« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »

2010年10月

2010年10月27日 (水)

二足のわらじははけない。

見逃していた、NHKのプロフェッショナル仕事の流儀。肺移植で高名な。京大の伊達洋至先生の話しを観ました。自分の以前に感じていたことを思い出しました。
僕は30歳になるころ内視鏡に夢中だった。あちこちで必死に勉強して、教えてもらい。テレビ画面に映る消化管の映像に本当に心を奪われた。様々な病変を削り取り、様々な管を入れて。その技術は習得がとても難しく、また習得は難しいが故に人を魅了する。そして自分も医学の道に入り、テクニックの世界に魅了された。

ある日から急に怖くなった。相手に苦痛を与えていることに自分でもどうにもならない位の違和感を覚えてしまった。それまでは、自分の手技が患者さんの役に立つと信じて疑わなかったが、自分が相手を傷つけているその思いが心に占めてしまう。

丁度その頃、外来にも来れない患者さんの診察をするために、必要に迫られて農村地区の在宅医療に夢中になった頃。病院で内視鏡をする自分と、患者さんの家で、台所を覗いておかずの話しをしている自分が、毎日の診療に同時に入ってきた。

「生活」や「その人そのもの」への関心と興味がどんどん深くなる。それが自分にとって、内視鏡を手放し、緩和医療に向かう最初だった。どちらも医者として大事なアートと分かっていても、自分の興味が「内視鏡」「医学のテクニック」ではない。また今で言う「在宅医療」でもない、「患者さんそのもの」つまり「人間」へと興味の対象が向かっていった。

「在宅医療」「緩和医療」「先端医療から失った人間性の回復」「社会復帰のための医療」いろんな言葉が自分の脳をぐるぐる回り出したけど結局分かったのは、「人が好き」という至って単純な答えだった。「この人どんなひとだろう」「この人どんな人生なんだろう」そういう医療を続けようと思い、結局ホスピスに。結局「人が好き」なままの自分で今に至る。これからどちらに向かうやら。優秀な外科医の人に新たな力を吹き込む奇跡を観ていると、自分の今までをふり返る良いきっかけになった。

外科医が「病院を去ったあとの、患者さんの生活」に思いを馳せるように、ホスピスで働く僕は、「病院へ戻るまでの、患者さんの生活」に思いを馳せるようになった。

「いってらっしゃい、また会おう」の医療と、「おかえりなさい、どうしてました」の医療。今日もまた体調を悪くして入院する人たちがいる。

ホスピスで働くために、30歳の時大学医局を出るとき、当時お世話になった教授から「なんでわざわざ敗戦処理する医者になる、どうして出家するようなまねをする」と言われた。まだ当時はそういう思われて普通だったかもしれない。やっと最近になって30歳の自分が何を見ていたのかわかる。

病者の毎日に勝ちも負けもない。病気の治療にも勝ちも負けもない。成果主義的な発想を自分自身の医療や、技術の習得に。また医学部大学教育、医局運営に。患者さんや家族への価値観の束縛に向けてはならないと、若い自分はうっすらと感じていたんだと今になって気がつく。

苦悩の10代、傲慢の20代、挑戦の30代を終わる今、これから自分の目と心は何を見ていくんだろう。

| | トラックバック (0)

若き頃の思い出

僕は大学を無事卒業し国家試験に受かり免許をもらった。最初は脳外科医を目指した。学生時代に見聞きした脳外科の教授の人柄と、それ以上に学生実習中に体験した、手術中の脳の外見とその世界はあまりにも美しかった。
脳外科医になって最初は大学病院で働いた。多くの先生方に可愛がってもらい、また初めての社会人として医者としての生活に戸惑いながらも、夢中だった。そしてわずか3ヶ月後の夏、まるで学徒出陣のようにすぐに高速道路の傍にある海沿いの漁業の町の病院に赴任になった。そこではけんかと交通事故のケガで運ばれる患者さんが多く毎日のように夜中に呼び出された。またちょっとした子供さんのケガでも、首から上のケガなら脳外科という至ってシンプルな方針だった。当然、多くの患者さんを時間外に診る必要があった。当直の医師はいてもほとんど自分が診察するために呼び出された。

