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2010年12月

2010年12月28日 (火)

一人になりたい時間

今日患者さんと話していて気がついた。彼女は自宅で一人暮らし。できるだけ一人で暮らしたい。家族は遠方。列車で3時間先。治療は放射線治療、化学療法は遠方で、そして、日々の事は緩和ケア病棟のある僕のところに通っていた。そして年末息苦しくなって入院してしまった。

彼女にとって、自宅は一人のペースで生きていけるホッとできるところ。遠方のお子さん宅もかわいいお孫さんがいて楽しいけどやっぱり疲れる。一人で生きていくのがよいか、家族の元へ行くのかずっと悩みながら過ごしてきた。

彼女と話していて気がついた。お子さん宅に行っても、一日1-2時間周りを遮断して一人になる時間を作らせて欲しいとお子さん一家に話したらどうだろうか。小さなお孫さんにもそのことをわかってもらって。その一人の時間に何を考えるでもない。無理に何かを考えようとせずただ一人静かに目をつむり時には居眠りして。その時間がきっとエネルギーをくれると思いますよと話しあう。自宅では一人なので、毎日自由な時間。その時間をうまく作ったらどうだろうかって話しあう。

その時間は恐らく瞑想にも似た時間。そんな時間は前にもツイートしたが、自分にもある。通勤のクルマの中。往復1時間の時。その時間にアイデアや考えがまとまる大切な時間。原稿の構想や、論文の込み入ったところをクリアにするのにまた、家族のこれからや自分の将来を。

自分には当てはまらないけど、お風呂の時間や、トイレの中でいろんなアイデアが湧くのも分かる。周りの世界と隔絶された時、心は鎮まり、新しいエネルギーを得る。瞑想というと難しく聞こえるけど誰でもこんな時間があると思う。

世界と隔絶できない一番つらい状況は、子供の小さい主婦。妻も小さな子供達をかわいいと思いつつも一人の時間を大切にしている。子供達にも「今から1時間はママを一人にする大切な時間よ」と教えるようにしよう。さりげなく公園に連れ出すだけでなく。

「一人にして!一人になりたい!」というと家族に、自分に気を遣ってくれ、放っておいてくれとネガティブなメッセージが伝わる。だから、「毎日、1時間だけ一人で静かにする時間が必要なの」と家族に伝える。大切な時間は、自分の回復と癒しのため。みなさんもどうですか?

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2010年12月16日 (木)

患者さんを思う心 贈り物と呪い


いつもすかたんばかりするけれど患者家族から感謝される医師
と、(きっと)正しい緩和治療をしているのに、醸し出す雰囲気の
せいか、それほど感謝されない医師」 の対比について。

要するにメタメッセージなんだと思います。どれだけ技法としてのコミュニケーションを学んでも、「本当に医療者が心の中で念じていること」が自ずと相手に伝わる。その念じていることの差だけだと思います。

受け入れやすく好まれやすい言い方をすれば「相手のことを本当に心から思っているか」どうかの差だと思います。

気をつけていないと医療者が、自分の中の理路と整合性を保つために、対話をすれば患者さんは「ああ、これは私に向けられたメッセージではないな」と直観します。でもその医療者の言葉には全く齟齬はありません。応対も丁寧で、知識にあふれ、また時には自信にも満ちあふれているでしょう。

でも、例えば「こんな時期に化学療法なんてもうするものじゃない」「こんな手順では終末期の鎮静を倫理的に行うべきではない」という正しい意見を医療者が発信したとします。その医療者の正しさというのはその医療者自身の呪縛にも似た観念ですから、もしも医療者が患者さんや家族の事を真摯に考えずに観念を述べれば、ただ相手も同じ呪縛に巻き込むつまり「相手を呪う」事をしているのだと思います。

人間というのは、案外「自分に対してメッセージをくれている」と思うときは、勝手に思ってくれるものです。僕もMLの投稿を拝見して、全く自分とは関係のない議論を傍観していても「勝手に」僕が自分宛のメッセージと受け取ればこうして刺激され(無意味な)意見をついつい投稿してしまいます。

患者さんは「自分宛のメッセージ(贈り物)」と「自分に対する呪い」を見抜く力は相当強いのだと思います。

「いつもすかたんばかりするけれど患者家族から感謝される医師」は絶えず贈り物をしています。自分の能力と心を患者さんに贈与をしているのです。

「きっと)正しい緩和治療をしているのに、醸し出す雰囲気のせいか、それほど感謝されない医師」は絶えず相手を呪っています。それは自分の呪縛の整合性を守り続けるために患者さんを巻き込むからです。

