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2010年9月27日 (月)

「もう今日で生きるのをおしまいにします」

今朝ある方から言われた。「もう先生今日で私は生きるのをおしまいにいます。」40代の女性。腹部の痛みが今朝から急に強くなり黄疸もでている。とにかくいつもと身体の感じが違うとわかる。「しばらくだったけど、先生にも会えたし、看護婦さんたちにも会えたし、主人にも会えたし。もうつらくて生きられない。何か注射して。」ご主人とは以前からこういう日が来るかもしれないと話し合っていた。

こういう時にどう言葉をかけたらよいのか。なにを話し始めたらよいのか。言葉も見つからずしばらくどうでもよい会話をはじめる。「今日はいつもとちがうの?いつから変なの?」その間も短い時間の中で痛みが強まったり弱まったりする。ご主人とは理性的に、こういうときは安全に使える睡眠薬の点滴で、どうにか本人がやり過ごせる程度の痛みになるようにしよう、こういうときは残った時間も数日と思うと。終末期鎮静に関するいろいろな話をする。

本人にとっては、今までも逃げずに頑張ってきたのだから、もう許してって心の叫びが聞こえる。もちろんある程度コミュニケーションのトレーニングや対応の指針は知識と訓練がある。しかし、実際に心の準備なくこのような状況がある日急に目の前に広がる。

患者さんも、飾る余裕なくそのままの心でぶつかってくる。自分もむき出しになった自分でしか相対することはできない。「安楽死は手伝えないよ、ゴメン」と一言。「なんでー!」と返事。「僕のできるやり方でやってみるから」とさらに話しかける。

安楽死は日本では許されない、死にたいと思うほどつらいんですね、少し眠ることで苦しさをとりましょうかなど色んなストックフレーズはあっても、目の前にいる方にそのままあてはめられない、どれだけ訓練を受けても、経験があっても毎回強い集中力が求められる会話なのである

ついさっきまでそんな会話をしながら考えた。人は「他人の痛みを知りなさい」「他人の気持ちに共感しなさい」と教えるが本当にそんなことができるのだろうか。「自分に置き換えて」と言われても、目の前の方と自分を一致させられない。自分の気持ちと力を全部苦しむ患者さんに注ぐようなやり方が正しいと信じて、心を配って働いたこともある。配った心の補充を、趣味や家庭の中で行えばよいと。でもそのやり方は続かない。やはり相手の気持ちを理解することはできても、同化する事ができないから。

自分と他人の関係で境界線が見えないとかえって相手には迷惑がかかり、よかれと思っても的外れな事も多い。だからこの過酷な会話があふれる自分のような職場で、よい自分の状態を維持して長く仕事をしようと思えば、共感よりも慰めを身につけた方がよいと思うようになってきた。

「本当につらいよね。わかっていても大変だよね。でもこんな日も長くは続かないよ。できること、全部やってみるね」と話しかける。「先生だけが頼り。ありがとうね、さっきよりほんの少しだけど痛いのましになった」こう言われて気がついた。苦しみの最中にある患者さんから、自分と他人の境界線をきちんとひいてもらえたと。苦しいけどこれはやっぱり私の痛みなんだねって言われた気がした。僕も痛みや苦しみは自分の身につけた知識と技術で取り除かなくてはならない。

それでも自分と看護師と家族で力を合わせても、残る苦しみはある。限界を超えるには治療としての鎮静も必要だし、どういう自分であり続けるのか、いつも問われる。自分の心を配って共感しすぎれば、そこから逃げ出したくなる気持ちが強くなるかもしれない。苦痛のない死を実現したいと努力しても、快適な死とは種が異なる。大雨の中でお互いずぶ濡れになりながら、お互いをいたわり合って、相手を慰める。自分も相手もずぶ濡れで共感しなさいでは前に進めない。心を慰める事こそが、共感を超える概念かもしれませんね。

養老孟司先生が指摘の通り、「脳」はおのれを「不死」のものとみなしている。しかし「身体」は死を感知している。そんな「脳の声」と「身体の声」が反響して不協和音を呈したときに、耐え難い苦痛が出てくるのではないか。「身体の声」に耳を傾けるというのは、死を前にしてもとても難しい。

とある霊感を持つ方に言わせると、「身体から魂が剥がれるとき、うまく剥がれず無理な剥がれ方をすると耐え難い苦痛が生じる。」と。これもまた別の視点を拡大してくれる。医学的には「耐え難い苦痛が、終末期がんの2割に起こる」とされている。しかしなぜそうなるのかは分からない。

自分の解釈は、「どういうわけか、苦しみなく自然に亡くなれない方々がいらっしゃる。苦しい道に入っていってしまう方は、全体から見れば少数。でも確かにいらっしゃる。」と耐え難い苦痛を解釈する。

そして終末期の鎮静といった治療は、「自然に苦しみなく亡くなる道に戻す」ための治療と説明するし、自分の中でも位置づけている。「眠らせる、苦痛をとる」という解釈ではなくて、あくまでも自然な亡くなり方を理解した上での対処。


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