時々脳卒中、特にくも膜下出血の患者さんが運ばれてくると検査から手術まで、8時間近くはすぐに過ぎた。夜中に患者さんが来れば終わるのは翌朝。そして朝が来ればすぐに次の日の仕事。そしてそういうときに限ってその次の夜はまた誰かが来た。
その地域の人たちには安全運転と、酔ってけんかするのはやめてくれ!と思いながら毎日を過ごした。とある祭りの日は最悪だった。この漁業の町では「棒祭り」といって、棒をもって何やら御輿を担ぐような祭りがあった。また町同士がこの棒でたたき合うという最悪の祭り。当然その日は棒祭り見物は出来るはずもなく仕事。
そう、仕事というのは、棒祭りでけんかして、頭にケガをした人の手当。頭にケガをするか頭の検査をしたら脳外科医が診るという実にシンプルかつ、実に僕にとっては恐ろしい規則の病院だった。部長は遠くに帰ってしまうので協力してくれない。毎晩のように僕がポケットベルをもって待機していた。
そんな毎日。大変だけど楽しかった。外科の若い先生ともいつまでも病院にいて、看護婦さんたちと飲みにいって憂さを晴らして。また土日になると結婚を約束していた今の妻とデートするのを楽しみにしていた。
デート中、食事をしていても、近くの島に船で渡って自転車でサイクリングしていても無情にいつでもポケットベルは鳴った。鳴ると、その当時は公衆電話から病院に電話して何があったのか聞いていた。
簡単な用事ではなくいつも妻はポケットベルが鳴る度に、つらそうな表情をしてすぐに笑って「行っておいで」って言ってくれた。当時遠距離恋愛で、新幹線で何時間もかけて週末に逢っていた。ポケットベルが鳴らないかといつも二人で怯えていた。一人の時もポケットベルの音に怯えていたが、二人の時はなおさらだった。
それでも何とか毎日毎日まるで1人2交代制のような仕事。昼勤務、夜勤務を連日し、土日も油断できず呼び出しも多かった。最初は頑張れたし、謙虚に一人一人診ることが出来たが、仕事に慣れない緊張と、連日の激務に徐々に心身が限界に達しようとしていた。
上司はいつも「若い時はみんなこうだからな!!まあ、がんばれ!」とだけ言い残し車で1時間半先の自宅に帰っていった。これを1年続けた時に、急に体が動かず何を思っても涙が出てくるようになった。食事をするのもおっくうで、誰かと楽しく食べようと思っても結局1人でつまらない食事をしていた。

それでも、患者さん、家族を含めた人が大好きで、今でもその頃に出会った人たちを良く思い出す。
あの頃感じていたことは今でもずっとつながっている。

| | トラックバック (0)

2010年10月22日 (金)

ご家族へのエール 生活を失わないように。

最近、がんの再発が診断された患者さんの家族から相談を受けた。「これから何に気をつけたらよいか。」真剣に考えていたらいくつかの言葉が心に浮かんできた。「まず生活を失わないことです。」どんなに不格好でもどんなに不自然でも、どんなにわざとらしくても今までの生活を続けるというひたむきな努力が大切だと思います。からだに悪いものを摂るのはやめた方が良いと思いますが、今までの生活を続けるという観点で考えましょうよ。

これから病気の治療に入ると、良いときも悪いときもあります。それでも生活という足場と、病気という足場の二つを持っていないと、病気の足場がぐらついたときには一気にバランスを崩してしまいます。それに病気の治療そのものが、生きるための目標そのものになるのはやはり心の全てが「病人」になってしまいます。「病人」になってしまえば、家族との生活や、自分が大切にしていた生活が価値を失ってしまったように錯覚してしまいます。

だから、どうか不格好でも、泣きながらでも、落ち込んでいても、気が乗らなくても「今までの生活」を何とか続けるようにしましょうよ。そして病気にどうするか考えましょうよ。ボクも病気の方は考えますから。そんなことを静かに話していた。でも全く準備した言葉たちではない。

