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2010年9月 8日 (水)

民間の免疫療法に対する私の意見と立場

最近MLやTwitterで議論した内容で自分の考えがある程度まとまったので書いておきたいと思います。

僕の近所に住む、近所の大学で内田樹先生という有名な方がいらっしゃいます。多くの著書も書いていらっしゃいますし、お読みになった方もいらっしゃるかもしれません。2006年の緩和医療学会神戸大会でもご講演頂きました。その先生の洞察が一番自分にとってはフィットします。一部改変いたしますが、ほぼ同じロジックであると思います。(と思います。内容は内田先生の書かれたものを自分が解釈していますのでもちろんある程度モディファイされます。引用とはこういうものです。はい。。。)

 今の医療は、受ける治療、受けられるサービスも消費社会のビジネスモデルの影響を強く受けています。そして、薬物や治療が商品となり、患者が支払う治療費すなわち貨幣と交換されるという経済的な仕組みが好む好まずに関わらず、深く国民の心に植えつけられています。
 医療消費者である患者は、自分自身が得られる成果すなわち健康の維持、疾病の改善に貨幣を支払います。すると患者自身は消費者的嗅覚が優れていきますから、多くのネット上に蔓延する情報をあたかも、これから購入しようとする商品をどれだけ効率よく手に入れるのかを吟味します。自分自身の貨幣と受けられる医療サービスの「等価交換」を探求するのです。

 私たちが新型テレビをどのメーカーでどの店で購入するのが効率的かを吟味することと、患者、家族ががんの治療を吟味することは同一平面上にないと考える方もいらっしゃるかもしれません。しかし「患者さま」「病院ランキング」「名医事典」といった非常にビジネスモデルの影響が強い記事に暴露され続けた患者、家族にとっては、すでに同一平面上に存在してしまうのです。「コンビニ受診」「救急外来での過剰な処方」「訴訟の増加」も強く消費型社会の影響を受けています。もはやこの社会状況を無視することは出来ないのです。

また、幼少時よりこの消費型社会を生きていく訓練を私たちは受けています。4歳の子供であっても、20歳の青年であっても、80歳の老人であろうと、貨幣価値は変わらないので、同一の商品やサービスと交換されます。

 すると、何が起こるか。
 
 自分たちの時間と金銭を貨幣として「緩和ケア」という商品を購入した場合、何が得られるのか。「免疫療法」という商品を購入した場合、何が得られるのか。「どの病院で手術を受けるとよいのか」「どの抗がん剤が一番効果的なのか」これは科学的な吟味が困難な、患者、家族には消費者的嗅覚で吟味される可能性が高いと言うことです。

 その時、「免疫療法」を商品として、巧妙に科学的な用語とブレンドしてインターネット上に提示したらどうなるでしょう。それが、「医療」であるのか、「商品」であるのかその弁別は恐らく消費者側である患者、家族には出来ない状態となります。「少しでもよい医療を受けたい」「少しでもよくなりたい」「少しでも役に立ちたい」という純粋な、患者、家族の心に、当然消費者的嗅覚を意識した商品として免疫療法が提示されているからです。

 そして、患者、家族の期待に応える商品が用意できなくなったとき、病院には品切れが起こります。そこで、患者、家族、医療者との心のつながりや信頼感が問われます。しかし品切れを「もうここでの治療はありません。=ここで提供できる商品はありません」と言われれば当然、新たな商品を自らの貨幣と等価に交換するべく、患者、家族は探求を始めます。
 
 商品価値は手に取った物品としての存在感と、そこから得られる体験が必ず組になっているのが消費社会の常識です。この観点から緩和ケアを考えれば、どうでしょうか。物品としての存在感がやや希薄であることは否めない。何を患者に手渡すことが出来るのか。緩和ケア病棟での入院を商品として提示することができるのであれば、その環境やアメニティを重視するでしょう。しかし、医療者の「親切な心」や「プロフェッショナルな介入」といった、物品としての存在感が希薄であるサービスを商品として認識できるのか。
 その点で、「免疫療法」は明らかに物品が存在し、医療行為の象徴とも言える「注射」という行為で患者に提供されます。

