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2010年9月17日 (金)

アンビバレントな思い「生きていたいし、死んでしまいたい」

ホスピスや緩和ケア病棟に入院をしようと思う、患者さんや家族は、「自分の死」を受け入れている、嫌いな言葉ですが受容していると考えている人たちが多い。しかし、何年もこの現場で働いてきてそこまで明確な方々に出会うことは本当に稀。むしろ死の足音が聞こえないときほど、死については患者さん、家族は死についてよく話します。

キュープラーロスの死の受容プロセスの影響もあるのであろう。自分の悪い状態を認知させることが、受容に結びつきそれが、平和な死を達成すると信じている医療者が意外と多いと気がつく。その受容を意図した予後告知の体験を患者さんからも聞かされる。

今まで話していた50代の男性の方もそう。ホスピスに来る前に自分の状態を話されていた。でも、ホスピスや緩和ケア病棟に来る方々は、「死を受容」しているのであろうか。「生を求めている」のであろうか。今日も話していて分かったのは、「こんなにつらい希望のない状態ならいっそ楽になりたい(死んでしまいたい)」という気持ちと、「家族とまだ一緒にいたい。(生きていたい)」という気持ちは絶えず同居する。このアンビバレント(二律背反)な感情を理解する必要がある。

絶えず葛藤は生じ、その葛藤は解決されるのを待っていると多くの健康者は理解している。しかしアンビバレントな感情を絶えず持っていることを理解し、「死にたいし生きたいよね」という立場で話しをしないと、ひずみが生まれる。
「生きたいのか、死にたいのかはっきりしなさい!(それによって治療がちがうから)」というのが医療者の本音であろうが、そういう葛藤の解決を迫っても多くの患者、家族には答えられない。葛藤は何が葛藤しているのか確かめても解決しない。
どうして葛藤するのか他者が理解できるまで話し続けない限りアウフヘーベンは生まれない。家族もアンビバレントな感情を持っていることは、先ほどのせん妄の遺族調査質的調査からも明らかだった。

家族のもつアンビバレントな感情は、僕にはフロイトの情愛と敵意の考察とは異種のものと思う。「いつまでも生きていて欲しい」「これだけつらい思いをしてきたんだから早く楽にしてあげたい」どちらもやはり、深い愛情に支えられていると思うから。
特に患者、家族に臨む医療者は、このアンビバレントな感情を意識して話す必要がある。どちらかに決着させようと決して思わないで欲しい。葛藤の解決は、どちらかの感情への決着ではない。だから、ホスピスや緩和ケア病棟へ移りたいという患者家族に決着を迫るのはやめてほしい。

僕の出会った患者さん、家族はみんな「生きていたいし、死んでしまいたい」ホスピスの患者さんが、死を受容して平穏な心で暮らしていると夢想しないで欲しい。

そしてこの矛盾する感情が、患者にも家族にも愛情と執着に基づいたものであると理解して欲しい。医学説明の納得とは次元が違うことをどうか知っておいて欲しい。アンビバレントな感情を支えるにはアンビバレントなままで居続けられるように、自分の考えも決着させないこと。

だから、この患者さんには「生きていたいなら、できる手伝いは全部しましょう。でも死にたくなったらまた話して下さいね。その時はまた死について一緒に考えましょう。」と話しあいました。
「生」にも「死」にも軸足をかけずにその間にいる。それが自然なのでは。「初期からの緩和ケア」といって「生」を強めることも、「死を待つ家」といって「死」を強めることもない中立な考え。それが自分には一番ぴったりとくる終末期医療の通奏低音と思います。

.「退院できるホスピス」「化学療法のできる緩和ケア病棟」「在宅の『死』は自然」「病院の『生』は無意味」なんだか、(医療用語)+(生・死)のストックフレーズには飽き飽きしています。アンビバレントな生死の葛藤を超えていく哲学や概念をもっと吸いこんで、明日会う患者さんたちに贈りたい。

付記 ところでベートーベン以降ほとんどの音楽(交響曲)はアンビバレントな葛藤に新しい価値を付加して曲が終わります。僕が、どの交響曲のコーダも好きなのはそれが理由かも知れません。ブルックナーのコーダには、僕の考えている終末期医療に通じるヒントが含まれています。

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