に進む道具となるでしょう」が僕の持論となった。
「あなたの外来、あなたの病状説明を短時間で終わるように援助します」「真夜中眠い時に救急外来で軽症の患者を診ても、苛立たず自分のパフォーマンスが維持できる方法を伝授します」と申し上げて、コミュニケーションスキルを伝授するとどうなるのか。そしてそのスキルに埋没させた有効なコミュニケーションが巡り巡って患者、家族の満足になる策を練るのはどうだろうかと考えた。
「自分にもっと時間があれば、良いコミュニケーションが達成できる」という多忙な医療者を前に、「いいや、時間があっても良いコミュニケーションはできない」というアンチテーゼを掲げて「効果的なコミュニケーションを考えよう」そして、それは「あなた自身がコミュニケーションを道具として手に入れる方法です」と説明する。
このやり方で、自分が本当にしたいコミュニケーションスキルの重要性を伝播、教育する方法を自分の持論としました。
さらに嫌悪感について考えてみると、「コミュニケーションの重要性」に気がついた者が(自分も含めて)本物の良い医療を手に入れることができるという論法が苦手なのです。覚醒しないあなたは、まだ不完全で覚醒する勇気さえあればあなたは変われるのですというメッセージに人は嫌悪します。さらに、「コミュニケーションの重要性」に気がつき、身銭を切って、「教えて下さい」となった人に教えるというのは、もうすでに教育者やコーチとしての自分の役目のほとんどを終えています。つまりその方は気がついている。つまり本来イニシエーションの終わった方には、もう同士として同じ志向を語り合えばよい。そこには共感はあっても教育はない。
そして、気がつく。
緩和ケアもスピリチュアルもコミュニケーションも時に嫌悪される。それを語る人々のメッセージに、「覚醒しないあなたは、まだ不完全で覚醒する勇気さえあればあなたは変われるのです」と聞こえるから。大抵そういうメッセージは人々から嫌悪される。なぜならそれは「呪い」だから。
本物のコミュニケーションスキルの体得を通じて得たい、根本的な目標は、「優しく、思いやりのある医療者」の到来。でも訓練されないやさしさや、思いやりはプロフェッショナルの心がけではありません。なぜなら、瞬発力、その時の気分、天候、家族の状態全てが医療者の感情に反映しますから。持続可能な「やさしさ」と「思いやり」がプロの仕事です。
そして、嫌悪されないコミュニケーションスキルトレーニングがあるとすれば、そんな「優しさ」「思いやり」が、医療者の心にもっと高い人間性に伏流する方法であろう。でもまだそんな方法を僕は知らない。
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