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2010年6月

2010年6月30日 (水)

緩和ケア病棟で作り出すハーモニー 〜ある患者さんとの思い出

来週に病棟で七夕会を開きます。その時にバイオリンを弾こうと楽譜の準備をしていたときに久しぶりに思い出しました。2006年12月頃に書いた原稿で、2007年3月号の雑誌「緩和ケア」に寄稿したものです。
今でも良く思い出します。患者さんやご家族とお別れするときには、「あなたのことは忘れませんよ」と心でつぶやいたり、実際にお伝えすることがあります。本当に忘れていることは決してありませんので、どうかご安心ください。記憶が曖昧になってしまうことはありますが・・・
最近、リヒャルトシュトラウスの「四つの最後の歌」を聴いていたらこの時のことがよみがえってきました。

手元には,2枚の写真があります。貴重な時間がそのまま止まったまま,写真のYさんとその時居合わせた他の多くの患者さん,そして僕が写っています。この写真を見る度に,Yさんと一緒に作り出した不思議な時間と体験を今でも昨日のことのように思い出されます。 僕は幼少の頃よりバイオリンを習い,大学ではオーケストラ部に入り,大きな音楽ホールで年に何回も演奏会を開催して,勉学よりもむしろ音楽に打ち込んでいる医学生でした。それでも何とか国家試験を終え医師になってからも少ない時間を工面しながら,地元のアマチュアオーケストラで演奏活動を続けました。 内科医として地域医療に専念したのちに,今の緩和ケア病棟へ転勤し,緩和医療に専念するようになり5年が過ぎようとしています。当初は緩和ケア病棟で音楽活動はほとんどしませんでした。いや,しないようにしていました。というのも,今の職場にも素晴らしい志を持った音楽ボランティアの方々が,僕が病棟に来る前からずっとよい活動をしていましたし,自分は医療の事で精一杯でした。

しかし,今からちょうど2年前のある日その禁を破ることとなりました。 Yさんはピアノの教師でとても多くの生徒さんを教える,演奏者としても指導者としても素晴らしい方でした。初めてお会いした日も,医師としての自分の役割をつい忘れて,「Yさんはどんな作曲家が好きなんですか?」と話し始めてしばらく時間を忘れて話し続けました。お互い自分の好きな作曲家,演奏家の話をして意見を交わしました。Yさんも「音楽の話ができて良かった」と言われ,お互いの人間としての距離がぐっと縮まった気がしました。一方でいくつかの身体症状を抱えて,毎日の暮らしも妨げられるほどでした。そして病棟へ入院し痛みと吐き気をオピオイドや制吐剤を工夫しながら治療しました。うまく薬物の治療も進み症状が緩和されると,ご主人と共に自宅に外泊のために帰る日も増えてきました。 ちょうどその頃は,僕自身もバイオリンを演奏する場所と機会がなかなかなく,合奏の楽しさを知っている僕は音楽をする機会を探していました。そして目の前にいるYさんに,思い切って提案してみたのです。「体調も良くなってきましたし,どうですか?簡単な曲でも一緒に弾いてみませんか?」 この提案にはとても勇気が必要でした。音楽演奏家であれば体調不良で自分がイメージ通りの思った音が奏でられないことや,思ったように音楽世界を組み立てることができないというのは,演奏家にとっては周囲が考えるよりもずっとつらいことです。音を通じて自分を表現することが病気のためにできない,そんな風に思わせるのではないか,演奏することでかえってつらい思いをされないかと内心はとても心配していました。そこで演奏が楽な,構成の簡単な数分の曲をいくつか選び楽譜を見せてみました。 「いいですよ。」Yさんは答えてくださいました。そして病棟のデイルームのあまり上等とはいえないピアノで練習をはじめて,入院中の新たな日課ができたようでした。そして症状が落ち着き体調も食欲も上向きになり退院をする数日前に,デイルームで僕とYさんの2人で小さな演奏会を開きました。観客はご主人ひとりです。 いくつかの曲を弾きながらYさんのピアノ演奏の音と波をうまくつかまえることができるように注意深く僕もバイオリンを演奏し,慣れてくるとだんだんと音楽の世界が広がっていきました。すると,その演奏を聞きつけた病棟に入院中の患者さんや付き添いのご家族がひとり,またひとりと集まってきて知らない間に多くの方々に囲まれることとなりました。「やあ,先生が弾いていたんだ。」と皆さんとても楽しそうな表情で,普段は医師と患者の関係にある皆さんとの,新しくまた不思議な一体感を僕は感じていました。 Yさんは退院され,金曜日の午後に外来に来ていただくこととしました。午後も一番最後に来てもらうようにして,診察が終わったあとは,ご主人とYさん,僕の3人でデイルームに行き,毎週のように新しい曲を合わせたりしながら徐々にレパートリーも増えていきました。また金曜日の夕方のひとときを患者さん達も知っていていつしか,恒例のコンサートとなりました。僕も毎週Yさんと会えるのが,1週間の楽しみとなりました。 ある患者さんのご家族からリクエストを頂きました。そのリクエストに2人で演奏で応える。2人の演奏をご主人が静かな笑顔で見守り,多くの患者さんの心に届く。なんて素晴らしい体験でしょう。これほど素晴らしい音楽体験は今まで味わったことがありませんでした。演奏中は僕もYさんが患者であることすらすっかり忘れてしまい,あれやこれやと演奏についての意見や討論をするようになりました。 楽しい時間は長く続きません。外来通院となり2ヶ月を過ぎたある日,がんは確かにYさんの中で大きくなっていることを医師としての僕はよく知っていました。そして再入院となりました。 2回目の入院後もしばらくは一緒に演奏していたのですが,時々伴奏が乱れたり,うまく息を合わせることが出来なかったりするようになってきました。病状が悪化していることを僕も医師としてよく分かっていましたので,できるかぎりの治療をしながら見守り続けました。演奏に誘うことも難しいなと思いながらも,そのことを話題にせず時間が過ぎていきました。 時折息が苦しくなってきたある日のことです。「先生,もう借りていた楽譜返します。」ある日部屋で僕にYさんは静かに話し始めました。Yさんも自分の病状をよくご存じで,もう演奏することはないと確信されたのでしょう。また律儀なYさんのことですから僕の貸した楽譜を早く返さないとと考えていたのかも知れません。自分自身で自分の死期を予感しているYさんの真剣なまなざしとお言葉でしたが,僕は「いえいえ,まだ持っていてくださいよ。また弾ける日もあるでしょうし・・・」そんな風にしか答えることができませんでした。 楽譜を受け取ることでもう二度と演奏の機会はないことを確認しあう,また(そうです,僕もYさんの残された時間はそれ程ない気がします)というメッセージを,楽譜を受け取ることで伝えてしまうことになると考えて,その時はどうしても楽譜を受け取ることができませんでした。
やはりその日以降もう一度演奏する日はやってきませんでした。亡くなったのちにご家族から手渡された,紙袋に入った僕の楽譜,ピアノの楽譜にはYさんの書き込みがいくつかありました。それは演奏する曲に印がつけてあったり,演奏するときの注意書きのようなものです。その注意書きは今でも消すことができずに僕の手元に残っています。意味のある言葉は一つも書き込まれていませんが,Yさんと一緒に演奏したときの写真,その時のコンサートに参加し,今はもう会うことの出来ない多くの患者さん達の笑顔,今も残る書き込みのある楽譜。 そしてその思い出は,時々お会いするご主人と僕の心の中に,その時の時間の尊さとYさんの思い出はいつまでも忘れることなく生きて続けます。医師と患者という関係を超えたYさんとそれを傍らで見守っていた多くの患者さんとご家族との音楽体験は,僕の心に刻まれ今もこれからも色あせることなく残り続けます。
(Yさんと僕が一緒に演奏している写真の掲載は,Yさんのご主人の承諾を得ております。)