最後に付け加えると、贈与は正しい行い、呪いは悪い行いとは限りません。僕も今朝子供に「ちゃんとごはんを食べないとサンタさんは来ないよ!」と呪いの言葉を吐きましたから。

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緩和ケアのアイデンティティ。その迷い。

仕事のメーリングリストに投稿した内容を改変します。
緩和ケアに関する皆さんの努力により「緩和ケア」は日本語として人々の胸に記憶されたことと思います。日本語として登録された今だからこそ、「緩和ケア」って結局何?という根源的な問いに直面します。

メーリングリストではその概念に関しての議論がありました。

緩和ケア(palliative care)、支持療法 (supportive care)、終末期ケア (end of life care)、抗がん治療(手術、化学療法、放射線療法)また、best supportive careといった様々な言葉を含めた概念には、やはり「内輪のジャルゴン」と感じました。つまりこれらの概念をまとめ上げて図示してもには、この図を理解できる(かもしれない)身内を限定して排他的な概念を内包しています。それは図が複雑だという事だけではないと思います。
やはり自分も含めて希求されているのは、「宣言」のような未来志向のとにかく「ここで述べられているようなことを全然予期していない読者(医療者)たちにもわかるように」書かれているものでしょう。その点でWHOの疼痛ガイドラインや緩和ケアの定義やらは優れている。これらは、定義と名が付いていても絶えずまだ多くのまだ緩和ケアを理解していない医療者に対する未来のメッセージという強い意志が感じられます。そういう無垢な言語で表現された宣言の不可思議さと感動になかなか自分自身も出会えていません。

したがって、この緩和ケアの定義をアイデンティティの探求と重ね合わせれば、強い宣言が必要な時期なんだと思います。じゃあお前はどう考えているんだと言われればまだ多く壁があります。

リサーチのmethodセクションにどのように緩和ケアを(緩和ケアの提供を)定義するかにより明確にしたいというのであれば、NEJMの論文のappendixのように多岐にわたる活動を表記すれば良いと思います。

緩和ケアのアイデンティティを考える上で、いつも越えられない壁は「promoting or enhancing the quality of life」つまりQOLの向上が緩和ケアであるという概念です。一度アメリカ人の方が入院して受け持ちましたが、彼と彼の兄弟はQOLという言葉を普通に理解していました。でもQOLは人々の心に日本語としては登録されていないので、外来の説明では「暮らしをよくする」という動機を説明します。QOLということばの本質が理解できない。特にquality 質と言う言葉の本質がやはり日本語とは違う。この点はM先生が指摘されている通りだと思います。(あたりに相当する「言葉」がないような気もするのは(そういう現象や活動はあるでしょうが)、土着の概念ではないからか・・・)


そしてもう一つは「ケア」です。ケアという言葉の本質が理解しがたい。それは医師だからかもしれません。ある先生がご指摘のようにケアの二元対立がキュアであるとしてもその系譜の祖先は、ヒーラーとシャーマンと思います。ケアという行為そのものの本質が何であるのか、単なる苦痛の緩和、入浴の介助に留まらないケアの意味がまだ本当は腑に落ちていない。なのでこの提示された定義も腑に落ちず、そのキュアとケアの定義の中で緩和ケアの着地点は僕には見いだせませんでした。


このQOLとケアという、緩和ケアのセントラルドグマともいうべく言語の壁が日本人の自分にとっては高く、いつまでも本質が分からず多くの言葉に翻弄されてしまう。それでも自分の専門領域は、end of life careなんだと強く意識するようになりました。


(引用、参考 内田樹 無垢の言語とは http://bit.ly/fMj7XZ )

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2010年12月14日 (火)

悩み相談

いろいろと思うところあり、最近仲良くして頂いているドクターと一緒にツイッター上で悩み相談を受け付けることにしました。ラジオ的なやり方で、医療者の方々のどんな相談でもいいと思います。自分も悩んでいるので、悩めるもの同士ですよね。

匿名、実名不問。
プライベート、職場不問
答えが今ひとつだったらご愛敬。
私的な内容なら、ダイレクトなやりとりに変更。

皆様ツイッター上で #radiodr のハッシュタグでどうぞ。
え? ハッシュタグわからない?
どうか調べてみてください。

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2010年12月 2日 (木)