ご家族はまだ心の衝撃は強くどこまで言葉が届いたか分からないけど、「腰痛の時に歩くと不格好だけどそれでも前に進むために工夫しますよね」と話すと腰痛持ちのその方には届いたようだった。

帰り道に今日お昼にあった別の患者さんを思い出した。その方はいつも明るく笑って、毎週インターネットで見つけた健康食品やら民間療法を嬉しそうに教えてくれる。そしてずっと玄米菜食、リンゴ、トマト、ざくろといった体にいいものをとり続けているとか。そしてその話しをふと思い出し、気がついた。その食品に病気を治す不思議な力が備わっているのではない。それは科学的に、栄養素が免疫やがんに何かしら影響があると考えるには、余りにも遠縁過ぎる。風が吹けば桶屋が儲かるの話しと同じ。「からだにいい」と信じた食べ物を食べることそれはすなわちボクの話していた「生活」を続けると言うこと。そして自分の決めた「からだにいい」ことを毎日ひたむきに、病状が悪くても良くても続けることそれが大事なのかもしれない。

「病気にいい」「がんに効く」と言われている食べ物は一見すると、科学的には根拠がないようにみえても、生活をどんなに不格好でも、泣きながらでも、落ちこんでいても、気が乗らなくても送っていくその下支えになっているんだと気がついた。がんの苦しみや不安、悩みに襲われても、毎日愚直にの食事に気を配るのは、「生活」を失わないための大切なことなんだと気がついた。そのご家族にも、昼にあった患者さんにも今度会ったときには、「信じて続ける何かを見つけて、それを続けて下さいね」って言おう。

|

2010年10月19日 (火)

ボクの禁煙 医者が禁煙するとき

ツイッターでぼやいた禁煙についてのこと、長らく思い出しませんでしたがまとまって言葉が出てきたのでここにも。

随分忘れていましたが、禁煙の時の思い出を。僕は16歳でタバコを覚えてしまい32歳で禁煙した。(もう時効?!)タバコを吸い始めたきっかけは「しゃべらなくてよい」から。気の利いたこと、人をくすっと笑わせることそういう会話が苦手で、タバコを吸っていると「どうだ!オレはタバコを吸っているから今はしゃべれんのだ。」と何だか自分の中で言い訳が出来るのを好んでいた。

それでもすぐにすぐに依存症となり、学校でもこそこそ隠れながらまた、一緒に隠れる仲間との時間や悪いことの共有がとっても楽しかった。成人になり堂々と吸えるようになり、大学に入り一人暮らしが始まるとどんどんすぱすぱと。

何のために吸っているのかもうわからず、食事をする、トイレへ行くそういう生活の一部にタバコを吸うことが同じになってしまった。そして医者になりそれでもすぱすぱ。「どうしてタバコをやめなあかん?」と開き直り。子供が生まれるとベランダですぱすぱ。いらいらするとすぱすぱ。

そしてある日曜日友人の結婚式に呼ばれた。そこで一緒のテーブルで大学時代「あ、あいついやだなあ・・・」という自慢話が好きな同級生。そいつもタバコをすぱすぱ。一緒にすぱすぱ。「たいたいよー、大学病院なんてストレス貯まるよなー」「タバコ吸う場所にも困るしよー。」と友人。

いやな友人に、いじわるな質問を思いつき「ほんで、タバコ吸うとストレスがへるんか?」と尋ねる。「いやそんなことないなあ」と友人。その時ハッと思った。(タバコ吸うオレはぐちぐち言いながら自慢話するコイツと同じレベルなんや)とつくづく。その帰りの新幹線で急にやめようと。「オレはあいつとはちがう!」変な動機だけど、生まれて初めての禁煙が始まった。そこここの本と同じ。急に「もう全部捨てる!」と捨ててしまう。ライター、タバコ、灰皿。未練なく。そしてそこから恐怖の依存症離脱の体験が始まるのである。