 この点でも非常に巧妙なビジネスモデルなのです。

 ある先生のおっしゃる「意味のない壺」ではなく「商品価値があるようにデフォルメしたしかし、壺として機能するかどうか手に入れてみないと分からない壺」というのが、免疫療法の実態です。なので、「免疫療法に意味がない」という普通の医療者の指摘は非常に簡単に、免疫療法のプロバイダーは打破できます。

 「それは免疫療法を受けてみないと分からないことです。」という反論です。先ほど述べた物品としての存在感と、そこから得られる体験の「体験」の二つに代価を支払わなければならないというところに狡猾さを強く感じます。

 過去の先人が開いた知見をエビデンスと呼び、そのエビデンスはアクセス可能な状態で提供されています。玉石混淆の医療介入を、エビデンスに基づいて吟味するのが本来医療者のあるべき姿です。エビデンスがないことには、自身が科学やエビデンスに関与する立場であれば反対しないと自分自身のイデオロギーを否定することになります。
 「おかしいことはおかしい」「駄目なものはダメ」とはっきりとしておかないと、この消費者的嗅覚が先鋭化していく時代に、医療はそのコントロールを失う可能性があります。
 医療や教育、労働が貨幣とその代償、商品と消費という軸にすでにこの日本は巻き込まれています。本来医療や教育はビジネスや経済に巻き込まれてはいけない領域であったにも関わらず、政策と施策者はかつて成功した日本経済と同じビジネスモデルで医療や教育は進歩すると信じていた。そこから生じたこの国の医療のひずみが、免疫療法という時代の優等生を育ててしまったと思うんです。

この免疫療法を提供するプロバイダーは、自分たちが悪い医療を提供し、患者、家族をだましているとは決して考えていないでしょう。しかし、緩和ケアも含む、その時代、その国の通常の医療を提供する私のような立場の人間が、免疫療法に対して寛容であったり、認めてしまったりそういうのは非常におかしい。何故なら、医療介入とはすなわち商品であるというイデオロギーを完全に受け入れる必要があるからです。

結論ですが、自費で行う免疫療法は、エビデンスがない医療介入で、かつ消費型社会の産んだ一種の商品であると考えます。そして、免疫療法や、その免疫療法を求める患者、家族を否定することはできません。免疫療法は科学的吟味をする対象で、患者、家族はケアする対象です。しかし、免疫療法のプロバイダーは強く非難されるべきだと思います。それは、提供する側の医療者と経営者が、医療を消費型商品として価値を貶めているからです。医療は今までもこれからも仁術として復権させる努力が必要です。

「壺」を作る職人や工場では伝統や技術を発揮し、その「壺」がどのように使われるか空想しながら、ひたむきに作り続けます。「壺を買う人」である患者、家族も、その「壺」の正当性と価値を信じています。「壺」も「壺を作る人」も「壺を買う人」にも何ら非難されるべき問題はないのです。問題は「壺を売る人」である免疫療法のプロバイダーです。「壺」の売り方に多くの問題を内在しもはや「壺を売る人」は「売る」行為自体に何ら問題を感じていない。「壺」が粗悪であるとか、「壺」が偽物であるという確信なく売っている。医療者の善意や正しい心の動きを利用され、「壺を売る」にふさわしい以上の過大な報酬という代価と医療者自分自身の善意を等価交換させ、「壺を売る人」に変化していく。

患者、家族は自分たちは消費者、お客の側で、貨幣を支払い、その等価交換として医療を商品として手に入れる錯覚に陥っています。消費側であれば「ありがとう」は出てきません。それは我々医療提供側が述べるべき言葉として、この社会では認知されてしまうのです。何かを買いに行ってお金を払う人が、レジの人に「ありがとう」とは言わない。でもレジの人が「ありがとうございました」と言わなければ、何だこの店員は戸客は不快になる。
医療崩壊、感謝の言葉が消えていく医療現場で私たちのからだにべっとりと染みついたこの消費型社会の経済観念、ビジネスモデルで医療が巻き込まれている。その危険を民間免疫療法の台頭からも感じるのです。

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