「生から死へのグラデーション」リヒャルトシュトラウスの四つの最後の歌を演奏して。
自分が出演し演奏した曲の感想を書き留めることは滅多にないが、今回は思うところあり書き留めておこうと思う。今回演奏した曲目は、リヒャルトシュトラウスの四つの最後の歌と、グスタフマーラーの第6番交響曲「悲劇的」でした。第1バイオリンとして演奏会に参加した。
日常人の生死を絶えず見守っているので、特に「四つの最後の歌」には強く心惹かれた。人が死に向かうとき何を思うのか。どんな心境になるのか。日常的に死にゆく人々に接していながらも言葉で表現できる世界では、その世界を描写できない。音楽にも死をモチーフにした作品がいくつかあるが、その描写が自分が日常的に感じている世界観とはうまくフィットしない。例えば、ワーグナーのトリスタンとイゾルデの「愛の死」というのも、生者の想像する「死」という状況を描写しているように思える。「死」というのは、何かが結実した瞬間ではなく、生から死へとグラデーションするもので、その光の変化には悲しみよりも、静けさ時には穏やかさが含蓄されている。そのグラデーションの死はさらに、死後も新たなグラデーションを描き、残される人々の中に別の光を帯びる。つまり、死は瞬間でも結実でも、終結でもなく、過程であり移行しつつある状態の一つというのが自分の感じている「死」の描写である。
ただ悲壮感の漂う別離の死というのは、残される人々の心で再現されるものであって、まさに死を体験している心には何が見えているんだろうといつもいつも感じる。
そのような「亡くなりゆく者たちの心象風景」を自分はいつも想像しながら、毎日の診療にあたり、病者に話しかける。彼らの体験している心象風景を何とか自分も体験できないか、共有できないかという好奇心の泉は、自分にとってはライフワークとも言える、抗えない一種の魅力となってしまった。
音楽の世界を見渡してみると、自分は決して多くの曲を知っているわけではないが、偉大な作曲家が「死」をモチーフしていることが、学問的に知られているものや、自分自信の個人的な印象として「死」の描写をしていると思われる箇所にであう。チャイコフスキーの第6交響曲、マーラーの第9交響曲、ブルックナーの同じく第9交響曲。これらの曲は全て「生者の死」を感じる。「死」そのものの描写にどこか「生への執着」が感じられるから。特に今回演奏したマーラーの第6番交響曲にも同じ執着を感じる。この曲では生への執着よりも、自分自身の社会的幸福や地位、名声、そしてまだ破壊されていない栄光への異常は破壊の恐怖が伝わる。それは静かで穏やかな「死」とは全くかけ離れている。
その静かで穏やかな「死」の描写を演奏し感じるのは、ショスタコービッチの第15交響曲と、今回演奏したリヒャルトシュトラウスの四つの最後の歌である。これらの曲に描写される「死」の過程は一番自分の体験している、グラデーションの死を描写するのに成功している。そのグラデーションの過程には、寂しさ、諦観、別離の悲しさ、手に入れた人生の収穫の放出といった俗世の死とは異なる体験が含まれる。死への過程は至って自然で、まるで生の間に死への過程を潜在的に脳の潜在意識の中に予めプログラムされいる科のように思える。そして、そのプログラムの過程をある時から病者は全て理解しているのではないか、生物にとって絶対的な内在する本能であると、医師の自分が明らかに感じるような心象風景が描写されていた。
そのような曲を演奏するプレーヤーにとっては、アマチュアであってもプロであってもその心象風景を描写する意識がなければ、音楽として存在できないのではないかという挫折感も感じた。教典主義とも言えるような、音楽を正確に演奏する基本原則にたちかえっては、全くその風景が描写されない。特に第4曲の「夕映えの中で」もそう。冒頭で描写される夕暮れとは、太陽が沈む空を情景描写しているわけではない。ほぼ一定した調性の中で展開される折り重なるようなフレーズは、死へのグラデーションの予告。またこのグラデーションを和声と調整で表現する、第1曲の「春」と概念上関連している。「そしてソプラノが終わった後に続く管弦楽は、肉体から霊魂が離れ天に向かう過程ではなく、死という一点を過ぎた後にも生まれる何か別の過程を描写していると感じる。それは、肉体の死、霊魂の不滅を証明する描写ではなく、「これが死というものなのだろうか」という最後の歌に呼応し、さらに肉体的な死以降の何らかの描写なのだと自分の日常の体験からも感じた。そこには「さすらい」の疲労はもはやない。また三途の川や天使の到来といった宗教や伝承の死後の世界を描写するものではない。予め生物が内在し理解している描写なのではないかと思う。このような自分自身の個人的なクオリア(http://bit.ly/bwJPAP) が多くのプレーヤーと共有できれば、きっとアマチュアであっても違う次元での音楽演奏、体験が達成できるに違いない。
生と死、それは現代医学の中で、二極化された肉体の状況を指し示す言葉ではなく、生と死の間にある緩衝領域の存在、すなわちグラデーションの存在を描写している。生きてもおらず死んでもいない。人間にもいや生物にはそのような状態が存在するのではないだろうか。そして、肉体の死を迎えた「亡くなりゆく者たち」もやはり死の瞬間は実感できず漂い徐々に移りゆく自分を体験しているのではないだろうか。
死とは瞬間ではなく過程である。その過程のグラデーションは生から死へと向かう一方向のグラデーションではなく、肉体の死を超えなおも続くのである。そのことを「四つの最後の歌」の演奏を通じて自分は深く実感した。
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