僕はホスピスで麻薬を扱う専門だったので、学問としても薬物依存については知っていた。まず最初に身体の影響について。
「便秘」するようになってしまった。これはニコチンが腸を動かすから。朝の快便はタバコのお陰だったと痛感。16歳から吸ったので未だに便秘気味。いやだねえ。
「咳、痰」が確実に減った。大量の煙によって発生するゴミの数々が減って楽になった。歩きながらどぶに痰を吐くのはあまりにもおぞましい。
「空腹感」がすごかった。ニコチンは食欲を抑える作用がある。なるほど、夕食が待ち遠しい帰り道は車でタバコを吸いまくっていた。あれは空腹をまぎらわしていたんだなあと思い出す。まるで高校生に戻り早弁していた気持ちを思い出す。新鮮な思い出に一時良い気分に。

問題は精神。依存症の患者の多くは数多くのウソと取引をする。自分もそうだった。どうしてそんなことを言い出すのかわからないけど、心に勝手に言葉が浮かぶ。家族に「禁煙でイライラいしているんだ!」と怒鳴る。そう、家族に「そんなにつらいなら禁煙やめたら」と言って欲しい。自分で禁煙を挫折したのではなく、家族が吸ってくれと言ってくれるから吸う。変な取引。ああ、依存症の患者はこうして意味不明な理論を展開するのかと本当に勉強になった。どこかに研究熱心な冷静な自分。

無性にタバコ仲間との別れが惜しくなる。いつもこそこそ自転車置き場の隅で職種を超えて集ってどうでもいい話しをしていたあの時間!変に貴重に思える。「ああ、仲間を失うくらいなら、タバコを吸っている歩がいいか」と変な取引。その頃には禁煙して3日も過ぎ強い、身体依存からの解放がなされたあとだった。自分の度胸試しにウーロン茶だけもって、かつてのタバコ仲間に混じる。でもそろそろ呪縛から解かれつつあった自分は、大の大人が集まって「おしゃぶり」を集団で吸っている滑稽さに笑えた。

身体依存も精神依存も脱却すると今度は、自分の発生させていた悪臭と、滑稽さに嫌気がさす。すると身体的にも精神的にもタバコの煙を憎むようになる。まずタバコの煙があるレストランへ行けなくなった。禁煙のバーがないのが今でもつらい。タバコの臭いが服に付くのがどうしても許せなくなる。飲み会の帰りにパンツまで他人のタバコの臭いが付くともう激怒。一気に帰ってから酔いが覚めてパンツを水洗いしてしまう。一度はセーターを帰り道にあまりの臭さに捨ててしまった。

でも今でもタバコを憎んでいても「タバコを吸う人」は憎めない。あれだけの依存症の呪縛から身体も精神も抜け出すには本当に苦労する。でも、タバコを吸う人たちに仕事で「ねえ、○○さん、どうしてタバコ吸うんです?何かの役に立ちます?」と話すと決まって僕と同じ体験が。「ちょっと息抜きに」「ちょっと仲間と語らえる」「ちょっと気分を変えるために」いちいちタバコ吸わなくてもそんなことできるじゃんと思えるようになってくる。そしていじわるな質問。「タバコを吸うとやっぱりアイデアがぱっとわくんですか?」それにYesと答える人はいない。

いずれにしろ身体と精神が自由になってから、タバコの効能がないこと薬理学的にも行動学的にも理解して僕の禁煙が終わった。その体験は今の研究、「医療用麻薬・オピオイドに関する、患者・家族の心理的反応」に活きている。世の中転んでもただでは起き上がらない!では皆さんも禁煙を!

