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2010年8月25日 (水)

思い出す6歳の男の子

今でも良く思い出す男の子のことです。
思い出せば、ER season 1の放映と同時に医者になりました。研修医のカーターも成長したように、自分も成長しあれから14年が(1996-)経ちました。医者に成り立ての頃に感じていたことは今でもずっと思い続けていて、「あの時は若かった」とか「あの時は青臭かった」とは全く思いません。またそう後になって思わないように今でも毎日を積み重ねています。努力と言うよりも昔の自分を思い出して恥ずかしいという思いをもつのはなんだか男の美学から外れる気がしているだけで、やせ我慢のようなものです。
今でも自分を緩和ケアへと導いた沢山の患者さんたちのことを思い出します。
その大切な思い出の一つをここに。

僕は大学を無事卒業し国家試験に受かり免許をもらった。最初は脳外科医を目指した。学生時代に見聞きした脳外科の教授の人柄と、それ以上に学生実習中に体験した、手術中の脳の外見とその世界はあまりにも美しかった。
脳外科医になって最初は大学病院で働いた。多くの先生方に可愛がってもらい、また初めての社会人として医者としての生活に戸惑いながらも、夢中だった。そしてわずか3ヶ月後の夏、まるで学徒出陣のようにすぐに高速道路の傍にある海沿いの漁業の町の病院に赴任になった。そこではけんかと交通事故のケガで運ばれる患者さんが多く毎日のように夜中に呼び出された。またちょっとした子供さんのケガでも、首から上のケガなら脳外科という至ってシンプルな方針だった。当然、多くの患者さんを時間外に診る必要があった。当直の医師はいてもほとんど自分が診察するために呼び出された。

ある日、6歳の男の子、もうすぐ小学校入学の男の子が交通事故で救急車で運ばれてきた。すぐ上の上司とCTをみて手術適応はないことがわかった。でもそんな適応は関係なく入院後も脳外科で見るのが決まりだった。
小児科の先生にルートや、腹部のエコーをお願いしながら昏睡状態で眠り続ける6歳の男の子の診療に日夜あたった。自分も上司もかわりばんこに出来ることを続けた。
でも出来る事って言うのはICUでやるような検査と治療の調整だけだった。その当時はまだ低体温療法も一般の病院で行われる治療ではなかった。2時間毎の血液ガス分析と、人工呼吸器の設定の見直し。尿量の確認、バイタルサインのチェック、電解質のチェックと補正。輸液の調整。上司と2人で、「まるで二人ICUだなあ!」と徹夜続きのお互いを励まし合いながら診療した。僕も外来の診察用ベッドに横になる仮眠を続けた。
いつもご両親が病室で本人の傍にいた。僕が入ると不安そうな顔でいつも立ち上がりじっと僕の処置を見つめた。そして検査の結果が出て、機械を調整する。ご両親には検査の結果を伝えた。それ以外何を話して良いのか全く分からなかった。居心地の悪い気持ちは、意味もなく点滴の管をいじったり、尿量をのぞきこむような動作で紛らわせていた。

ある日、車でひいてしまった相手が両親に謝罪に来た。本当に普通の方だった。目を真っ赤にして、泣きながら頭を下げていた。両親は泣き叫びながら運転手をなじっていた。その方が帰った後で、僕にお母さんが話した。「道の向こう側にいる子供を呼んでこっちだよって手を振ったら、子供が喜んで走った。その直後に目の前で轢かれてしまった」泣き崩れる。
そんな話を聞きながら、自分はどう声をかけていいのか分からなかった。また脳外科医の教育として、最後まで望みは捨てずに出来ることはやれっていうのが不文律だった。つまり、人工呼吸器につなぎ、ありとあらゆる薬を使い、検査をし、それを繰り返した。
また、その治療を不眠不休で続けることが、医師としての誠意だし、上司を含めて自分たちの知っている全ての治療、対応だと思い毎日毎晩続けた。それでも確か1週間を過ぎて、気管切開をどうするかを話しあい始めた頃、6歳の男の子は亡くなった。最後は心肺蘇生を上司と代わる代わるして。それが新しい命の力を生み出すことはないと分かっていても、ひたすら体を動かし続けた。

