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2010年10月27日 (水)

若き頃の思い出

僕は大学を無事卒業し国家試験に受かり免許をもらった。最初は脳外科医を目指した。学生時代に見聞きした脳外科の教授の人柄と、それ以上に学生実習中に体験した、手術中の脳の外見とその世界はあまりにも美しかった。
脳外科医になって最初は大学病院で働いた。多くの先生方に可愛がってもらい、また初めての社会人として医者としての生活に戸惑いながらも、夢中だった。そしてわずか3ヶ月後の夏、まるで学徒出陣のようにすぐに高速道路の傍にある海沿いの漁業の町の病院に赴任になった。そこではけんかと交通事故のケガで運ばれる患者さんが多く毎日のように夜中に呼び出された。またちょっとした子供さんのケガでも、首から上のケガなら脳外科という至ってシンプルな方針だった。当然、多くの患者さんを時間外に診る必要があった。当直の医師はいてもほとんど自分が診察するために呼び出された。

時々脳卒中、特にくも膜下出血の患者さんが運ばれてくると検査から手術まで、8時間近くはすぐに過ぎた。夜中に患者さんが来れば終わるのは翌朝。そして朝が来ればすぐに次の日の仕事。そしてそういうときに限ってその次の夜はまた誰かが来た。
その地域の人たちには安全運転と、酔ってけんかするのはやめてくれ!と思いながら毎日を過ごした。とある祭りの日は最悪だった。この漁業の町では「棒祭り」といって、棒をもって何やら御輿を担ぐような祭りがあった。また町同士がこの棒でたたき合うという最悪の祭り。当然その日は棒祭り見物は出来るはずもなく仕事。
そう、仕事というのは、棒祭りでけんかして、頭にケガをした人の手当。頭にケガをするか頭の検査をしたら脳外科医が診るという実にシンプルかつ、実に僕にとっては恐ろしい規則の病院だった。部長は遠くに帰ってしまうので協力してくれない。毎晩のように僕がポケットベルをもって待機していた。
そんな毎日。大変だけど楽しかった。外科の若い先生ともいつまでも病院にいて、看護婦さんたちと飲みにいって憂さを晴らして。また土日になると結婚を約束していた今の妻とデートするのを楽しみにしていた。
デート中、食事をしていても、近くの島に船で渡って自転車でサイクリングしていても無情にいつでもポケットベルは鳴った。鳴ると、その当時は公衆電話から病院に電話して何があったのか聞いていた。
簡単な用事ではなくいつも妻はポケットベルが鳴る度に、つらそうな表情をしてすぐに笑って「行っておいで」って言ってくれた。当時遠距離恋愛で、新幹線で何時間もかけて週末に逢っていた。ポケットベルが鳴らないかといつも二人で怯えていた。一人の時もポケットベルの音に怯えていたが、二人の時はなおさらだった。
それでも何とか毎日毎日まるで1人2交代制のような仕事。昼勤務、夜勤務を連日し、土日も油断できず呼び出しも多かった。最初は頑張れたし、謙虚に一人一人診ることが出来たが、仕事に慣れない緊張と、連日の激務に徐々に心身が限界に達しようとしていた。
上司はいつも「若い時はみんなこうだからな!!まあ、がんばれ!」とだけ言い残し車で1時間半先の自宅に帰っていった。これを1年続けた時に、急に体が動かず何を思っても涙が出てくるようになった。食事をするのもおっくうで、誰かと楽しく食べようと思っても結局1人でつまらない食事をしていた。

それでも、患者さん、家族を含めた人が大好きで、今でもその頃に出会った人たちを良く思い出す。
あの頃感じていたことは今でもずっとつながっている。

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