ボクの禁煙は、その「自慢話ばかりする、いやな感じ大学の同級生」のお陰で成功した。今でもあいつは、大学病院の片隅で難しい顔しながら、タバコ吸っているのかなあ。

|

2010年10月 7日 (木)

納得できる理由

昨日不思議なことがあった。ホスピスに入院した患者さんが、急に帰ると話しネクタイまでして朝待っていた。約10日間の入院。その間に彼の感じていた心の孤独を聞き、今まで自分の事が相談できなかった。ここへ来て良かった、先生に会って良かったと話していた。

ホスピスで働いていると意図するしないに関わらずとても心がつながる方がいらっしゃる。信頼はとても嬉しく、自分の自尊感情をくすぐる。「ありがとう」と言われるだけで、この方に自分の全身全霊を注いでお仕えしようと思う。そして言葉でも「求めて下さる限り、ずっとあなたのためにお手伝いします。」と握手。それでも、急に病院を出て家に帰る。そして別のクリニックから在宅療養を受けると話された。それなら相談してくれたら良かったのにと内心思いながらも、快く送り出す。

ご家族も「すぐに紹介状を、画像を」と話す。全くイヤな思いなくささっと用意する。以前の自分ならとても心にとげが刺さりそうな出来事なのに最近は全く気にならない。ご縁がなかったと本当に思える。なぜか。
「納得できる理由」を追い求めるのをやめたから。医療者に限らず、患者さんも人は「納得できる理由」を追い求めてしまう。「なぜ心つながった相手が急にいなくなるのか。自分たちに何か原因があるのか」もしも納得できる理由がないとき悪い疑念だけが後味悪く残ってしまう。

患者さんも家族もいつも「納得できる理由」を探す。「どうして病気になった」「どうして悪くなった」「どうして食べられなくなった」「どうして動けなくなった」「どうして・・・」そこに「納得できる理由」を探すために医療者は哲学的な講話や、検査で裏付けた科学的な吟味を述べる。

医療活動を通じても、検査、経過、そして緩和ケアなら言動、精神状態全ての事象に「納得できる理由」を追い求める。病状の悪化には何かしら「納得できる理由」が必要になる。カンファレンスも「納得できる理由」を複数人で探し続ける。

新聞、報道、メディアも世の中におこる事象に対して、「納得できる理由」を探す。医療訴訟も「納得できる理由」をそこに探そうとする。でも真実の面が多面的で、僕から彼の心の動きと真実が、彼からは僕の心の動きと真実が見えない以上、「納得できる理由」を追い求める本質が判然としてくる。

意味がないと言うこと。僕が彼の人生を肩代わりできないように、彼も僕の人生に良い影響を与える義理もない。「ようこそ」「いらっしゃい」「ありがとう」「さようなら」。全てに納得を求めるのはもうやめた方がいい。その患者さんと出会うことになる納得できる理由なんてない。

それと同じように、その患者さんと別れる納得できる理由もない。だから反省したり振り返ったりはしない。彼と心がつながった瞬間に共有した喜びは確かに僕にも彼にも残る。それで十分。とかく教義的なホスピスでは陥りやすい危険な一面があると思った。

それは在宅療養や在宅死に教義的な価値を主張する医療者にも通じる。「患者さんのために」と語るその根底に、「教義的な理念を遂行し完成させる事を患者、家族に強いる」という危険性である。

そんな教義的な医療者の主張は、どこまでが自分自身の主張でどこからコピーが繰り返され出典が分からない主張なのか分からない。またいつも主張は「納得できる理由」を語り、同時に「一滴の不快感」を僕は感じる。

「縁がなかったから彼は帰った」「きっと家に帰りたくなったんだよ」「ここの何が不満なのかなあ」色んな声はスタッフからも聞こえてきたが、一言「いいじゃない。ここで言い時間を過ごしたわけだし。また戻ってくる日があるかもしれないね」、「それじゃまた」で終わる。

医療者は、患者さん、家族の心理を解剖しそこに「納得できる理由」を探し、追い求める習性がある。それは、病気を捕らえる検査や解剖のように自分自身のリテラシーと、知識のレベルでの「納得できる理由」に過ぎない。狭い見識の中で「納得できる理由」を追い求めるとき、その時点で各人の精神的成長と、集団組織の進歩は停止する。狭い見識を広げて新しい考え方や、新しい言葉で目の前で起きている事象を語らない限り、僕はきっと彼の心には近づけない。

