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2010年5月

2010年5月30日 (日)

患者さんのつぶやき(ツイート)

ツイッターでも掲載した患者さんたちの言葉をこちらにも引用します。

ある患者さんの言葉。「私が、病院に入院してからみんなが(家族や医療者)『どこかへ行くといい』『温泉にでも行ったらどうか』と言うの。がんの患者が末期になったら温泉に行かなきゃいけないものなの?」

ある患者さんの言葉。「この辺りでは有名な、往診で評判がよい○○医院。初めて先生に会ったときにこう言われました。『私たちと仲良くしてくれないと困る』それを聞いて、この人には自分の本音はしゃべれないって思いました。」 枠にはめられるような気がしたとのこと。

ある患者さんの言葉。「医療の人たちがいろいろ考えてくれてもそれはやっぱり健康な人たちの発想。時にはそっと見守ってくれるだけでいい。」

ある方にうまくいっても次に出会う方にうまくいくとは限らない。本当に色んな考えがある。活動に自信が付いてくるとすぐに見失う。当たり前のこと。「みんなちがって・・・」それでも、何かを考え続けないと。
ある勉強会で、質問された。「患者さんのために何かできることはないでしょうか。」
僕自身は患者さんや家族から「こうしたい、ああしたい」と言うことは、知恵を絞り何か方法が考え続けます。でも「外泊しましょ。そうそう、温泉とかどう」とはやらないようにしている。質問された時にも話しを聞きながら思った。
医療者は、患者さんのガイド、道案内役。患者さんの歩く道に、派手な大きな花を、先回りして植えておき、そこを通りがかったときに「この花はきれいですねえ。いやー素晴らしい!!」とはやりたくない。小さな花でも、また花の咲かない草でも「こんなものが咲いていますね、きれいなもんですね」と話しかけたい。

患者さんの人生を輝かせる手伝いは、とても大事だが感動を誘導したり、強要することはしたくない。

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2010年5月21日 (金)

正義は勝つ?

最近、そこここで医療用麻薬の使い方を指導している。以前は製薬メーカー、そして今は緩和ケア研修会で。製薬メーカーで「痛みと麻薬」をテーマに取り上げても、「もういいよその話しは」という人たちも多い。確かにこれは進歩で、いわゆるオピオイドに対するバリアの内、professional barrierが解決してきたという事なんだと思う。でも新たな問題に時々気がつく。

そしてその光景は以前自分が、一般内科医だったときの同僚や上司の姿と重なる。

確かに医療用麻薬は正しく使えば安全だし、痛みをとると言うよりも感じなくするのは、とても大事だと思う。そして医療者は正しく知識をつける必要もある。しかし、その「正しさ」をひたすら、患者さんに説明する医療者を見かけると、これもまた問題だと思う。こういうのを正義の押しつけと思える。

以前働いていた病院で、いつも、糖尿病の患者さんを何かと言っては叱り、一生懸命説明している上司がいた。患者さんを思って、愛情のある叱り方ではなく、何だか糖尿病はこうでなきゃならないっていうその上司の正義を貫くために叱っている様に思えた。そういうやり方は、患者さんを窮屈にして人格を否定するだけになる。
「オレの外来に来るならもっと痩せてこい!」
「ほらまた、HbA1cが上がった。」

禁煙指導もまた然り。医者のタバコに対する憎しみをぶつけるだけになる。患者さんはやっぱり他人。苦労しているのも他人。相手を思う気持ちは大切だけど、何で自分と同じ様に考えないんだ!って叱っても通じない。

とにかく麻薬をイヤだと思う気持ちもよく分かる。

世の中真理はいつもシンプルで、少ない言葉で多くの内容を語る。
でも、正義を振りかざす事も非常にシンプルな方法でかつ、普遍的だと思ってしまうからたちが悪い。「考えることに対して怠惰になった瞬間から、シンプルな理論にすがる。そして考えるのをやめて正義を振りかざす。」

毎回毎回ゼロから考えないとダメだと言うこと。それはいつも仕事を通じて感じる。心のどこかに「まあ、前と同じ感じでいいか。」とか「いつもやるやり方で今回もいこう」と余り考えずに始めることは大抵裏目に出る。そして、周りの人たちもその怠惰を感じ取る。