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2010年6月24日 (木)

「降りてきた言葉」「いつまで生きられますか?」

昨日は、大切な同僚の最後の出勤日でした。本当に残念ですが、新しい門出を心から祈っています。普通にいつも通り一日を過ごし、また色んなインスパイアを得ました。それに学会が終わってから、またどういうわけか頭が冴え渡り少し聞こえなかった声のようなものが、良く聞こえるようになりました。(これは幻聴ではない!)
僕の言う「声」というのは、患者さんや家族から何かしら質問や問いかけを受けたとき、何の準備もせず落ち着いたリラックスした気持ちでいるときには、どういうわけか、どこから考えたのかさっぱり分かりませんが、とにかく「応えるべきこと」が勝手に心に浮かんでくるんです。それが心の映像です。

ある40代の女性の方でした。まだ下のお子さんは小学校6年生。MSWとナースとの話を終えて最後に僕の診察室で話す時間になりました。
いつも最初に何から話そうかとその方々の顔を見てから考えるのですが、自然と言葉が出てきました。
「いろいろと大変な毎日みたいですね。今何か最初に聞きたいことがありますか。」
すると、「私はあとどれだけ生きられるのか教えて下さい。」と言われました。そしてその言葉が終わると同時に大粒の涙。
今までの医者達には、やはり限定した余命を聞かされておらず、ご家族はどうやら医者から説明を受けているようでした。

「あとどれだけ生きたいですか?まだまだやりたいことはいっぱいあるんでしょうね」
「まだ息子も小さいですしまだまだ、やらなきゃならないことはいっぱいあるんです。」
「あとどれだけと、何ヶ月、何年と話してもほとんど当たらないので・・・いつも困っているんです。実のところ」
「はぁ、そんなものなのですか。」
「最近ね、(ここからは全く準備のない言葉の数々)いろんな病人の方と毎日一緒に話していると思うんです。昨日と同じ今日、今日と同じ明日そんな風に皆さん生きているんですね。そして今日よりも明日いい日であって欲しいって。」
続けて、「僕だってそうです。健康で働いて未来を見ているように見えますが、昨日と今日、今日と明日。せいぜい今週。そんな風に毎日を過ごしているんですよね。」
「そうですよね」
「僕の経験や得た知識からもし『あなたは来週亡くなります』って話しても、何からしたらよいのか患者さん達はわからないかもしれないですね。いつ亡くなるか知っていても何も変えられないかもしれないって自分のこともふまえてそんな風に僕は思うんです。」
(あまりおしつけないように)
「だから、いつまで生きれるか知りたい気持ちはとってもよくわかります。でも昨日と同じ今日、今日と同じ明日を生きられるようにどうしたらよいか、一緒に考えたいですね。それに今日より明日よくなる方法を考えられたらもっといいですよね。」

そんな風に話しました。今まで見聞きした色んな事の影響はあるかもしれません。毎回初診の患者さんとは話すことを余り準備せず話しを始めます。こういう言葉が降ってくる瞬間は本当に不思議で、自分の肉体を誰かが使っている様な気がしてなりません。それは、初診できた患者さんやその家族のご先祖様なのかなと勝手に空想したりして。とにかく自分の経験から生み出された以上の何か特別な力を感じることが日常できます。そんなときに、ああ、自分はこの仕事を誰かに授かり、使われ、そしてまだ言葉が降ってくる間はここにいたほうが良いのかなって静かに思いました。

ありがとう、40代の女性の初めて会った患者さん。また自分の心の中に浮かぶ映像から、自分が学びを得ました。

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