「納得できる理由」を探す医療者の心。自分の行為から反省をしたり、自分が進歩したりする過程に思える。しかし実は、自分や組織の心を「今分かる自分の考え」で縛り、自分の職場と組織を「現時点での自分の考え」という檻を作る危険があることを忘れずにいたい。複数人で「納得できる理由」を探したとしても、そこには「納得する」という目的がある以上、全員が檻の中に入っているかもしれない。

| | トラックバック (0)

ホスピス、緩和ケア病棟で最初にお会いしたとき

よく初めてお会いした方に聞かれること、説明することをお伝え致します。他の施設にはあてはまらないかもしれません。予めご了承ください。いつも初めてお会いする方には2時間程度の時間を費やします。ご本人がいらっしゃらない場合は、ご家族とお話しします。

ご本人がいらっしゃれば、ご本人の考えを深く聞くことが出来ます。それまでの治療の葛藤や今の迷い、悩みをお聞きします。時には、ホスピスに紹介されたことを怒っていらっしゃる方もあります。ご家族だけいらっしゃった時には、それまでのご苦労や悩みをお聞きします。ご本人がいらっしゃると話しにくいこともよくお話しされます。また後日個別にご家族だけにお話を聞くこともあります。それは決して、ご本人に内緒で何かを打ち合わせているわけではありません。

ご本人には、ご本人の、ご家族には、ご家族の悩みがあるんだとつくづく感じます。それを一緒に話せないこともあると言うことです。紹介を不快に思ったり、怒っている方々には、「今日はまずこの聞き慣れない「緩和ケア」や「ホスピス」がどんなものか説明させてくれませんか」と話します。

まず、この病棟では、「生活」をするところだとお話しします。「痛みをとる、苦痛を減らす、治療をする」それは全て正しいのですが、まず「生活」と「暮らし」を手伝う所なんだと話します。「生活」に困った時、この病棟へ入院してください。それはあなた自身が決めて下さいと話します。医師や看護師が見立てて検査や診察で入院を決めるわけではない。あなた自身が「生活」を通じて、これではやっていけないと思った時それが入院の時ですと話します。

病気の状態、家庭の事情、気持ちなどなど全てがその方の「生活」に影響します。ですから、苦しんで入院するということだけではありません。「あなた自身が一番気がついている、生活の困り具合」で入院するかどうか決めるのですと話します。

「痛みが強くても」「独りで悩んでつらくなっても」「誰も食事を作ってくれなくても」「しばらく家から離れたいと思っても」「今の治療を少し休みたいと思っても」すべて、生活に困っているんですから入院してもらってよいですよと話します。

そして、退院するのもあなた自身が決めて下さいと話します。「退院せずにずっといたい」と思うのもあなた自身の選択。「家に帰る」というのもあなた自身の選択。あなたがどうしたいかを一緒に考えて、それを応援しますとお話しします。

ホスピスでは「死を待つ」という人たちもいますが、それは「ホスピスで死を迎えたい」とご本人が決めればそうなります。「一度入院すれば退院できない」という人たちもいますが、「ホスピスでずっと入院していたい」と決めればそうなります。

入院して、まだ力がある方や、退屈した方には一度家に帰ってみませんかとお話しすることもあります。でもそれは一緒に決めて、帰る手伝いをしますし、その後どう家で暮らし、困った時はどうするのか一緒に考えてからです。また入院したいと思えばまた引き受けます。

家に帰ることが出来ないのであれば、入院を続けて一緒に過ごしましょう。毎日の生活を手伝います。私たちは、病棟に「閉じ込める」ことも「追い出す」こともしませんよ。ですから、入院も退院も随分皆さん色々です。自分が今、どうしたらよいか分からなくなったらまた一緒に考えましょう。

病棟での治療は、「あなた自身がきちんと効果が分かる、体験できる治療」をします。病気にとって正しい治療でも、あなた自身がきちんと「ああ、この治療でよくなったな」と気がつくことがなければ採り入れることはできません。(=QOLの向上)

ですから、抗がん剤の治療は採り入れにくいのです。抗がん剤治療を受けて、今までに「食事がおいしくなった、体が軽くなった、寝込んでいたが歩けるようになった」という体験をもった方はとても少ないです。あなたはどうですか?

