緩和ケアの偶有性 ('Serendipity' セレンディピティ )
昨日、今日と大腸癌の男性と話していていくつか思ったこと。その方は2ヶ月前に初めてお会いした。人なつっこい表情で、一番最初にお会いしてすぐに生死の話しや自分自身の死に対する不安を話し始めた。僕が緩和ケアにいるからと言うわけではなく、何の変哲もない普通の会話をしていてもなぜか話しはそういう方向へ行くときがちょくちょくある。何も哲学外来とかそう言うのではないんです。普通に外来しているだけなんですが、ある種の方には、何か話して良いですよって言うメッセージが伝わる。その方はある病院で「あなたは、急にお腹に出血して急変することもあるかもしれない。」と言われその言葉がとげのように心に刺さり毎日の生活にも影を落とす。その言葉が全ての心の可能性を閉ざし、思考が停止してしまう様子だった。
死への不安と言うよりも、その言葉で死の恐怖そのものが増幅され、それは彼が治癒不可能な疾患を抱いたときに「ああいつか自分も死ぬかもなあ」と静かに感じた死とは異質の者であることは確かな様子だった。「普通どの患者さんも自分がどうなっていくかまず自分が一番わかりますよ」。「突然状態が変わる人は確かにいらっしゃいます。でも多くの方はゆっくりと自分が分かるような時間の中で状態の悪化を感じています。それは誰かに教えてもらうものではないんです。自分の身体が感じることなんです。」「その時から一緒に考えるというのはどうでしょう。」そんな事を話した。「血が出たら出たとき。出なかったら自分でこれはまずいなと思ったときからまた一緒に考えましょう」と。そして2ヶ月後電話があり、入院となった。
これは身体性を重視しましょうよと言う僕の考え。頭(脳)で考えて、行動すれば不安も増し、自分自身の状態を見誤る。そして、本来身体の持っている力をうまく発揮できない。身体性の意識は、今の医療で見失った観点と思う。
「死はとなりの部屋にドアを開けて移るようなものじゃないですかねえ。となりの部屋にも持って行ける何かがあると思いますよ。」とか思いつきのことを話しあう。それが昨日。今朝お会いすると晴れ晴れした顔。どうしたのか聞いてみると「わたし死に様、死に際ばかり考えていました。」「今から死ぬまでのことを全然考えていなかったんです。もう一度家族ともいろんな話しをしてみようかと思ってます。」話しを通して感じたことは、医師は状態の悪化を事前にそれ程までに警告し、免責する必要があるのかと言うこと。「いつどうなってもおかしくない」とくり返す。
今後の治療選択を、完全に患者にゆだねてしまい、また選択するのはあなた、そして将来の警告もしましたよと記録に書く。訴訟対策なんだろうか。説明義務違反?何とも不思議な観念が蔓延しているなと自分でも違和感を覚える。少なくとも医師が「師」であることを放棄している気がする。
そして「病み悩んでいる人たちの話しは聞くのがよいのか」という命題。この患者さんとはとことん話しをしましたが、それは一定の効果や目標を持った者ではなくただ、僕と彼が会話を楽しんだだけ。その中で彼が何かを感じたり、何かが変わったり。僕は言葉の贈り物も道を示すこともない。それでも自分で何か考えが変わったりしていく。ああ、そうか。死というのはとなりの部屋に行くようなものとしたら、そのドアを開けるような仕事ではなく、「あそこにドアがありますなあ」とそんな事を自分はしているんだと。
緩和医療が今の医療が失った、人間性を取り戻すための分野であると今も医療者が信じているのなら恐ろしい。全人的苦痛と言われる苦痛を解釈するモデルは、他者の苦痛は分からないという前提から言語化したり、整理するためのモデルに過ぎない。またキュープラロスの死の段階もそう。彼と接していて強く確信したのは、彼の心の動きに医療や、緩和ケア的な言葉を添えたときに、意味を喪失する。例え他人が了解可能な状態になり複数の人間が彼の考えを共有できたとしてもそれは本来の意味を喪失している。
縁があって同じ時間、空間を過ごした者同士が、一緒に話した。それ以上の意味もないんだろうなあとつくづく思った。結果的に彼は「もう一度家族と話しあい、今まで独善的に全てを決めてきた自分を捨てて、これから化学療法も含めてどう生きていくのか考えたい」と話している。
彼はとても僕との出会いを喜んで下さっているが、僕も彼と握手して、「いやーこんな話しができてよかったですねえ」と。こういう会話に意味づけや解釈、ましてや医学的用語のラベルを貼りたくないと最近は強く思うようになった。「縁のある者同士が交わる」「安心する」これだけで十分。「安心」することが一番の支えになる。安寧や癒しはその上に構築される。
患者さんと相対したとき、「なんかわからんけど、話しているうちに意図しなかった新しい展開が生まれた」こんな事の連続で、最初から意図や計画なんてないんです。そういう時間は僕は感じている。
「聞いた方がいい」とか「聞かない方がいい」とかそういう議論ではなくて、「たまたま話していたらそういう話しになり、たまたま彼が何かに気がついた、それをたまたま僕も気がついた」僕にはそういうものだと言うことです。こういう過程は'Serendipity' (セレンディピティ 偶有性)として解釈できそうです。
セレンディピティとは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことである。(Wikiより)
コミュニケーションスキルトレーニングに代表される、意図した会話、ストックフレーズを用いた会話は確かに初学者には有用だが、これを繰り返すことで、人間をステレオタイプに分類し、固定観念から本来人間性を追求していたはずの緩和ケアがその本来の価値を喪失する。しかしそれに気がつく医療人は少ない。
病者と医療者との垣根を越えた、意図しない目的を持たない会話を通じて、その光と感動をお互い同時に見つけ出し新たな関係を見いだしていく。茂木健一郎が繰り返し使う「偶有性」に緩和ケアを見た時、新しい景色に出会える。
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