コミュニケーションは道具

緩和ケアの研修でも「コミュニケーションの重要性」と「コミュニケーションスキルの習得」が強調されている。僕は、「医師がコミュニケーションスキルを学ぶと医療は良くなる」という幻想には100%同意します。それでも、コミュニケーションスキルの重要性を説く医療者やその他の人たちになぜか嫌悪感を抱く。自分もそのスキルを伝授することをずっと教育しているにも関わらずである。

初めて僕が、コミュニケーションスキルトレーニングを受け、ロールプレイ(お医者さんごっご)を恥ずかしげもなくやってのけたのは、その魅力に気がついたからである。自分に医療でぼんやりとしていたところに光が当たり、くっきりとした輪郭のしっぽをつかんだ気がした。夢中になって以降も勉強し、臨床で何度も何度もくり返し実践した。くり返す度に、自分の体に入り自然になっていく。自然になるとさらに次の次元に移る準備が始まる。さらに高度なコミュニケーションを求めるようになる。

その一つは「他の医療者にもこのコミュニケーションスキルトレーニングのすばらしさに気がついてもらえないか」という思いである。

しかし、思ったよりもしっくり来ない。繰り返し他の医療者(研修医たち)にコミュニケーションを語ってもだんだんと自分の中で嫌悪感が生まれてくる。それはなぜだろうと最近になって少しずつ分かってきた。

まず、コミュニケーションスキルを追求する方法論の開発と、学習の機会を増やす策を練るだけでは、うまくいかないと痛感した。一般的にコミュニケーションスキルがないと思われる医療者の、一見傍若無人な医師の心理過程を観察しどういうインプットからおかしなアウトプットが生まれるか。私にはその医療者の心理の方が興味をもつようになってしまった。そのような傍若無人なな医療者にコミュニケーションの重要性を説いても、「正しい日本語をつかいましょう。他人を思いやりましょう」と聞こえるだけ全く耳を貸さない。

そこで、もっと現実的に医療のコミュニケーションを考えるようになった。
「あなたがコミュニケーションスキルを体得することで、あなたの仕事が今までよりも円滑に進む道具となるでしょう」が僕の持論となった。

「あなたの外来、あなたの病状説明を短時間で終わるように援助します」「真夜中眠い時に救急外来で軽症の患者を診ても、苛立たず自分のパフォーマンスが維持できる方法を伝授します」と申し上げて、コミュニケーションスキルを伝授するとどうなるのか。そしてそのスキルに埋没させた有効なコミュニケーションが巡り巡って患者、家族の満足になる策を練るのはどうだろうかと考えた。

「自分にもっと時間があれば、良いコミュニケーションが達成できる」という多忙な医療者を前に、「いいや、時間があっても良いコミュニケーションはできない」というアンチテーゼを掲げて「効果的なコミュニケーションを考えよう」そして、それは「あなた自身がコミュニケーションを道具として手に入れる方法です」と説明する。

このやり方で、自分が本当にしたいコミュニケーションスキルの重要性を伝播、教育する方法を自分の持論としました。

さらに嫌悪感について考えてみると、「コミュニケーションの重要性」に気がついた者が(自分も含めて)本物の良い医療を手に入れることができるという論法が苦手なのです。覚醒しないあなたは、まだ不完全で覚醒する勇気さえあればあなたは変われるのですというメッセージに人は嫌悪します。さらに、「コミュニケーションの重要性」に気がつき、身銭を切って、「教えて下さい」となった人に教えるというのは、もうすでに教育者やコーチとしての自分の役目のほとんどを終えています。つまりその方は気がついている。つまり本来イニシエーションの終わった方には、もう同士として同じ志向を語り合えばよい。そこには共感はあっても教育はない。

そして、気がつく。

緩和ケアもスピリチュアルもコミュニケーションも時に嫌悪される。それを語る人々のメッセージに、「覚醒しないあなたは、まだ不完全で覚醒する勇気さえあればあなたは変われるのです」と聞こえるから。大抵そういうメッセージは人々から嫌悪される。なぜならそれは「呪い」だから。

本物のコミュニケーションスキルの体得を通じて得たい、根本的な目標は、「優しく、思いやりのある医療者」の到来。でも訓練されないやさしさや、思いやりはプロフェッショナルの心がけではありません。なぜなら、瞬発力、その時の気分、天候、家族の状態全てが医療者の感情に反映しますから。持続可能な「やさしさ」と「思いやり」がプロの仕事です。

そして、嫌悪されないコミュニケーションスキルトレーニングがあるとすれば、そんな「優しさ」「思いやり」が、医療者の心にもっと高い人間性に伏流する方法であろう。でもまだそんな方法を僕は知らない。

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