毎日検査のデータをみて頭を使っても、不眠不休で最後は心肺蘇生をして体を使ってみても、やはり男の子は亡くなった。ご両親の深い悲しみだけが部屋の中に取り残された。

それからも、脳外科医として1人1人の患者さんの正しい治療を行いながらも亡くなっていく患者さんを診て、また一方で、手術で生還する患者さんも診ていた。そして、徐々に大きくなっていく疑問に自分は気がついた。亡くなっていく患者さんと、その家族に何が出来ただろうって。
亡くなった患者さんの家族に「先生、ありがとうございました」って言われると、そりゃあ、あれだけ自分の時間と力の全てを注げば、家族の感謝に値する働きになるって思い込んでいた。また自分を犠牲にするからこそ、感謝されるんだとも思っていた。その感謝だけが、悲しみの中にあるご家族のせめてもの慰めになるんだと信じていた。他のやり方を知らなかった。

自分を犠牲にして、痛めつけることで患者さんや、ご家族の悲しみに向き合おうとした。

やはり、そんな毎日を過ごすことは出来ず1年半で脳外科医を辞めることを決意した。妻と結婚しても今の生活を続けていれば、自分の家族、自分の人生はなにか大きな欠損を抱えたまま生きていくのかと思うと心底ぞっとした。また、自分の感じている疑問「本当に亡くなっていく患者さんと、その家族に何ができるのか」探すために、次は内科の研鑽をし、農村部の病院で働いた。

その後、緩和ケアを知り自分の思っていた疑問が分かった。あの時亡くなった6歳の男の子は亡くなってしまった。でもあのご両親はきっと生きている。病院を出てからもずっと生きている。こうしている今もまるで時間が止まっているかのように、あの病室でいつまでも看病しているのではないかとも考えてしまう。あのまま時間が止まって、どこへも行けなくなっているんじゃないかって。
そのことを考えると気が遠くなるような重たい気持ちがする。

緩和ケアで働くようになり、あの時に自分はなぜこうしなかった、ああしなかったと13年経った今もまだ先週のように思う。あのご両親に、このつらい出来事を体験して、「つらいですよね、お子さんのこと」ってなぜ声をかけなかったのか。「どんなお子さんなんですか」と声をかけなかったのか。

黙って検査を続けることで、何か自分が一生懸命治療に打ち込むことで、ご両親の心を慰めようとするだけでなくどんな言葉で語り合ったら良かったのか。ナースと協働して、お子さんの看取りをよりよいものにするにはどうしたらよいのか、亡くなって病院を出た後、どのようにしてご両親と医療者の関係を維持する方法があったのか
そして今でも、あの男の子を小さな体をよく思い出す。自分はあの小さな手を握りながらどうして話しかけてあげて、ご両親にその小さな手をさすることを提案しなかったのか。例え意識が戻らなくても、何かご両親が出来ることを提案できなかったのか。この思いは今でもずっと残り、看病や病人との接し方をご家族と考える(コーチング)として研究を続けている。幸いその概念は海外の医学雑誌に論文として発表できた。

交通事故の頭部外傷で亡くなったびまん性軸索損傷の小児の症例。そんな風に自分の感情を押し殺すために、記憶の引き出しにいれてしまうこともできる。この子を医学の力で救ってあげたかったそんな風に考えてさらに医学の道を研鑽する医者もたくさんいるだろう。でもその時から僕は、もっと緩和ケアの心得をもって、「ただ若い医者が一生懸命」ではなくて、「プロフェッショナルの優しさ」を提供できなかったのか。そんな苦々しい思い出を今でもいつも思い出す。


「がん」に押し込められた、日本の緩和ケアだが、本当は色んな人たちがケアを待っている。

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