もしも、抗がん剤治療ができる体力がついたり、抗がん剤治療をもう一度受けたいと考えるなら、検査をして一緒に考えましょう。その時には、他の病院や、他の病棟で治療を受けることを、僕が先方の先生と相談します。

心肺蘇生について考えたことありますか?よく言われている延命治療とか尊厳死とか言われていることです。これも僕らは、具合の悪い状態の延長で心臓や停まったり、呼吸が止まった時は僕らの手や、機械で治療をはじめることはありません。

なぜかというと、僕らの手や、機械が、患者さんに新しい力を生み出すこがないからです。また患者さんが、その治療を「よい治療をうけた」と体験できないだろうと考えるからです。蘇生は患者さんをすぐ直前の状態に戻すことです。その状態がもしも意識がない状態ならどうでしょう。

直前までお元気に歩いている方が、心臓の病気や、事故で倒れてしまった時、それは心肺蘇生をするのです。なぜなら、直前までお元気だったからです。僕らもその時の状態で、どうするか考えているのです。患者さんが生きる力が残っていると思う時、それは心肺蘇生をするかもしれません。

色んな事をいっぺんに話したので、覚えきれないかもしれませんね。最後に大事なことを話します。ホスピス・緩和ケア病棟は「あなたが生きるのを手伝うところ」です。「あなたが生活に困った時、手伝うところ」なんです。

例え、病状や身体を変えることが出来なくても、あなたは、自分の生活する環境を変えることが出来ます。僕達の病棟を選ぶかどうか決めるのはあなたです。僕らは選ばれる側なのですよ。ご縁があってここで生活することになれば、毎日持っている知恵と技術とをあなたに捧げます。

今日は長い話しを聞いてくださってありがとうございました。(必ず握手します)何か話したいこと、聞きたいことはもうありませんか?(一番最近こういう話しをしていました。)

| | トラックバック (0)

2010年10月 1日 (金)

緩和ケアの偶有性 ('Serendipity' セレンディピティ )

昨日、今日と大腸癌の男性と話していていくつか思ったこと。その方は2ヶ月前に初めてお会いした。人なつっこい表情で、一番最初にお会いしてすぐに生死の話しや自分自身の死に対する不安を話し始めた。僕が緩和ケアにいるからと言うわけではなく、何の変哲もない普通の会話をしていてもなぜか話しはそういう方向へ行くときがちょくちょくある。何も哲学外来とかそう言うのではないんです。普通に外来しているだけなんですが、ある種の方には、何か話して良いですよって言うメッセージが伝わる。その方はある病院で「あなたは、急にお腹に出血して急変することもあるかもしれない。」と言われその言葉がとげのように心に刺さり毎日の生活にも影を落とす。その言葉が全ての心の可能性を閉ざし、思考が停止してしまう様子だった。

死への不安と言うよりも、その言葉で死の恐怖そのものが増幅され、それは彼が治癒不可能な疾患を抱いたときに「ああいつか自分も死ぬかもなあ」と静かに感じた死とは異質の者であることは確かな様子だった。「普通どの患者さんも自分がどうなっていくかまず自分が一番わかりますよ」。「突然状態が変わる人は確かにいらっしゃいます。でも多くの方はゆっくりと自分が分かるような時間の中で状態の悪化を感じています。それは誰かに教えてもらうものではないんです。自分の身体が感じることなんです。」「その時から一緒に考えるというのはどうでしょう。」そんな事を話した。「血が出たら出たとき。出なかったら自分でこれはまずいなと思ったときからまた一緒に考えましょう」と。そして2ヶ月後電話があり、入院となった。

これは身体性を重視しましょうよと言う僕の考え。頭(脳)で考えて、行動すれば不安も増し、自分自身の状態を見誤る。そして、本来身体の持っている力をうまく発揮できない。身体性の意識は、今の医療で見失った観点と思う。