大変でも毎回毎回。

医学という科学は、ある一面個性を否定することで普遍性を得る。しかしそれは物事の本当に小さな一部分であって、それが全てだと信じて「叱り」続けてしまうと、小さな一部分をとりまく大きな宇宙に気がつかなくなる。

m3.comとか見ているといつも思うのは、医師にcynicismとfrustrationが蔓延していること。特に匿名性が高まるとその傾向が強くなり、そのcynicismはいつも攻撃的な発言を産み出す。そして執拗に医療システムを糾弾する。今のシステムは改善されるべきという意見は自分も同じ。しかし、一方でcynicismを増長していくのも、過労、バーンアウトが関連するということからも、やはりシステムを改善していく必要は大いにある。しかし問題は、cynicismに伴う、攻撃性と思う。これからも冷静に発信し続けたい。

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2010年5月13日 (木)

最期の言葉

今朝方も、お別れがあった。ほとんど一緒に病院で過ごす時間がないままのお別れでした。
どなたにお会いしても、その日からどのくらい一緒にいられるのか、分からぬままそれでも確かに短い別れは約束されている。

残された日々に曇りがないよう、その方とそのご家族とは自分の中ではいつも真剣勝負。闘うわけではありませんが。

一目惚れしてもらえないと、その方々と向き合う事なんて出来ない。
「苦痛をとること」
「優しい言葉をかけること」
「親切にすること」

そんなことよりもまず
「自分を好きになってもらうこと」

「好き」になれない相手は信頼できない。どんな言葉をかけてもどんな理論をぶつけても、どんなエビデンスを応用しても、どんな業績をひけらかしても何の役にも立たない。

しかも毎日色んな人たちがいて、それぞれみんな違う。

今日お別れした方は、自分を好きになるヒマすらなかったかもしれない。もう少しだけ一緒にいたかった。そして最期の言葉を奥さんにかけていた。ほとんどの方はそういう「最期の言葉」は残さない。テレビを見ていると、急に亡くなる前は改まった話しをして、そして急にめをつぶる。そんなの本当じゃない。もっと前から死は始まり、生は終わる。その境目は分からず意識のグラデーションは時間と共に変化していく。
「だんだんと眠っていく」
それが自然な亡くなり方。それでも急に亡くなろうとする方々は、最期まで意識が保たれていることがある。でも他人の僕には決して最期の言葉はない。それは親しい、愛情を分かち合えたご家族にだけ向けられる。今まで立ち会って聞いた言葉たち。それらは、今までと同じ今日を生きるそれだけのことしか分からない。亡くなり行くってそう言うものかもしれない。

Aさん 「わしの自転車は、孫の○○にやれ」
Bさん 「すごいなあ、すごいなあ。人って亡くなる前になると分かるんだなあ」
Cさん 「ありがとうな」

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2010年5月 2日 (日)

世間はGW

多くの人たちが短期間の間に亡くなっていきます。
やっぱりご家族が集まれる時をちゃんと分かっているのかもしれません。

休日の病棟はいつも静かで落ち着いていて、何だかいつもよりも空気が澄んで、静かです。
こういう時を亡くなる時に選ぶのも分かる気がします。

患者さんのほとんどは亡くなることを知らされるのではなく、感じて、悟るんだと思います。
だから亡くなる時期を、何とか選ぼうとするのは当然で、そう言うことも感じているんだと思います。それは何月何日のいつごろというのではなく、周りに取り囲むご家族や色んな人たちの心を読んで、「もう少し先にしよう」とか「いまこそ逝く時だ」とか思いついている気がします。

亡くなる前にはどんな夢、映像を見ているんでしょうか。

こういう話しをご家族とするとまた違う地平が見えてきます。
また、「もう少しみんなと一緒にいたいって思っているみたいですよ」とか「みんなに迷惑をかけないように、今日を選んだんですね」と話すとまた死別に違う意味を付けることが出来ます。
科学的にどうかとかは全くどうでも良いんです。それがこれから生きていくご家族の力になるのであれば。それがケアだと思います。

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