「死はとなりの部屋にドアを開けて移るようなものじゃないですかねえ。となりの部屋にも持って行ける何かがあると思いますよ。」とか思いつきのことを話しあう。それが昨日。今朝お会いすると晴れ晴れした顔。どうしたのか聞いてみると「わたし死に様、死に際ばかり考えていました。」「今から死ぬまでのことを全然考えていなかったんです。もう一度家族ともいろんな話しをしてみようかと思ってます。」話しを通して感じたことは、医師は状態の悪化を事前にそれ程までに警告し、免責する必要があるのかと言うこと。「いつどうなってもおかしくない」とくり返す。

今後の治療選択を、完全に患者にゆだねてしまい、また選択するのはあなた、そして将来の警告もしましたよと記録に書く。訴訟対策なんだろうか。説明義務違反?何とも不思議な観念が蔓延しているなと自分でも違和感を覚える。少なくとも医師が「師」であることを放棄している気がする。

そして「病み悩んでいる人たちの話しは聞くのがよいのか」という命題。この患者さんとはとことん話しをしましたが、それは一定の効果や目標を持った者ではなくただ、僕と彼が会話を楽しんだだけ。その中で彼が何かを感じたり、何かが変わったり。僕は言葉の贈り物も道を示すこともない。それでも自分で何か考えが変わったりしていく。ああ、そうか。死というのはとなりの部屋に行くようなものとしたら、そのドアを開けるような仕事ではなく、「あそこにドアがありますなあ」とそんな事を自分はしているんだと。

緩和医療が今の医療が失った、人間性を取り戻すための分野であると今も医療者が信じているのなら恐ろしい。全人的苦痛と言われる苦痛を解釈するモデルは、他者の苦痛は分からないという前提から言語化したり、整理するためのモデルに過ぎない。またキュープラロスの死の段階もそう。彼と接していて強く確信したのは、彼の心の動きに医療や、緩和ケア的な言葉を添えたときに、意味を喪失する。例え他人が了解可能な状態になり複数の人間が彼の考えを共有できたとしてもそれは本来の意味を喪失している。

縁があって同じ時間、空間を過ごした者同士が、一緒に話した。それ以上の意味もないんだろうなあとつくづく思った。結果的に彼は「もう一度家族と話しあい、今まで独善的に全てを決めてきた自分を捨てて、これから化学療法も含めてどう生きていくのか考えたい」と話している。

彼はとても僕との出会いを喜んで下さっているが、僕も彼と握手して、「いやーこんな話しができてよかったですねえ」と。こういう会話に意味づけや解釈、ましてや医学的用語のラベルを貼りたくないと最近は強く思うようになった。「縁のある者同士が交わる」「安心する」これだけで十分。「安心」することが一番の支えになる。安寧や癒しはその上に構築される。

患者さんと相対したとき、「なんかわからんけど、話しているうちに意図しなかった新しい展開が生まれた」こんな事の連続で、最初から意図や計画なんてないんです。そういう時間は僕は感じている。

「聞いた方がいい」とか「聞かない方がいい」とかそういう議論ではなくて、「たまたま話していたらそういう話しになり、たまたま彼が何かに気がついた、それをたまたま僕も気がついた」僕にはそういうものだと言うことです。こういう過程は'Serendipity' (セレンディピティ 偶有性)として解釈できそうです。

セレンディピティとは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことである。(Wikiより)

コミュニケーションスキルトレーニングに代表される、意図した会話、ストックフレーズを用いた会話は確かに初学者には有用だが、これを繰り返すことで、人間をステレオタイプに分類し、固定観念から本来人間性を追求していたはずの緩和ケアがその本来の価値を喪失する。しかしそれに気がつく医療人は少ない。

病者と医療者との垣根を越えた、意図しない目的を持たない会話を通じて、その光と感動をお互い同時に見つけ出し新たな関係を見いだしていく。茂木健一郎が繰り返し使う「偶有性」に緩和ケアを見た時、新しい景色に出会える。

|

« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »